第4巻 第27話 退院した一床
サナは、旧館へ行く前に自分の条件を紙へ書いた。
車椅子で行くこと。呼吸補助の予備を持つこと。階段は使わないこと。胸が冷える、息が三回続けて浅い、移転の日のことを聞かれて答えられなくなったら、そこで新館へ戻ること。
「隔離室の中へ入る条件は」
イレナが訊く。
「扉の外までです。中へ入るかは、外で見たことを聞いてから決める」
サナは答えた。
「私が見たいと言っても、イレナさんが新館へ戻ると言ったら戻る」
旧館へ行きたいのは、勇気を見せるためではない。自分の名が二つの館で呼ばれ、夜の補助が白くなる理由を、患者の側から見たいからだ。それでも、身体が苦しくなれば見ないまま戻る。見ないことも、自分で決めた条件だった。
朝のうちに、旧館の三階までの道が確かめられた。保守係が床と手すりを見て、ローデが隔離室の外側の空気を測る。新館には夜勤のイレナと別の看護者が残り、サナの叔母にも、旧館の扉の外まで行くことを伝えた。
叔母は心配そうにしたが、止めなかった。
「帰るときに、今どこまで見たかだけ教えて」
そう言った。
旧館の回廊は、昼でも暗かった。車椅子の車輪が石床の継ぎ目を越えるたび、小さく揺れる。サナはその揺れで、移転の日の荷車を思い出しかけたが、イレナが横で「今は止まれます」と言った。
隔離室の前には、赤茶の札が掛かっている。清掃済みの札ではない。退院と書かれた古い札の上に、別の紙が何度も重ねられていた。
「退院した人の部屋なんですか」
サナが訊く。
ローデは、台帳を開いた。隔離室の番号と、患者の欄がある。そこには、数年前の日付で「退院」と書かれ、旧館の印が押されている。患者名の欄は、古い分類札で伏せられていた。
「帳面ではそうだ」
ローデは言った。
「だが、退院のあとも、隔離室の蓄魔具は点検しろと引き継がれた」
「誰が使うために」
「分からない。俺は、灯と水と薬の残りを見るだけだ」
サナは扉の横に置かれた小箱を見た。中には、細い櫛、布の髪留め、片方だけの手袋がある。寝台の脇には、薬の小瓶が三つ。壁の棚には、小さな木の人形が向けられていた。
物があるから、誰かがいるとは限らない。退院した人の置き忘れかもしれない。ローデが点検のために置いたものかもしれない。誰かの生活を、櫛や手袋だけで決めることはできない。
サナは、木の人形を見たまま訊いた。
「この人形は、誰が向きを変えたんですか」
「分からない」
ローデは言った。
「前は窓のほうを向いていた。先月、寝台のほうを向いていた。俺は触っていない」
「先月のことなら、今ここにいる人の証拠ではない」
ミナが紙へ書き添える。
「でも、向きが変わった刻は記録されていない。誰かが動かしたのか、掃除の風で倒れたのかも、今は分からない」
サナは人形から目を離した。物が話してくれるように見えるときほど、聞こえたことを人の声にしてはいけない。人形は名前を言わない。手袋も、誰が今夜寒いかを教えない。
隔離室の外壁には、小さな水の管が通っている。保守係が耳を近づけると、かすかな流れの音がした。
「水は、いつ動きますか」
イレナが訊く。
「手洗い場と、薬を煮る小釜へ行く。自動の洗浄でも流れる」
「今、流れたことは分かる?」
「量を見れば。だが、誰が使ったかは分からない」
保守係は水の計器を開いた。針は、朝の決まった洗浄より少し多く動いている。けれど旧館の配管には、隔離室だけでなく、使われていない洗い場もつながっている。
「人が湯を使った、と言えますか」
サナが聞く。
「言えない。自動洗浄か、漏れか、古い記録の循環かもしれない」
それも紙へ残る。湯気と水の流れは、同じ刻にある。だが、そこから室内の人を決めることはしない。
ローデは、食器の入った棚の台帳を持っていた。隔離室へ運ぶ食事の欄には、退院の印が押されたあとも、月に一度だけ「温湯」と書かれている。理由の欄は空白だ。
「誰が運んだ」
「昔の配膳係の印だ。今は辞めている」
「今月は」
「記録がない」
サナは、湯気の食器を見た。台帳にないから、誰も運ばなかったとは限らない。台帳にあるから、誰かが飲んだとも限らない。旧館の記録は、どこで終わり、どこから今も動いているのかを、誰も一つの帳面で知らない。
イレナは、サナの呼吸を見た。胸の冷えが増えてはいない。だが、長く座っているため、肩が少し下がっている。
「戻る条件の一つ目です。休んでから、あと半刻で新館へ戻ります」
「まだ見たいことがあります」
サナは言った。
「見られることだけを見ます。扉は開けない」
イレナは少し考えたあと、頷いた。
「半刻ではなく、砂が半分落ちたら戻る。新館で鈴が鳴れば、その前でも戻る」
サナは、自分が条件を延ばす代わりに、別の条件を受け取ることを分かっていた。見たいという気持ちだけで、夜勤者の約束を変えない。今夜の旧館は、自分一人のための場所ではない。
小窓の下には、小さな黒板がある。最後に書かれた文字は消えかけていた。薬の量ではなく、短い数字の並び。ミナは読み上げず、紙へ写す。
「日付かもしれない。時刻かもしれない。今は意味を決めない」
サナは、移転の日に自分の名前が二つになったことを思う。数字や札は、誰かを守るために付けられる。けれど、守る人がいなくなったあとも動き続ければ、今いる人を見失わせる。
ローデは扉の取っ手から手を離したまま、食器を見ていた。
「もし中に人がいるなら、今ここで開けないのはひどいかもしれない」
「もし中にいないなら、ここで開けて蓄魔具を乱すのもひどいかもしれない」
イレナが答えた。
「だから、新館の人手と、室内の空気と、今見えた時刻を一緒に残して、次に開ける条件を決める」
扉を閉めたのは、少ない人手で誰かを押し込まないためだ。サナは車椅子の肘掛けを少し緩めた。
「これは、いつからありますか」
サナが訊く。
「髪留めと人形は、前からだ。薬は……補充の記録を見る」
ローデは台帳の別冊を開いた。薬の棚番号、渡した量、補充した刻が並んでいる。小瓶の栓には、新館が開いたあとの日付がある。
「昨日、補充されている」
ミナが言った。
「誰が」
「記録では、旧館管理」
ローデは首を振った。
「俺は小瓶を補充していない。残りを数えただけだ」
サナは、薬を飲んだ人がいる、と言わなかった。補充された薬が使われたとは限らない。古い記録が勝手に補充を出したのかもしれない。今は、誰が、いつ、何を動かしたかを分けて残す。
イレナが紙へ書いた。小瓶の栓の日付。台帳の補充時刻。ローデが来た時刻。新館の薬庫で同じ薬が動いた時刻。サナは、その紙を見て、自分がここへ来た意味を少し理解した。物を見つけて誰かの物語を作るためではない。今も動いているものがあるなら、今夜の患者を守るために時刻を残すためだ。
隔離室の小窓から、寝台の足元だけが見える。毛布は整えられ、枕も凹んでいない。誰かが寝ている姿は見えない。
「中に人がいる、と言えますか」
サナは訊く。
「言えません」
ローデが答えた。
「でも、誰もいないとも言えない」
サナは頷いた。新館で自分の名が消えたときも、補助具は自分がいないと言った。いるかいないかを、板だけで決められないことを知っている。
胸の奥が少し冷えた。サナは手を上げ、イレナへ合図する。
「少し休みます」
車椅子を回廊の壁際へ寄せる。誰も急いで扉を開けない。温めた湯を一口飲み、呼吸が戻るのを待つ。サナは休んでから、もう一度小窓を見ることを選んだ。
そのとき、室内の棚で小さな音がした。
ローデが扉へ近づくのを、ミナが止める。
「まず、時刻」
イレナが紙へ刻を書いた。小窓の内側、低い卓に置かれた食器から、細い湯気が上がっている。
保守係は、扉の横の温度計を見た。隔離室の外は冷えているのに、小窓の近くの針だけが朝の薬湯と同じあたりを指している。蓄魔具の残りだけで温められたのか、誰かが今、湯を置いたのかは分からない。
「触らずに、湯気が消えるまで見ます」
ミナが言った。
「消える刻も残す。食器を運んだ人を決めるのは、そのあと」
サナは小窓から目を離さなかった。湯気があることは、ここに人がいる証明ではない。けれど、今朝の冷えた旧館に、今朝の温かさが残っている。自分の名が二つに分かれた夜と同じように、誰かが「いない」と言った記録だけでは、目の前のことを閉じられなかった。
イレナは新館へ、サナの呼吸は安定していることと、旧館の確認をあと少しで終えることを伝えた。新館から戻った声は、軽症病棟も重症病棟も今は安定している、ただし次の鈴で旧館班は戻る、というものだった。
ここに留まる時間も、扉を開けない判断も、誰かが一人で抱える夜にしないための条件だった。
隔離室の食器には、当日の湯気が残っていた。




