第4巻 第24話 返事のできない患者
重症病棟の奥では、窓の外の朝がゆっくり明るくなっていた。
レントは寝台のそばに立たず、扉の横でイレナを待った。寝台には、長く意識が戻らない患者が眠っている。呼び鈴は手の届くところにあるが、指は紐を握れない。呼吸補助の管が胸元から壁へ伸び、朝の灯がその上を白く照らしていた。
「この方は、今夜の候補にはしません」
イレナが小声で言った。
「まず、本人が何を嫌がるか、どんなときに苦しいかを、私たちがどこまで知っているか確認します」
患者の名はアデル。高熱のあと意識を失い、半年以上治癒院で過ごしている。医師の診療録には病状と薬の量、呼吸補助の設定がある。だが、眠る前に何を怖がったか、体を動かせないとき何を望んだかは、紙の端にほとんど残っていない。
アデルの姉は、家族控室で待っていた。膝の上には、擦り切れた布袋がある。中には、アデルが入院前に使っていた髪留め、小さな木の匙、手紙の束が入っていた。
「夜の登録を止める話だと聞きました」
姉は言った。
「アデルに返事はできません。私が代わりに決めるんですか」
「今、決めてほしいわけではありません」
レントは答えた。
「アデルさんが以前どんなふうに苦しさを示したか、何を嫌がったか、夜勤の人が知っていることと一緒に確認したいんです。分からないことは、分からないまま残します」
姉はすぐには頷かなかった。
「家族が話したことを、停止条件にするんですか」
「そのままにはしません。家族の記憶だけで、今の身体へ当てはめることもできない」
レントは言った。
「夜勤が今見ていること、医師が分かっていること、家族が知っている生活のことを並べる。重ならないなら、勝手に一つの答えにしない」
イレナは、アデルの夜勤帳を持ってきた。そこには、呼吸が浅くなった刻、痰を取り除いた刻、手の温度、眠りの深さが書かれている。以前の夜勤者の字で、「左の腕を触ると眉が動く」「口元を拭く前に、手を温める」と小さく添えられていた。
朝番へ替わる前の看護者が、帳面を覗き込んだ。彼女はアデルの担当を長くしている。
「眉が動くのは、嫌がっているときだけではありません」
彼女は言った。
「痰が詰まりかけたときも、熱が上がるときも動きます。左腕へ触れる前に声を掛けると、少しゆるむことがある。でも、ゆるまない夜もあります」
「では、何を見て補助を強めますか」
レントが訊く。
「呼吸の間。唇の色。胸が持ち上がる高さ。それから、いつもより目が速く動くか」
看護者は一つずつ、寝台の上のアデルを見て示した。どれも、同じ病気なら必ず起きる印ではない。今夜のアデルが、昨夜のアデルと違うと気づくための手がかりだった。
「紙に全部書けば、次の人も分かりますか」
姉が訊く。
「全部は書けません」
看護者は正直に答えた。
「書いた言葉だけを見て、同じように触ればいいと思われると困る。だから、夜勤の人が見に来る間隔と、呼吸が変わったら誰を呼ぶかを残します」
イレナは、患者の生活歴を書く紙とは別に、今夜の監視の紙を作った。巡回は半刻ではなく四半刻。唇の色が変われば当直医を呼ぶ。痰を取る前に声を掛け、左腕には触れない。これは旧登録を休止する紙ではない。今夜のアデルを、今いる場所で守るための紙だった。
姉は、その二枚を見比べた。一枚には、妹が昔嫌がったこと。もう一枚には、今の身体で夜勤者が見ること。
「昔の妹と、今の妹は、同じ紙にしないんですね」
「同じ人です。でも、同じことを望むと決めつけない」
レントは答えた。
「昔のことは、今の処置を丁寧にするために使う。今の反応は、今夜の安全を決めるために見る。旧登録を休止することは、その二つが十分に重なってから考えます」
姉は木の匙を袋へ戻した。アデルが昔使った匙を持ってきたのは、妹を元の人へ戻したいからではない。今、口が乾いたときに、少しでも嫌でない方法を探すためだ。
「アデルは、昔なら『自分で決める』と言ったと思います」
姉は言った。
「でも、だから私が代わりに『決める』とは言えない。妹が嫌がりそうなことを減らすのと、妹の代わりに夜を選ぶのは違う」
レントは頷いた。その違いを、移転書類の欄一つでは受け止められない。
当直医も加わり、旧登録を休止するために必要なことを紙の端へ書いた。患者の反応をただの合図にしない。家族が望むと推測しない。誰が決めるかが不明なら、一時休止をしない。緊急の補助は、旧登録の休止と別に守る。
「何もしないことが、患者を置くことになる場合もあります」
医師が言った。
「でも、今は休止しないことで治療を止めるわけではない。新館と旧館の両方を残し、夜勤を厚くして守る」
イレナは、その言葉を夜勤帳へ書き込んだ。手動補助を常態にするためではない。アデルの代理を決めるまで、今の補助を勝手に減らさないために。
重症病棟の患者は、言えないことを理由に、早く進めることも後回しにすることもできない。
「これを、誰が書いたんですか」
姉が訊く。
「前の夜勤者です。アデルさんが目を開けられたころ、何度か同じ反応があったそうです」
「左の腕は、子どものころ怪我をしたんです」
姉は言った。
「急に触られるのが嫌で、家でも先に声を掛けていました」
イレナはその言葉を帳面の横へ書いたが、すぐに線を引いた。
「これは、今夜の停止条件ではありません」
「どうして」
「左の腕を嫌がるなら、触れないようにできます。でも、旧登録を眠らせるか戻すかを、眉の動きだけで決めることはできない。熱や痛みでも同じ動きが出るから」
姉は少し息を吐いた。家族の記憶が役に立たないと言われたのではない。役に立つ場所と、決められない場所を分けているのだと、ゆっくり分かったようだった。
「アデルは、冷たい布が嫌いでした」
姉は布袋から木の匙を出した。
「熱があるときも、冷たい水を口に入れられるのを嫌がって。温かい湯を、小さな匙で飲むほうが落ち着いた」
イレナは、今の看護で使っている水差しを見た。
「夜に口が乾いたとき、温めた湯を使えます。これは、今夜から変えられる」
「それで、旧登録を止めるときも」
「止めるかどうかは、まだ決めません」
レントは言った。
「アデルさんが嫌がる処置を避けることと、患者紋の休止を同じ判断にしないためです」
家族控室の外で、朝番の看護者が呼ばれる声がした。夜勤者は、アデルの呼吸補助を見ながら、別の重症患者の投薬も進めている。生活歴を聞く時間が長くなれば、今いる患者の手が減る。けれど急げば、姉の言葉を「代理の同意」にしてしまう。
レントは紙を二枚に分けた。一枚には、今夜の看護で尊重すること。左の腕へ触れる前に声を掛ける。冷たい布を避ける。温めた湯を使う。もう一枚には、旧登録を休止するためにまだ分からないこと。本人が苦しいときの合図。休止を望むか。家族の誰がその判断を引き受けるか。
「この空白を、今ここで埋めないでください」
レントは姉へ言った。
「埋められるようになるまで、アデルさんの旧登録は眠らせない」
姉は木の匙を握ったまま、寝台のほうを見た。
「私は、妹のことを知っています。でも、今の妹が何を選ぶかは、分からない」
「はい」
「分からないのに、私が『大丈夫』と言ったら、妹はまた何も言えないまま進められる」
その言葉は、レントへではなく、自分へ向けて言われたようだった。家族だから決められる、という言葉は、愛情と同じくらい重い。
イレナは夜勤帳を閉じた。
「今夜は、いつもの補助で守ります。温かい湯と、触れる前の声だけを変えます」
「それなら、私もここにいていいですか」
「面会の時間までなら。夜は、連絡が必要な条件を一緒に決めましょう」
姉は頷いた。旧登録を休止しないことは、何もしないことではない。今、アデルが嫌がるかもしれないことを減らし、今夜連絡を待つ人を決める。できることと、決められないことを分けることだった。
受付から届いた移転書類の束には、患者ごとに代理人の欄があった。未成年なら保護者、意思表示できない患者なら判断を引き受ける者の名を書く欄だ。
受付係は、その欄の脇にある小さな注記を読んだ。旧館で入院したとき、アデル本人は成人で、姉は面会の連絡先として書かれている。治療の代理を任せる書類ではない。移転の日、誰が同意を聞くかは「後日確認」とされ、旧館の箱へ戻されたままだった。
「私の名前があるからって、私が決める人になっているわけじゃないんですね」
姉は言った。
「はい。今、ここで書き足してしまうと、今日の会話を理由に、ずっと決める人にしてしまう」
レントは答えた。
姉は空欄を見つめた。埋めなければ不安は残る。けれど急いで名を書けば、妹の知らないところで、別の重さを引き受けることになる。
アデルの紙では、その欄だけが空白だった。




