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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第4巻 第28話 隔離室の人

新館側の夜勤を確保し、当直医と保守係が室内の空気、床、補助具の残留灯を再確認した。番号だけの補助要求は続いている。ローデがすぐ閉じられる幅だけ扉を開け、マレクとイレナは入口に留まった。


 扉を開けたとき、マレクは最初に謝った。


 隔離室の中には、女性がいた。


 寝台の上で、薄い毛布を胸まで掛けている。年は分かりにくい。髪は短く切られ、枕元には湯の残った食器と、小さな木の人形が置かれていた。女性は扉が開く音に目を向けたが、すぐには言葉を返さなかった。


「驚かせてしまいました」


 マレクは扉の外に立ったまま言う。


「私は新治癒院の院長です。今すぐ何かを変えるために来たのではありません。ここが寒くないか、薬が足りているかを確かめに来ました」


 女性は、しばらくマレクを見ていた。やがて小さく首を横へ振る。寒くない、なのか。足りている、なのか。今は動かないでほしい、なのか。マレクには分からない。


 ローデが、寝台の脇へ行く前に女性へ手を見せた。


「ナディアさん。ローデです」


 女性の指が、毛布の端を少しだけ握った。


「湯はぬるくなった。新しいのを持ってきていいか」


 今度は、女性がゆっくり頷いた。


 ローデは扉の外へ出て、保温の器を受け取る。マレクはその背を見た。管理人が閉鎖済みの隔離室へ湯を運び、薬の残りを数え、蓄魔具の灯を守っていた。規則だけを見れば、報告せず患者を残したことになる。


 だが、寝台にいるナディアの顔を見れば、その言葉だけでは何も説明していない。


「いつから、ここに」


 マレクが訊くと、ローデは湯を置いてから答えた。


「移転の前からです。ナディアさんは、外の病室へ出ると息が乱れる。人が多いと、補助具の音にも驚く。旧館の隔離室で、ゆっくり慣らすよう医師から言われていた」


「移転の対象に入っていなかった」


「入っていたかもしれない。だが、俺へ届いた紙には『隔離継続』としかなかった」


 ローデは古い綴じ帳を開いた。患者名ではなく、赤茶の分類名が書かれている。外部非接触。隔離継続。夜間補助。そこには新館の病室番号も、家族の連絡先もない。


「誰へ報告した」


「旧館の夜勤責任者へ。移転班の書記へ。新館の受付へも、一度口で言った」


「口で?」


 「書く欄がなかった」


 ローデの声は強くなかった。言い訳をする人の声でもない。ただ、紙に書けなかったものを、何度も誰かへ渡した人の声だった。


 ローデは、隔離室の棚から薄い紙束を出した。公式の台帳ではない。湯を替えた刻、薬の小瓶を見た刻、ナディアが目を開けていた刻だけが、短い字で書かれている。


「これは、誰にも出していない」


「なぜですか」


「正式な帳面じゃない。名前も書いていない。出せば、勝手に患者を隠していた紙になると思った」


 紙の上には、いくつもの夜が残っていた。『湯、半分』『人形、寝台内側』『窓の板、閉める』『呼吸、速い。声を掛ける』。医療の記録としては足りない。だが、ここで一人が何を見て、何をしなかったかは分かる。


「これを、今から正式な記録にしろとは言いません」


 マレクは言った。


「ただ、今夜からはローデさんだけの紙にしない。夜勤が読む紙、医師が読む紙、ナディアさんが嫌がることを尊重する紙へ分ける」


「俺の紙は、間違っていたか」


「一人で持つしかなかったことが、間違っていた」


 ローデは紙束を見下ろした。口頭で何度も伝え、届かず、最後には自分の紙だけを信じた。新館の完了表が来たあとも、隔離室の灯を消せなかった。


「ナディアさんを守るために、俺は扉を閉めた」


「はい」


「扉を閉めたままにして、誰にも見せなかった」


「それも、今から変えます」


 マレクは、責任をローデの勇気や臆病さだけへ置きたくなかった。隔離継続という分類は、患者名を伏せ、移転の箱から外し、口頭で渡すしかない形を作った。管理人が一人で湯を運ばなければならない運用にしたのは、古い分類を読める人を、組織の外へ押し出したからだ。


「新館の誰が、ナディアさんを知っていますか」


 マレクが訊く。


「医師は、前の主治医が一度だけ来た。夜勤者は、移転の前に二人。だが今は別の病棟だ」


「家族は」


 ローデは、すぐ答えなかった。


「連絡帳に一人だけ名がある。だが、何年も返事がない」


 マレクは、その不在を、家族がいないという意味にしなかった。連絡が届かなかったのか、返すことができなかったのか、紙だけでは分からない。


「今夜、連絡を取るために人を出すことはしません」


 マレクは言った。


「まずナディアさんに、今ここに誰が来てもよいか、どんな時間なら話せるかを聞く。返事が難しければ、夜勤者が今の反応を見ながら、急がない」


 ナディアは、湯の器へ目を向けていた。ローデが湯を口元へ運ぶと、彼女は自分で少しだけ身体を起こす。すぐには飲まない。器の縁に指を置き、温度を確かめるようにしてから、一口飲んだ。


 それを見て、イレナは新しい紙へ書いた。温度を確かめるまで待つ。器を急に口元へ寄せない。飲まないときに、すぐ薬の問題だと決めない。


 マレクは、その紙が患者の人格を決めるものではないと知っている。ナディアの一口が「移転を望まない」とも、「新館へ行きたい」とも言わない。ただ、今この隔離室で、彼女が自分の速さを持っていることは分かる。


 保守係が、隔離室の熱の流れを示した。小さな蓄魔具が、旧館の古い患者紋から補助を受けている。新館の窓印とは繋がっていない。


「この紋を休止すれば、暖かさも止まる可能性があります」


 ミナが言う。


「だから、ナディアさんの紋を軽症病棟の手順で眠らせることはできません」


 マレクは頷いた。旧館に残った一床は、全病棟一括解除の漏れではない。一人の患者が今も必要としている熱と補助を、古い分類名でしか受け取れない状態だった。


 完成の外に残ったのは、書類の一行ではない。ナディアという人だった。


 「隔離継続の患者がいる。寝台は空にするな。薬と湯の帳面を残せ、と言った。新館が開いたあとも、誰かが来ると思った」


 誰も来なかった。


 マレクは、完成式の銘板を思い出す。全機能の移転完了。その言葉を出したあと、旧館には患者がいないという前提で、清掃、薬庫、鍵、夜勤が分かれていった。ローデの口頭報告は、それぞれの仕事の端に触れただけで、誰かの完了表へ入らなかった。


「私が、ここに人がいないと決めた」


 マレクは言った。


「ナディアさんを見ないまま」


 ローデは首を振った。


「院長が一人で決めたんじゃない。俺も、扉を開けて新館へ連れて行けとは言わなかった。ナディアさんが怖がるのを見ていたから」


「それでも、今の場所と今後を、本人と一緒に決める紙を作るべきだった」


 マレクは答えた。


「あなたが湯を運び続けることで、守れた夜はある。でも、あなた一人が休めない形で患者を残した」


 ローデは、否定しなかった。


「最初は、数日だと思った。新館の人が来るまで。次の週になり、帳面の名前がなくなっていた。扉を開けて誰かを呼べば、ナディアさんはまた移されると思った」


 ナディアは二人の声を聞いていた。毛布の端を握る手が、少し強くなる。マレクは話を止めた。


「今、移す話はしません」


 彼はナディアへ言った。


「あなたが今いる場所で、何が必要かを、まず聞きます。ローデさん一人ではなく、夜勤と医師と、あなたが選べる人が一緒に」


 ナディアは、木の人形へ目を向けた。ローデがそれを寝台の内側へ少し寄せると、彼女はゆっくり息を吐いた。


 マレクは、その動作を移転への答えにせず、人形が近くにあると落ち着く、という今の事実だけを受け取った。


 ミナは隔離室の壁の盤を見ていた。患者名ではなく、赤茶の分類名が表示されている。ナディアという名は、どこにも出ない。


 盤の下には、古い注意書きが残っていた。『分類紋を変更する場合、隔離継続の解除と同時に行うこと』。患者を新しい寝台へ移す手順ではなく、隔離という扱いそのものを終えるときだけ、名へ戻す仕組みになっている。


「この分類名は、病気の名前ですか」


 マレクが訊く。


「違います」


 ミナは注意書きを読んだ。


「外部との接触を制限している患者を、旧館の隔離設備へ繋ぐための分類です。治療の名前でも、本人の名前でもない」


 ナディアが、木の人形へ指を伸ばす。ローデがそっと近づけると、指先が人形の頭に触れた。


 マレクは、盤の赤茶の文字と、その指先を見比べた。分類名が、今夜の熱を守っている。だが分類名のままでは、新館の受付も家族の連絡先も、患者としてのナディアへ届かない。


「分類を外すことと、ここから出すことを同じにしない」


 マレクは言った。


「まず、ナディアさんの名で、今いる場所の治療と連絡を作る。隔離を終えるか、移るかは、そのあと本人と一緒に決める」


 「この紋は、新館の患者紋と違います」


 ミナが言った。


 「旧館の患者識別紋ではなく、今もまだ古い分類名に固定されている」

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