第4巻 第30話 完成を取り消す
マレクは、玄関の銘板を布で覆った。
金色の文字には、全機能の移転を完了したと刻まれている。石を外せば、壁に傷が残る。覆えば、今ここへ来る患者や家族は、何かが起きたと知る。
それでも、金の文字を掲げたままにすることはできなかった。
「壊すのではありません」
玄関に集まった職員へ、マレクは言った。
「完了を撤回します。新館を閉めるわけではない。患者を旧館へ戻すわけでもない。移り終えていない仕事を、完了の外へ置かないためです」
清掃主任は、白い札を持っていた。旧館の寝台に貼る札の裏には、設備の切離し、受付の登録、薬庫の返却という欄がある。マレクはその札を見て、今まで銘板が覆っていたものを思った。
「今日から、清掃済みは閉鎖完了ではありません」
彼は言う。
「次の確認者と、次の確認時刻が空欄なら、空床のまま残す」
ベルクには、旧館の予備薬を新館の夜箱へ勝手に戻さないよう頼んだ。薬庫の鍵を一つにする日を、予算や完成式では決めない。患者ごとの旧登録を眠らせ、新館の薬が届くと確かめてからにする。
イレナには、旧館隔離室のナディアを一人の夜勤者へ預けないよう、夜勤表を組み替えてもらう。新館の軽症病棟と重症病棟、旧館の隔離室。今夜は三つの場所を同じ人数で守れない。だから、外来の午後枠を一つ減らし、薬庫の補助を夜へ回すことにした。
「外来を減らせば、待つ人が出ます」
受付係が言った。
「はい」
マレクは答えた。
「待つ理由と、いつ来ればよいかを説明します。何も言わずに、夜だけを守ることはしません」
撤回は、演説で終わらない。誰が今夜どこに立つか。どの薬が翌月まで買えるか。誰の面会を延期するか。完了の印を外すとは、その一つずつを新しく決めることだった。
院長室で、マレクは完成報告の写しへ赤い線を引いた。移転未完了。旧館隔離室の患者記録未移管。夜間補助の二重照合継続。患者単位の一時休止手順を実施中。
書き終えてから、行政へ出す撤回書を開く。
撤回書には、謝罪の言葉だけを書かなかった。旧館の隔離室を今夜どう守るか。ナディアの分類紋を新館で受け取る前に何を確認するか。軽症病棟で旧登録を眠らせた三人を、全病棟の一括解除へ使わないこと。患者と家族へどの番号を渡すか。職員配置と停止条件を、一つずつ添えた。
「ここまで書けば、王都は余計に止めるかもしれません」
書記が言った。
「書かなければ、王都は何を守るために金を出すか分からない」
マレクは答えた。
「未完了を隠して支援を受けることはできない。支援を止めるなら、何が減るかもこちらで先に出す」
経理帳を開くと、翌月に失うものが数字で並ぶ。夜勤追加二名の手当。旧館の保守係の夜番。非常用蓄魔箱の充填。隔離室の暖房に使う小さな蓄魔具。薬草の緊急仕入れ。
マレクは、その数字を「削減候補」と書かなかった。代わりに「守る順番」と書いた。
患者の呼吸補助と隔離室の熱。夜勤の交代。家族への連絡。ここまでは先に守る。外来の午後枠、完成式の返礼、予定していた施設案内は、遅らせる。失うものを黙って夜勤者へ渡さず、日中の患者と行政へも見せる。
清掃主任には、旧館の隔離室を「閉鎖後清掃」から外すよう頼んだ。清掃予定を取り消すことは、部屋を汚したままにすることではない。廊下、洗い場、空床の寝台はこれまでどおり整える。ただし隔離室の扉、寝台の周り、熱の流路は、ナディアの現在の場所として扱い、夜勤と保守係が一緒に確認する。
「掃除を止めるだけなら、また誰かが忘れます」
清掃主任は言った。
「札を変えます。清掃済みではなく、患者確認中。次に来る人と、扉へ触れていい条件を書きます」
彼女は白い札の裏へ、新しい欄を増やした。夜勤確認、保守確認、家族連絡。清掃の仕事を患者の名簿に変えず、次の人が扉を閉めて終わりにしないための欄だった。
ベルクは薬庫で、旧館の予備小瓶を一つずつ数えた。すべてを新館へ移せば、ナディアの熱を守る薬がなくなるかもしれない。残せば、二つの鍵がまた患者紋を読む。
「今夜の分だけ、旧館に残す」
彼は言った。
「残した数、渡した数、戻した数を、新館の夜箱にも書く。旧館だけの薬にしない」
それは余計な手間だった。だが、薬を残す理由と、いつ新館へ渡し直すかが同じ紙にあれば、次の夜に誰かが「古い在庫だから捨てる」と決めずに済む。
イレナは、新しい勤務表を読んだ。夜勤の手動補助をする者、薬庫と患者の間を走る者、旧館の隔離室を確認する者、連絡席にいるマレク。役目は増えたが、一人に二つ以上の「急いで決める仕事」を置かないよう線が引かれている。
「外来を減らした人へ、誰が説明しますか」
彼女が訊く。
「私が説明します」
マレクは答えた。
「夜勤の人が謝ることではない」
彼は外来待合へ出た。午後の診察を延期する患者へ、一人ずつ理由を話す。旧館の患者の名を出すことはしない。けれど、治癒院の移行が未完了で、夜の補助と安全を確認する人が必要だと伝える。
待っていた女性は、怒らなかった。
「なら、次はいつ来ればいいですか」
そう訊いた。
マレクは、曖昧な「また連絡します」と言わず、翌々日の朝に仮の枠を出した。来られない人へは薬師が薬を届ける。延期の理由と戻る時刻を、患者にも渡す。完了を撤回するとは、新館の外にいる人の予定も書き直すことだった。
完了を取り消せば、移転支援枠は止まる。夜勤の追加手当、非常用の蓄魔箱、薬草の仕入れ、旧館の保守費。以前の封書に書かれていたものが、今度は実際の代償になる。
マレクは、書く手を止めなかった。
「新館のために、完了と書いた」
彼は、書記へ言った。
「今は患者のために、未完了と書く」
書記は、撤回書の添付を確認した。ナディアの分類記録は、名前を見られる人を限って別紙にする。軽症病棟の試験結果は、全病棟解除の根拠ではなく、患者ごとの復帰手順として添える。夜勤者の二刻の記録抜けも、誰かの怠慢ではなく、人員配置の不足として書く。
マレクは、職員配置表へ自分の名も書いた。院長室に留まるだけではなく、夜の連絡席へ入る。患者の家族や行政からの返事を、夜勤者が一人で受けないようにするためだ。
「院長が夜勤へ入るんですか」
イレナが訊く。
「補助の輪は回せない。だから、回せる人の代わりにはならない」
マレクは言った。
「ただ、家族への説明、行政への返答、外来の延期を、夜勤者の机へ積まない」
イレナは少し考え、配置表の端に「連絡席」と書いた。そこには、患者の呼吸を見ない人が、夜の情報を受けて次の人へ渡す役として残る。
昼過ぎ、銘板の布の前に、面会へ来た家族が立ち止まった。受付係は新しい案内を渡す。開院完了を撤回したこと。新館は診療を続けること。旧館の隔離室を含む移行を、患者ごとに確認していること。夜に連絡が必要なら、新館の番号へかけること。
案内の最後には、小さく「分からないことがあれば、受付で止めてください」と書いた。面会を延期するか、今夜の連絡先を写せているか、旧館の扉に近づく必要があるか。家族が紙を読んで不安なら、完了の撤回を理解したことにしない。
サナの叔母はその紙を受け取り、連絡先の欄を確認した。
「新館の番号になっている」
そう言ってから、布で覆われた銘板を見た。
「前より、何をする場所か分かる気がします」
マレクは返事をしなかった。銘板が覆われたことで、治癒院が良くなったわけではない。今夜も人手は足りず、ナディアの隔離室は旧館の熱で守られている。ただ、分からないまま置いて帰る人が、受付で止まれるようになった。
家族は不安そうに紙を読んだ。
「また移るんですか」
受付係は、覚えたばかりの言葉を使った。
「勝手には移しません。今いる場所で何が必要かを、患者さんと家族、夜勤の人で確認してから決めます」
その言葉が、銘板の金の文字よりずっと長く、説明に時間がかかることをマレクは知っている。だが完了という短い言葉で、人を置き去りにするよりはいい。
夕方、王都保健局から返書が届いた。
封を切る前に、マレクは夜勤表を見た。新館の軽症病棟、重症病棟、旧館隔離室。今夜の人手は足りていない。それでも、誰がどこで止めるかは、昨日より見える。
書記は、返書と一緒に翌月の見込み表を置いた。移転支援が止まれば、夜勤の追加二名は雇えない。蓄魔箱の予備充填も遅れる。外来を減らして作った今夜の配置を、来月も続けられる保証はない。
マレクはその表へ、患者の名ではなく役割を書き込んだ。補助を回す手。連絡を受ける席。旧館の熱を見る目。どれを失えば、誰がまた一人で抱えるかを、予算の前に示すために。
返書には、簡潔に書かれていた。
開院完了の撤回を受理する。移転支援枠は翌月より停止する。




