第4巻 第23話 軽症病棟の成功
朝まで、軽症病棟の鈴は新館だけで鳴った。
サナは自分の病室から、試験の様子を聞いていた。今夜、旧登録を眠らせたのは三人。足を折った木工職人ではない。娘が面会に来る夜を避けた彼は、明日以降の候補として自分の紙を持ち帰った。
一人目は、水を欲しいときに鈴を一度引く女性。二人目は、眠る前に肩をさする青年。三人目は、夜の薬を飲んだあとに息が浅くならないか、自分で数えられる男性だった。
三人とも、夜を越えるために選ばれたわけではない。今夜の条件を自分で選び、途中で止められると確認して、旧登録を一時的に眠らせることへ同意した。
最初の患者が水を欲しがったとき、鈴は一度だけ鳴った。イレナが行くと、女性は笑っていた。
「旧館のほうで鳴ったりしない?」
「今は、新館の帳面にだけ出ています」
「なら、もう一杯ください」
水を渡すだけのやりとりだった。けれどサナは、そこに夜の変化を感じた。以前なら、鈴が鳴るたび誰かが旧館の盤を疑い、患者も自分が何かを壊したのではないかと黙った。今夜は、鈴が届いたことを患者と夜勤者が同じ場所で確かめている。
二人目の青年は、眠る前に何度も肩をさすった。彼の停止条件は、肩をさする手が止まらず、返事が遅れることだった。イレナが半刻ごとに病室へ入ると、青年は目を開けた。
「まだ続けられる?」
「続けられる。でも、肩が重い」
「薬を増やす?」
「今は増やさない。鈴が引けるから」
その返事を、イレナは薬庫へ声で伝えた。薬庫ではベルクが新館の札だけを確認し、旧館の札を戻さない。患者の肩の重さは、薬を足す命令ではない。夜勤が次に見に来る刻を早める条件だった。
三人目の男性は、薬を飲んだあと自分で呼吸を数えた。十まで数えると、不安そうに目を開ける。
「数えられているうちは、大丈夫なんです」
「数えられなくなったら」
「鈴を引く。それができなければ、隣の人が気づく前に来てほしい」
イレナは、隣の患者へ見張りを頼まなかった。代わりに、巡回の砂時計を半刻早めた。患者の言葉は、誰かへ負担を渡すためではなく、夜勤の順番を変えるために使われた。
夜半を過ぎても、新館の補助表示は白くならなかった。薬庫の黒石板には、窓印だけが出る。旧館の盤では、三人の塔印が眠り、復帰札は机の端で待っていた。
それでも、夜勤者は「何も起きない夜」とは書かなかった。
イレナが最初の女性の寝台へ戻ると、女性は水差しを抱えたまま起きていた。胸は苦しくない。鈴も届いた。だが、眠る前に何度も扉のほうを見ている。
「まだ止めたいですか」
「止めたいわけじゃない。旧館のほうで、私の家族が待っているみたいに思ってしまう」
女性は言った。
「移る前、夫が旧館の門で迷ったから」
イレナは、今夜の休止を続けるか、復帰札を使うかをすぐ決めなかった。夫が今夜どこにいるかを、受付へ確認する。新館の家族控室で休んでおり、夜の連絡先もここへ写っていると分かってから、女性へ戻った。
「夫は新館にいます。もし会いたければ、朝に呼びます。今夜は、ここから連絡できます」
女性はそれを聞いて、ようやく目を閉じた。停止条件は、脈や鈴だけでなく、旧館へ取り残されたと思う家族のことにも触れていた。受付が連絡先を写したことが、今夜の眠りを支えている。
二人目の青年は、肩の重さが増えたころ、自分から鈴を二度引いた。イレナが来ると、彼は薬を増やしてほしいとは言わない。
「旧登録を戻したら、肩は軽くなりますか」
「分かりません。戻せば、旧館の印がまた夜に出るかもしれない」
「なら、今は戻さない」
青年は答えた。
「でも、次の巡回を待てないなら止める。今はまだ待てる」
イレナは、待てるという言葉をそのままにしなかった。砂時計を半刻ではなく四半刻へ替え、次の巡回を早める。ベルクへ、鎮痛薬を増やさず、温める布だけを準備してほしいと伝える。
薬庫のベルクは、新館の札を確認してから、温めた布を夜勤の籠へ入れた。旧館の札は眠っている。薬を出す必要がなくても、患者が痛みを訴えたことと、薬を増やさなかった理由は、夜箱の紙に残る。
「薬を使わなかったことも、書くんですね」
サナが後で聞くと、ベルクは頷いた。
「何も渡さなかったのか、渡さないと決めたのかは違う。次の人が、薬を忘れたと思わないように」
三人目の男性は、眠りに入る前に数を数えた。十まで数えたあと、息を吐き、また一から始める。二度目の八で止まり、鈴を探す手が毛布の上を迷った。
イレナは巡回の予定より早く来て、その手を見た。
「数が分からなくなりましたか」
「七か八か、分からない」
「続けるか、戻すか」
男性は目を閉じたまま、少し長く呼吸した。
「水を飲んで、もう一度数える。次に分からなかったら戻す」
イレナはその答えを受け、ベルクとミナへ伝えた。戻さないのは、我慢させるためではない。本人が次の停止を選び、夜勤がその刻を待たずに来られるからだった。
次の巡回で、男性は七まで数え、笑った。
「今度は分かりました」
朝になったとき、三人の夜勤帳には、同じ線が一つもなかった。水を欲しがった刻。夫の場所を確かめた刻。肩の重さを言った刻。数を数え直した刻。それぞれの紙に、旧登録を眠らせた夜の生活が残った。
イレナは朝番へ紙を渡すとき、成功したとだけ言わなかった。
「一人目は、家族の連絡が新館にあると分かって続けた。二人目は、薬を増やさず巡回を早めた。三人目は、二度目に数が分からなければ戻すと決めた」
朝番の看護者は、三人の条件を別々に聞いた。夜の結果を、ただの安全印にしないために。
サナは何度か目を覚ました。自分の旧登録はまだ眠っていない。胸が冷える前兆も、今夜は少しだけ残っている。それでも、軽症病棟の三人が自分の停止条件で夜を過ごしていると聞くと、成功を急いで羨ましく思わなかった。
朝方、最初の女性が鈴を一度引いた。今度は水ではなく、眠れたかどうかを聞くためだった。
「眠れました」
イレナが答える前に、女性は自分で言った。
「途中で一度起きたけど、鈴が届くと分かっていたから、また目を閉じられた」
青年は肩をさする手を止め、朝の光を見た。
「薬を増やさなくても、夜が長くならなかった」
三人目の男性は、朝の診察で深く息を吸った。
「数えられなくなる前に、看護者が来た」
その三つは、同じ成功ではない。鈴が届いたこと。薬を増やさずに眠れたこと。自分が言葉を失う前に夜勤が来たこと。それぞれの夜が、新館だけで守られた。
ミナは旧館の盤を確認し、三人の塔印が朝まで眠っていたと報告した。ベルクは薬庫の札を新館側だけで閉じた。イレナは夜勤帳へ、患者ごとの停止条件が使われた刻を残した。
当直医は三人の紙を見て、一度だけ「一括でもできるのでは」と言いかけた。旧館の塔印が眠り、新館の補助が白くならなかったのは事実だ。
サナは首を振った。
「三人が同じことをしたんじゃない」
水を飲んだ女性は、夫が新館にいると分かって眠った。青年は薬を増やさず、巡回が早く来ると決めて続けた。男性は、数えられなくなったら戻すと、自分で次の条件を選んだ。
「旧登録を眠らせたことだけを見たら、同じ成功に見える。でも、私たちが止めなかった理由は三人とも違う」
イレナは、夜勤帳を閉じた。
「重症病棟へ行く前に、止める理由を言えない患者さんのことを決めます」
当直医は頷いた。軽症病棟の成功は、患者が自分の夜を言えたことと、夜勤がそれを聞けたことの成功だった。言葉を失った患者へ、そのままの紙を渡す理由にはならない。
朝の光が病室へ差し込み、三人の患者はそれぞれ違う仕草で起きた。女性は夫へ面会の時間を尋ね、青年は肩を回し、男性は朝の数を声に出さずに胸へ手を当てた。誰も、自分が手順の一部になったとは言わなかった。ただ、自分の夜が新館に残ったことを、身体で確かめていた。
成功したからといって、全員の旧登録を眠らせられるわけではない。
サナは朝の廊下で、重症病棟の前を通った。そこには、言葉を返せない患者がいる。眠りの中で鈴を引けない患者。家族が遠く、今夜連絡を取れるか分からない患者。呼吸補助を切れば、夜勤者がすぐ手で繋がなければならない患者。
軽症病棟の三人は、自分の前兆を言えた。止めるとき、止めると言えた。薬を増やすか、巡回を早めるかを、夜勤者と一緒に選べた。
重症病棟の人たちへ、同じ紙を渡しても、同じように同意を取ることはできない。
「成功したから、次も同じにしようって言わないで」
サナは、朝番のイレナへ言った。
「重症の人には、私たちみたいに『止めて』って言える人がいない。眠っている人にも、今夜を選ぶ人が、ここにも必要です」




