第4巻 第31話 補助金の返還
返還の数字は、夜勤表の空いた欄に似ていた。
マレクは家族控室の壁へ、翌月の予算表を貼った。夜勤追加二名の手当。旧館隔離室の保守。非常用蓄魔箱の充填。薬草の緊急仕入れ。移転支援が止まれば、どれが消え、どれを残すために何を遅らせるかを、数字のままにした。
職員だけで決めれば早い。だが夜勤を減らせば、患者が呼び鈴を引いたとき待つ。薬を遅らせれば、家族が何を持って来るか分からなくなる。旧館の保守を減らせば、ナディアの熱を見失う。だから、職員と家族へ先に見せた。
「補助金が止まるなら、誰かが無給で残るんですか」
若い看護補助が訊いた。
「させません」
マレクは答えた。
「私が夜を全部埋めることもしない。補助を回せる人の代わりにはならないからです」
予算表の下には、三つの案がある。
一つ目は、旧館の隔離室をすぐ閉じ、保守費を削る案。二つ目は、外来を減らし、夜勤と旧館の保守を残す案。三つ目は、夜勤の追加をやめ、今いる職員で回す案。
「三つ目は、選びません」
イレナが言った。
「今の人数で回す、は誰かが休まないということです」
マレクは頷いた。数字には、休めない夜勤者の名前が出ない。だから、予算が足りないときほど、一番見えない案として置かれてしまう。
ベルクは薬庫の表を持ってきた。
「外来を減らして夜勤を残すなら、薬草の仕入れは二つの契約を遅らせる。痛み止めの予備が少なくなる」
「患者へはどう説明しますか」
サナの叔母が訊く。
「薬がない夜がある、とだけ言われても、何をすればいいか分からない」
ベルクは、薬の名前ではなく、夜の選択を説明した。予備が少ない間は、薬を増やす前に夜勤と患者が確認する。家から持ち込む薬草茶は、薬師へ先に見せる。急に薬が変わるときは、新館の番号から家族へ連絡する。
「それなら、薬が減ることを隠さないで」
叔母は言った。
「いつまで減るかも書いて。戻る日がないと、私たちはずっと待つ」
書記が、予算表の端へ「見直し日」を書いた。翌月の十日。新館と旧館の移行がどこまで進み、夜勤の負担がどこまで減ったかを、家族の前で確認する日だ。
経理係は、もう一枚の紙を出した。返還の対象になる支援金と、翌月に入らない予定の額。その横に、今月の残りで使える蓄魔と薬草の数がある。
「今日決めれば、来月の夜勤追加は一人にできます」
経理係は言った。
「決めなければ、追加はゼロです」
部屋の空気が静かになった。夜勤を一人増やすことは、単純に人が一人増えることではない。手動補助を回す人が、患者の家族へ電話しなくてよくなる。薬庫のベルクが、鈴と小瓶を一人で見なくてよくなる。旧館へ行く人が、新館へ戻るための交代を持てる。
「その一人は、誰の枠ですか」
イレナが訊く。
「臨時の外来看護者です」
「手動補助を使えますか」
「今は、まだ」
臨時の一人を夜勤表へ置くだけでは、夜が厚くならない。引き継ぎを受ける時間、患者の前兆を知る時間、薬庫の位置を覚える時間がいる。
「追加一人を、今夜の穴埋めにしない」
イレナは言った。
「最初の二夜は、軽症病棟の鈴と薬の引き継ぎを覚える。手動補助の横へ立つのは、そのあとです」
それは夜勤表の数字をすぐ増やさない案だった。けれど、分からないまま一人を夜へ置けば、今いる人が教えながら走ることになる。追加した人が倒れれば、また同じ表へ戻る。
経理係は、その研修の刻も予算表へ入れた。夜勤追加一人の手当だけでなく、引き継ぎをする人の時間も必要になる。数字はさらに苦しくなる。
「外来を減らす以外は」
マレクが訊く。
「完成式の残りの費用を回せます」
書記が答えた。
「ただし、王都へ返すべき帳面の整理が遅れる」
「返礼の宴も」
「中止します」
マレクは迷わなかった。完成を祝うために残していた金を、未完了の夜へ回す。宴をやめることは、患者の補助を回す人を一人増やすことにはならない。だが、薬庫の連絡席と旧館の保守を、見直し日までつなぐ時間にはなる。
外来の看護者は、延期した患者へ電話をかける役を引き受けた。ただし、夜勤のあとにはかけない。昼の二刻だけ、受付係と一緒に説明する。電話がつながらない患者は、薬師が翌日までに訪ねるか、近い診療所へ連絡する。
「つながらない人を、来なかったことにしない」
彼女は紙へ書いた。
家族の署名欄の横には、家族が説明を受けられなかった場合の印も作られた。署名がないから移行に反対、とはしない。つながらないなら、その患者の旧登録を眠らせない。連絡が届くまで、今ある補助で守る。
清掃主任は、旧館の保守を手伝うことを申し出た。
「床と扉の外側なら見られます。隔離室の中へは入らない。夜勤がいないときに、一人で札を替えない」
マレクは、その条件を受け取った。清掃主任を保守係の代わりにしない。彼女ができるのは、床の安全、清掃札、廊下の通路を守ることだけだ。その範囲を超えるときは、作業を止める。
ベルクは、薬庫の旧館予備を小さな箱へ分けた。
「この箱はナディアさんの今夜の分。使ったら新館の夜箱にも刻を書く。補充できない夜は、次の休止を始めない」
薬が少ないことを、患者へ我慢させる理由にしない。補充できなければ進めない、と薬庫が止める権利を持つ。
マレクは、皆の紙を見た。予算を守るために、誰か一人が余分に残る案はない。すべてを同じ速さで進める案もない。外来の延期、宴の中止、引き継ぎの時間、薬庫の停止。代償は分かれ、止める条件も分かれた。
清掃主任は、旧館の隔離室をすぐ閉じる案へ線を引いた。
「ここを閉じれば、保守は減ります。でもナディアさんの熱を、どこで見るかがまだありません」
「閉じる条件が揃うまで、削減にしない」
マレクは言った。
「ナディアさんの名で新館の補助が読める。旧館の熱を切っても新館が受ける。本人と夜勤が移る条件を確認する。この三つが揃うまで、旧館の保守は患者の治療です」
外来を減らす案だけが残った。
待合へ来る患者が増える。診察を遅らせれば、軽い症状を抱えた人が不安になる。マレクは、その代わりに何を残すかを明確にした。夜勤の交代、旧館の保守、薬庫の連絡席。延期する患者へは、次の受診枠と緊急時の連絡先を渡す。
「私たちが署名するんですか」
外来の看護者が訊いた。
「案に従うために?」
「従うためではありません」
マレクは答えた。
「自分が引き受ける役割と、引き受けられない条件を書いてください。夜勤に入るなら、何刻以上続けば交代が必要か。旧館へ行くなら、新館で誰が患者を見るか。外来を延期するなら、誰がいつ説明するか」
紙は賛成と反対の署名欄ではなかった。夜勤の補助に入る人は、二夜連続では入らないと書いた。薬庫のベルクは、旧館の薬を数える夜は、新館の薬箱を一人で持たないと書いた。清掃主任は、隔離室の扉に触れる前に夜勤と保守が揃わなければ作業しないと書いた。
サナの叔母は、家族の欄へ「夜の連絡を受ける」「不明なままの薬変更には同意しない」と書いた。
「それは、移行に反対する署名ですか」
書記が訊く。
「違います。分からないまま進むなら、止める署名です」
叔母は答えた。
イレナは、職員の紙を集めた。誰も、無条件で移行継続へ賛成とは書いていない。だが、患者単位で戻せること、夜勤が交代できること、家族への説明が残ることを条件に、自分の役割へ署名している。
最後にマレクが、院長として署名した。
移行を続ける。ただし、患者、夜勤、薬庫、旧館のいずれかが停止条件を満たしたら、その夜は進めない。
署名を終えたあと、誰もすぐに席を立たなかった。賛成の紙を集めたのではない。今夜できないことと、できる範囲を互いに読んだだけだ。
若い看護補助は、自分の欄をもう一度見た。軽症病棟の鈴の引き継ぎを受ける。二夜続けて夜勤には入らない。手動補助を一人で頼まれたら止める。そこに、自分の名がある。
「これに署名しても、途中で無理だと言えますか」
「言えます」
イレナが答えた。
「署名は、無理をする約束ではありません。無理になったとき、どこで止めるかを皆が知るためのものです」
叔母も、家族の紙を折りたたんだ。
「私が電話に出られない夜は、移行を始めない。それが書いてあるなら、署名します」
彼女は名を書いた。ナディアの家族の代わりではない。サナの家族として、連絡を受ける自分の条件だけを書いた。
清掃主任、ベルク、外来の看護者、受付係も順に署名した。全員が同じ案へ賛成したのではない。旧館を閉じない条件、薬を補充できない夜の停止、外来延期の見直し日、連絡が取れない家族の患者を進めないこと。それぞれの役割と停止条件の下に名が並んだ。
職員と家族は、それぞれが引き受ける役割と、止める条件の下へ正式に署名した。




