第4巻 第26話 旧館の灯
旧館へ向かう前に、イレナは新館の夜勤表を二枚に分けた。
一枚は新館に残る人のため。もう一枚は旧館へ行く人のためだ。旧館で補助要求が出たからといって、新館の患者を薄くするわけにはいかない。今夜も呼び鈴は鳴る。軽症病棟で旧登録を眠らせた患者もいる。重症病棟には、返事のできないアデルがいる。
「私は旧館へ行きます」
イレナが言うと、ベルクはすぐに首を振った。
「新館で手動補助を回せる人が減る」
「だから、私一人では行かない。旧館の入口までで交代します」
イレナは表へ指を置いた。新館には朝番から残ってくれた看護者と、当直医、ベルク。旧館へはイレナ、ミナ、ローデ、そして建物の安全を見る保守係が一人。レントは二つの館の間の回廊に残り、どちらから中止の声が来ても、人を戻す役だ。
「新館の白灯が出たら」
「私は戻る」
「旧館で患者が見つかったら」
「私が戻れないなら、旧館の中へ入らない」
イレナは答えた。
使命感で言えば、補助を求める一床があるなら、すぐ走るべきだと思う。けれど走って行った先で、新館の患者が白くなれば、自分は二つの寝台を一人で選ぶことになる。選ばないために、先に戻る条件を置く。
旧館の入口には、閉鎖の札が風で鳴っていた。ローデが鍵を開ける前に、保守係が壁の確認灯を見た。赤の確認灯は遠隔の信号を受けている。だが、床が安全か、空気が澄んでいるかを示す灯ではない。
「一階の流路は止まっています。非常扉と警報鐘の蓄魔は残っている」
保守係が言う。
「三階へ上がる前に、階段の手すりと床を見ます。崩れがあれば引き返す」
イレナは、自分の足元を見た。夜勤靴のまま旧館へ入る。患者を抱えるためではない。新館へ戻るとき、走れるようにするためだ。腰の袋には、手動補助用の小さな蓄魔具と、呼び鈴の札、砂時計が入っている。
「砂時計は誰のためですか」
ミナが訊く。
「私のため」
イレナは答えた。
「半刻たったら、新館の様子を聞く。返事がなければ、旧館の確認を止める」
以前なら、旧館の異常を見つけるまで止まらなかったかもしれない。夜勤が足りないときほど、自分の手で見つけなければと思う。だが今は、見つけることより、戻れることを先に決める。
一階の廊下は冷えていた。洗われた床には、清掃の白い札が残っている。寝台は壁際へ寄せられ、布のない枠だけが並ぶ。誰もいないはずの場所を歩くと、看護者としての体が、次の呼び鈴を待つように緊張した。
イレナは一階の詰所跡で足を止めた。壁には、旧館の夜勤帳を掛けていた釘が残っている。帳面は新館へ運ばれたが、釘の下には色の濃い跡があり、誰がどの部屋へ先に行くかを、かつてここで決めていたことが分かる。
「旧館の夜勤は、何人でしたか」
イレナがローデへ訊く。
「普段は二人。冬の夜は三人」
「今夜、新館は」
「軽症と重症を合わせて四人。だが薬庫と受付を入れれば、同じようなものだ」
人数だけを比べても意味はない。旧館では薬庫と詰所が隣にあり、鈴の音を聞けば一人が薬を持ち、もう一人が寝台へ行けた。新館では病室は広く、家族控室もある。日中には良い配置だが、夜は人が廊下を歩く時間が増える。
「旧館へ向かう人を一人増やせば、新館の鈴を見る人が一人減る」
イレナは言った。
「だから、ここで患者が見つかったとしても、私が全部の夜勤を持つわけにはいかない」
ローデは頷いた。彼も、旧館の灯を一人で守ってきた。だが今夜は、管理人がいるから夜勤者を減らせる、と考えないでほしいのだろう。
保守係が、一階の流路札を見た。
「三階の隔離室へだけ、細い熱の流れが残っています。ほかの病室の暖房は切れている」
「建物全体の熱ですか」
「違います。隔離室の補助具に直結した小さな流れです。切るには、三階の盤を確認する必要がある」
イレナは、その言葉をすぐ操作へつなげなかった。熱が残っているなら、誰かが寒くないということかもしれない。だが、熱を切れば安全になるとも限らない。隔離室の中に人がいるなら、暖かさは今夜の命綱かもしれない。
「切る条件は」
「室内に人がいない。別の場所から補助を要求していない。残留灯が消えている。この三つです」
「今は、どれも確認できていない」
「はい」
イレナは砂時計を見た。半刻の砂が半分ほど落ちている。新館の様子を聞くまで、あと少し。旧館の廊下で立ち止まり、手を動かさないことは、逃げではない。今夜の人手で確認できないものを、確認したことにしないためだ。
ミナが旧館の盤を見ていた。
「隔離室側の一床だけ、補助要求の線が新館へ触れています」
「患者名は」
「出ません。番号だけです」
イレナは、夜勤者として、名のない番号を患者と呼ぶことにためらいを覚えた。寝台が補助を要求することと、そこに今人がいることは同じではない。だが、名がないからといって、誰もいないと決めることもできない。
「新館の患者を優先したまま、旧館の番号を確認する」
彼女は言った。
「番号だけの要求に、私たちの夜を全部渡さない。けれど、切り捨てもしない」
レントが回廊から短く答えた。
「そのための交代を、今から作ろう」
新館の朝番が、軽症病棟を一巡したあと、旧館の入口まで来られるかを確認する。来られないなら、扉は朝まで開けない。イレナが戻るまでに新館で白灯が出れば、旧館の調査は翌日へ回す。予定は一つずつ声に出して、伝声管の両側へ残された。
イレナは、旧館へ入る班の名を紙に書き、半刻ごとに交代確認をする欄を作った。誰かが「まだできる」と言い続ける形にしないためだ。砂が落ちれば、できるかではなく、次の人がいるかを確かめる。
二階へ上がる途中、伝声管からベルクの声が届いた。
「新館、軽症病棟は安定。アデルさんも手動補助なし」
イレナは砂時計を返した。
「旧館、二階まで。三階へ上がる」
ローデが先に立ち、保守係が手すりを確かめる。ミナは盤の灯を見ながら、旧館の患者紋がどの階へ向かうかを紙へ写した。レントは回廊から、どちらの館にも入らず声を聞いている。
三階の廊下は、ほかの階より暗かった。窓が板で塞がれ、壁の確認灯だけが細く残っている。隔離室側へ近づくと、冷えた空気の中に、わずかに薬草を煮た匂いが混じった。
「匂いがします」
イレナが言う。
「古い薬庫の残りかもしれない」
ローデは答えたが、足を止めた。
隔離室の前には、ほかの病室と違う札が掛かっていた。清掃済みの白札ではなく、古い赤茶の札。文字は擦れて読めない。扉の下から、細い光が漏れている。
「中に入る前に、確認します」
イレナは言った。
「新館の患者が白くなったら、ここは開けない。床の安全、空気、補助の残留灯を見てから」
保守係が扉の脇にある小窓を開けた。中の空気を確かめるための細い管を差し込み、青い試薬の色を見る。赤の警報灯は出ていない。だが、室内の蓄魔具がまだ動いているかは別だ。
そのとき、新館から短い鈴が鳴った。
イレナの手が、腰の袋へ伸びる。
「東病室、確認の鈴です」
ベルクの声が管から届く。
「患者は返事あり。朝番が見ています」
イレナは、扉の前で一度目を閉じた。今、ここへ入りたい。中に誰かがいるなら、夜勤者として見つけたい。
「私は新館へ戻る」
彼女は言った。
「まだ確認の鈴です」
「確認の鈴でも、戻る条件にした」
ミナが頷いた。ローデと保守係が残り、扉は開けない。イレナは階段へ向かう。走りながら、半刻の砂が落ちきる前に自分で決めた条件を守れたことを、少しだけ苦く思った。
回廊へ戻る途中、ベルクがもう一度伝える。
「新館、鈴は水の希望。問題なし」
イレナは足を止めなかった。問題がなかったことは、旧館へ戻ってよい理由ではない。新館の夜を一度見て、交代した人が休めるかを確かめてからだ。
軽症病棟へ入り、患者の顔を見て、鈴の紐が手元にあることを確認した。アデルの寝台では、朝番が温めた湯を用意している。誰も白い灯を見ていない。
イレナは朝番へ、旧館の扉はまだ開けていないと伝えた。
「次は、あなたが旧館へ行きますか」
朝番は訊いた。
「いいえ。私が戻ってから、誰が行けるかを決める」
旧館へ向かう人を増やすことと、新館を薄くすることは同じではない。今夜の人手で守れる範囲を、患者の前で決める必要がある。
少しして、ローデから伝声管が鳴った。
「三階の扉は開けていない。だが、小窓から見えた」
「何が」
「隔離室だけ、暖かい」
ローデの声は、驚きよりも確かめるように低かった。三階のほかの病室では、窓際の金具まで冷え、床に置いた試薬の青も動かなかったという。隔離室の小窓だけ、内側から息を当てたように曇っている。
イレナは、新館の病室で朝番が患者へ湯を渡している光景を思い浮かべた。旧館の隔離室の暖かさが、誰のために残っているのかはまだ分からない。だからこそ、今夜の人手だけで扉を開ける理由にはならなかった。




