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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第4巻 第25話 代理同意の空欄

マレクは、空白の代理人欄を前にして、医師だけで移転を決めてきたことを認めた。


 新治癒院への移転では、意思表示できない患者について、担当医が治療上の必要を記し、院長が移送を許可した。呼吸補助が続くこと。薬が切れないこと。新館に同じ処置があること。そこが確認できれば、患者を運ぶ判断はできると考えた。


 当時、それは必要な手順だった。旧館の雨漏りは薬庫へ近づき、冬の前に患者を移さなければならなかった。医師が決めなければ、誰も荷車を出せない。家族が遠い患者もいる。返事のできない患者を前に、待つことがそのまま危険になる夜もあった。


 だが、治療を続ける判断と、本人の夜をどう変えるかを決める判断は同じではない。


 アデルの姉は、家族控室で移転書類を読んでいた。署名欄には医師と院長の印がある。姉の名は連絡先にだけあり、代理人の欄は空白だ。


「私が署名しなかったから、妹の移転が間違いだったとは言いません」


 姉は言った。


「旧館に残れば、もっと苦しかったかもしれない。でも、今、旧登録を眠らせることまで、先生たちだけで決めていいとは思わない」


 マレクは頷いた。


「決めてはいけません」


「では、誰が決めるんですか」


 答えを急げば、また一人の名を空欄へ押し込むことになる。


 マレクは、アデルの夜勤帳、生活歴の紙、医師の診療録を机へ並べた。夜勤帳には、今の呼吸と触れられる前の反応がある。生活歴には、姉が知る冷たい布への苦手さと、左腕へ触れる前に声を掛けることがある。診療録には、今の治療と緊急時の補助がある。


「一人の署名で決めない形にします」


 マレクは言った。


「医師は、休止しても治療が続くかを見る。夜勤者は、今夜の身体でどの変化なら止めるかを見る。家族や、生活を知る人は、本人が嫌がることと、連絡を待つ条件を伝える。受付は、その人たちへ連絡が届くかを確認する」


「それで、誰が最後に止めるんですか」


 姉が訊く。


「判断に関わる人は、それぞれの条件で止められるようにします」


 マレクは答えた。


「医師が危険だと言えば止める。夜勤者が今夜は無理だと言えば止める。家族が、説明を聞いても決められないと言えば止める。患者本人の反応が、今夜の条件を満たさなければ止める」


 姉は少し眉を寄せた。


「止める人が多ければ、何も進まないのでは」


「進まない夜があっていい」


 マレクは言った。


「進めるために、返事のできない人を一人の署名へ押し込んだことが、今の空白を作りました」


 院長として、決められないと言うのは苦しい。予算も夜勤も待ってくれない。重症病棟の旧登録を残せば、軽症病棟で得た成功を広げられない。だが、急ぐ理由があることを、本人の代わりに選べる理由へしてはいけない。


 マレクは、移転の日に自分が見た書類を思い出した。荷車の順番、呼吸補助の有無、医師の署名。そこには、患者を安全に動かすための情報があった。だが夜の移行で必要になるものは別だった。誰が触れる前に声を掛けるか。家族がどこで電話を待つか。眠れないとき、誰が「今日はやめる」と言えるか。


 医師だけで書く紙には、その言葉を入れる場所がなかった。


「代理人欄を埋めれば、問題が解決するわけではありません」


 マレクは、集まった職員へ言った。


「一人の名を書けば、その人がすべてを知っているように見える。けれどアデルさんの姉は、生活を知っている。夜勤者は今の身体を知っている。医師は治療の限界を知っている。誰も、全部は知らない」


 受付係が、空欄の下に小さな線を引いた。


「では、欄の名前を変えますか」


「代理人とだけ書かない。今夜の判断に関わる人、とします」


 マレクは答えた。


「生活歴の提供者。夜勤の観察者。治療の確認者。連絡の受け手。それぞれが何を言えるかを書き、何を決められないかも残す」


 イレナは夜勤帳の例を作った。生活歴の提供者は、冷たい布を避けてほしいと言える。だが、旧登録を休止しても安全だとは言えない。夜勤の観察者は、今夜の呼吸が普段と違うと止められる。だが、家族が夜に連絡を受けられるかは決められない。医師は補助の下限を示せる。だが、本人が過去に何を嫌がったかは知らない。


「空欄が残ることもあります」


 姉が言った。


「ええ」


 マレクは頷く。


「空欄が残るなら、その夜は休止しない。空欄を埋めるために、家族へ『決めて』と言わない」


 それは、これまでの院長としての自分なら受け入れにくい条件だった。準備が整わない患者を待てば、旧館の問題は残る。夜勤者の負担も消えない。補助金の期限も近づく。


 しかし、空欄を急いで埋めて完了にすれば、患者紋の保留と同じことを繰り返す。書類では一人の名がある。現場では、誰も何を引き受けたか分からない。


 医師長は、診療録の新しい欄を指した。


「緊急の場合はどうしますか。患者が急変し、家族の確認を待てないとき」


「治療は待ちません」


 マレクは言った。


「呼吸を守るための補助、痛みを和らげる処置は、今までどおり医師と夜勤が判断する。ここで決めるのは、旧登録を休止するような、今夜しなくても治療を止めない操作です」


 その線を引くと、姉の肩が少し下がった。妹が苦しいときまで、書類の空欄を理由に手を出さないと言われたわけではない。夜を変える操作だけは、急がないと言われたのだ。


 受付係は、家族への連絡紙も作り直した。「移行を始める前に確認すること」「夜中に連絡する条件」「連絡がつかない場合は休止しないこと」。家族が読んで、分からないならその場で止められるように、細かな術式の言葉は入れない。


 アデルの姉は、その紙を最後まで読んだ。


「これは、妹に何かをする紙ではなく、しないことを決める紙なんですね」


「今夜は、そうです」


 イレナが答える。


「生活歴を受け取って、今の看護へ使う。でも旧登録は眠らせない。姉さんが決める人にならなくても、妹さんの嫌がることを減らせます」


 マレクは、そこに初めて別の完了の形を見た。書類へ署名を集めることではない。誰が止められるかを、患者のそばで分けて残すこと。院長が一人で決めないことは、責任を捨てることではなく、止める権利が届く場所を作ることだった。


 イレナは、夜勤帳の端に新しい欄を作った。


 生活歴で尊重すること。今夜の観察。中止を言える人。連絡がつかないときの扱い。


「アデルさんの姉には、今夜の中止を求める権利があります」


 イレナが言った。


「でも、姉だけが『続ける』と署名する紙にはしません。続けるなら、医師、夜勤、家族がそれぞれ今の条件を読んだことを残す」


「私がいない夜は」


 姉が訊く。


「受付が、連絡が取れる人を確認します。つながらなければ、休止は始めません」


 受付係は、新館の連絡帳を開いた。姉の名だけでなく、夜に出られる叔父、昼に連絡を受ける隣人を、本人の家族が選んで書ける欄を作る。誰が代理人かを決めるためではない。夜に中止が必要になったとき、誰が状況を知り、誰へ伝えるかを消さないためだ。


 医師長は、診療録の余白へ書いた。


 休止の可否ではなく、休止した夜に変えてはならない治療。呼吸補助の下限。薬を増やす前に夜勤へ連絡すること。


「医師の印は、これだけで進めてよい印ではなくなります」


 マレクは言った。


「今夜の条件を読んだ印にする」


 アデルの姉は、木の匙を袋から出し、机へ置いた。


「私は、妹が冷たいものを嫌がったことしか言えません」


「それで十分です」


「十分じゃないでしょう」


「全部を決めなくていい、という意味です」


 マレクは答えた。


 「妹さんの代わりに署名をするためではなく、妹さんが嫌がったことを今夜の看護へ渡すために、ここにいてください」


 姉は、今夜の欄へすぐ署名しなかった。代わりに、連絡を受けられる時間と、つながらないときは休止を始めないことを読んだ印を付けた。


「私は、妹のために決める人ではない。でも、決められないまま進めないようには言えます」


 マレクはその言葉を、院長の印より重く受け取った。代理同意とは、誰か一人を患者の代わりに立たせることではない。患者の夜が、知らないところで早く進まないように、止める人と条件を残すことだった。


 医師長も夜勤帳の余白へ、自分の名を書いた。ただし「可」とは書かない。今夜の治療下限を確認し、異常なら中止する、と書く。進める許可より、止める条件を先に渡すためだった。


 姉はしばらく木の匙を見ていた。それから、生活歴の紙に自分の名を書いた。代理人欄ではない。アデルが嫌がる処置と、夜に連絡を受ける条件の横に。


 そのとき、旧館からの伝声管が鳴った。


 紙の上で止める条件を作ったばかりの部屋に、古い館からの音だけが、あまりに急に届いた。


 ローデの声が、短く響く。


「旧館三階。隔離室側の一床が、補助を要求している」

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