第十五話 削られた冬予算
代官庁の書庫は、地下にあった。窓はなく、壁一面の棚に帳簿と羊皮紙の束が詰め込まれている。紙を食う虫を避けるため、乾いた薬草の匂いが満ちていた。
「保守費は、この六年分です」
ノアが台車を押してきた。
台車の一番下には、ノアが昨夜まで見せなかった灰色の索引簿があった。警報件数と予算査定を結ぶ文書の所在だけを記した、書記官用の案内だ。
「これは調査資料に含まれますか」
蓮人が尋ねる。
「契約には予算書と命令書が含まれます。索引そのものは、代官庁内部資料です」
「では、なぜ持ってきたんです」
「正式に請求された文書へ、最短で到達するためです」
ノアは淡々と答えた。資料を勝手に渡してはいない。隠したままにもしていない。規則の内側に残された細い道を、彼は選んでいた。
積まれている帳簿は、蓮人の胸ほどの高さがある。
「三日で全部を?」
「お望みなら、さらに四年前まであります」
「必要になったらお願いします」
ノアは冗談を言った顔ではなかった。蓮人は文字を読めない。ノアが費目と金額を読み、ミナが設備名を説明し、蓮人が年度ごとの差を尋ねる。
非効率だった。
同時に、一人で読めないからこそ、三人が同じ資料を見ることになった。
「五年前。北塔保守費、金貨四百二十。人員四名。冷却輪交換部品、年二回」
ノアが読む。
「四年前。金貨四百。人員四名。交換部品、年一回」
「三年前。金貨三百六十。人員三名」
「二年前。金貨三百二十。人員三名」
「昨年。金貨二百四十。人員一名」
金額と人が、毎年少しずつ減っている。
「今年は?」
「金貨二百。人員一名。交換部品の購入記録はありません」
「その代わり、清掃回数が三倍になった」
ミナが言う。
「交換できない部品を、洗って使い続けていた?」
「ガルドさんなら、限界まで持たせられます」
それは称賛であると同時に、危険な前提だった。
腕のよい人が何とかする。
何とかできたから、翌年も予算を減らす。壊れないのではない。壊れる直前で、誰かが支えている。
「削減理由は?」
ノアが別冊を開いた。
「王都財政院による辺境支出適正化。障害報告件数が基準未満の設備は、保守費を段階的に削減する」
「障害が少ない設備は、金を減らす」
「はい」
「警報が増えると?」
「重点監察対象となります。改善計画の提出、責任者の処分、場合によっては代官領の格下げ」
つながった。
警報が増える。
王都から問題のある町と評価される。
代官は警報を減らす。
実績上、障害が少なくなる。
障害が少ないから、保守予算を削られる。部品と人が減り、実際の障害は増える。
増えた警報を、さらに隠す。
線が円を描いた。
蓮人の視界に、帳簿と命令書を結ぶ淡い光が浮かぶ。
「逆です」
ミナがつぶやいた。
「何が?」
「私は、障害が少ないから予算が減ったと思っていました。でも予算を守るために障害を少なく見せて、少なく見せたから、もっと予算が減った」
「誰か一人が、この循環を作ろうとしたわけではないと思います」
王都は、限られた予算を必要な場所へ配ろうとした。代官は、町の評価と次年度予算を守ろうとした。結界庁は、規定値内の設備を動かし続けた。
ガルドは、減った人員で水輪を維持した。全員が自分の範囲では合理的に動いた。全体として、町を危険にした。
「この制度を三日で変えることはできません」
ノアが言う。
「でも、今回の報告に書けます。障害件数だけでは保守の必要性を判断できない、と」
「書けば、代官閣下が削るでしょう」
「では、削れない形にします」
ノアは眼鏡を外し、布で拭いた。
「王立監察官へ提出する調査資料は、原本と同じ封印を三部作ります。一部は代官庁。一部は守備隊。一部は監察官へ直接。三部の内容が違えば、封印照合でわかります」
言い終えたあと、ノアの指が帳簿の角で止まった。
「三部作成は、通常なら上席書記官の承認が必要です」
「許可を取れますか」
「取れば、代官庁保管の一部だけになります。守備隊へ渡す理由を認めないでしょう」
「無断で作った場合は」
ノアはすぐには答えなかった。書庫の天井から、上階を歩く靴音が聞こえる。
「臨時書記官の職を失います。封印文書の複製と判断されれば、官吏登用試験の推薦も取り消されます」
「推薦を受ける予定だったんですか」
「冬の試験に通れば、王都の記録院へ入れる可能性があります」
ノアの母は、南区画で仕立て仕事をしている。目を傷め、細い縫い目を長く追えなくなった。弟は十三歳で、来年から学堂の費用が増える。臨時書記官の賃金と王都任官の見込みは、ノア一人の夢ではなかった。
「私が職を失えば、母は仕事を増やします。弟は学堂をやめるかもしれません」
ミナが言葉を失う。
「それでも、三部作るんですか」
「まだ決めていません」
正義を選ぶと言って終われる代償ではない。ノアは灰色の索引簿を閉じ、封蝋を三つ並べた。
「代官庁の一部だけなら、提出前に内容を直す正式命令が出ます。監察官へ直接出せば、私が処分される可能性がある。どちらも記録を守る方法ではありません」
「第三の方法は」
「守備隊保管分を作り、受領時刻と封印番号を公開記録へ残す。消せば、消した事実が残ります」
ノアは初めて、自分の名を封印作成者の欄へ書いた。
「中立でいるためではありません。どちらが強いかに関係なく、あとで同じ事実を読めるようにするためです」
三部を作る作業は、同じ文章を三度写すだけではなかった。ノアが一枚を読み、ミナが二枚目を指で追い、文字を読めない蓮人は数字と署名位置を声に出して照合する。一文字違えば三枚ともその行から書き直した。
夕鐘が鳴るころ、ノアの右手は震えていた。昼食を取っていないとわかり、ミナが書庫番の湯飲みと固い焼き菓子を借りてくる。
「食べながらでは紙を汚します」
「では一行終えるごとに一口」
「効率が悪いです」
「倒れて全部書き直すよりは早い」
蓮人が言うと、ノアは不満そうに菓子を割った。半分をミナへ、さらに半分を蓮人へ渡す。四分の一だけ自分で食べた。
「弟は、この菓子が好きです」
誰へともなく言った。
「王都へ行けば、毎月送ると約束しました」
「約束を失うかもしれないんですね」
「失いたくありません」
それでも筆は止めなかった。勇敢だからではない。怖さを消せないまま、止めれば何が失われるかも知っているからだ。
三枚を書き終えると、ノアは封蝋を溶かした。代官庁用は黒、守備隊用は青、監察官用は白い紐で結ぶ。封印番号を公開記録簿へ記し、書庫番にも読み上げて署名を求めた。
「私は見なかったことにしたい」
老書庫番は言った。
「見なかったことにすれば、あとで見た者が一人減ります」
ノアは頭を下げた。
「私が処分されたとき、三部が同じだったことだけ証言してください」
書庫番は長く迷い、印を押した。協力者を増やすというより、ノア一人へ処分を集中させないための、小さな証人だった。
三部の保管場所も分けた。代官庁用は書庫の耐火箱、守備隊用は北門詰め所、監察官用はノアが持たず商人組合の金庫へ預ける。ノアが拘束されても、三部すべてを回収できない配置だった。
「商人へ役所の文書を渡すのか」
「封印した筒です。開ければ封蝋でわかります」
組合長は善意ではなく、代官庁が預け先を否定するなら市場への説明を求めるという条件で引き受けた。利害の違う者へ分けることが、記録を守る。
ノアは受領書を四枚作った。最後の一枚は母へ渡す私物の封筒に入れる。
「家族を巻き込むんですか」
「何をしたか知らせず処分される方が、もっと巻き込みます」
弟への焼き菓子を買う金が残っていることを確かめてから、ノアは書庫の鍵を返した。監察官用の筒を預けた帰り、ノアは南区画の小さな仕立屋へ寄った。母へ事情のすべては話さず、「王都の推薦がなくなるかもしれない」とだけ伝える。
母は縫いかけの外套から目を上げなかった。
「悪いことをしたの」
「命令どおりではないことをしました」
「誰かの金を盗んだ?」
「いいえ」
「嘘を書いた?」
「書かれたものを消せないようにしました」
針が止まる。
「なら、帰ってきたら理由を聞く。帰ってこなければ、私が役所へ聞きに行く」
許されたわけではない。家族の生活を危険へさらす選択を、あとで説明する責任が増えた。店を出ると、ノアは蓮人へ言った。
「母を証人にはしません。封筒には保管先だけです」
「十分です」
「十分かどうかは、処分されたあとに決まります」
平坦な声へ戻っていたが、歩幅は書庫へ向かうときより少し遅かった。蓮人とミナは急かさず、その歩幅に合わせた。
書庫へ戻るまで仕事の話はしなかった。ミナが弟の好きな菓子の味を尋ね、ノアは蜂蜜より生姜の強い方だと答えた。失うかもしれない約束が、初めて具体的な味を持った。
「そんなことをして、あなたは大丈夫ですか」
ミナが心配そうに問う。
「契約記録を正しく作るのは、書記官の職務です」
ノアは眼鏡をかけ直した。
「中立とは、強い人の指示だけを記録することではありません」
昨日までの彼なら、言わなかった言葉だった。蓮人は次の帳簿を開いてもらう。そこに、一枚の命令書が折り込まれていた。
題は「北塔警報適正化工事」。迎賓館の正常信号を北塔へ接続すること。障害報告を月三件以内に抑えること。
工事完了後、保守責任者が安全性を確認すること。末尾には三つの署名があった。
代官バルガス。
結界庁主任。
そして、保守責任者ガルド・ベッケン。




