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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第4巻 第22話 旧登録を眠らせる

ミナは、旧館の盤の前に復帰札を置いた。


 札は薄い木板で、表には新館の患者名、裏には旧館の寝台番号と、戻すための短い紋が刻まれている。旧登録を消すための札ではない。一時的に眠らせ、何かあれば同じ場所へ戻すための札だった。


「眠らせる前に、戻す札を手の届くところへ置きます」


 ミナはローデへ言った。


「誰が戻すかも、先に決める」


 旧館の三階には、ローデとミナがいる。新館の軽症病棟には、イレナとベルク、そして夜勤の医師が待つ。患者のそばには、本人が選んだ停止条件を書いた紙がある。レントは二つの館の中間の回廊に立ち、どちらかが中止と言ったとき、次の操作を止める役になった。


 最初の候補は、軽症病棟の三人だった。呼吸補助を常には使わず、夜の薬も新館の棚にある。家族へも、今夜は旧登録を一時休止すること、何かあれば新館から連絡することを伝えてある。


 患者の一人は、昼の診察で自分から言った。


「眠れなくなるなら、やめてください」


 イレナは、患者用の紙を読み上げた。


「胸が苦しい。鈴を引けない。続けたくない。家族から連絡がつかない。このどれかで、旧登録を戻します。今夜の治療や薬を減らすことはしません」


 「家族から連絡がつかないのも?」


「はい。あなたが夜に不安になって、家族へ確認したいと言うなら、それも中止の理由です」


 患者は少し考え、頷いた。自分の脈や呼吸だけが、止める理由ではない。夜をここで過ごすことそのものが無理になれば、戻れる。


 軽症病棟の入口には、今夜の監視者の名前を並べた札が掛けられた。夜勤のイレナ、薬庫のベルク、旧館のミナとローデ、当直医、連絡を受ける受付係。札の下には、誰かが「中止」と言ったときの順番がある。


 患者が中止を言う。夜勤が補助を手でつなぐ。薬庫は新館の札を確認し、出なければ旧札を戻す。旧館は復帰札で患者紋を戻す。受付は家族へ連絡が必要かを確認する。


 ミナはその札を見て、担当の数が多いことを怖いと思った。人が多ければ安全になるとは限らない。誰かが「別の人がやる」と思えば、札はただの紙になる。


「中止を言った人が、次の人を待つ必要はありません」


 ミナは皆へ言った。


「患者さんが中止と言えば、イレナさんは手動補助へ。イレナさんが中止と言えば、私たちは復帰札へ。薬庫が新館札を読めないと言えば、ベルクさんが戻す。どこからでも、そこで止めます」


「患者が迷って、はっきり中止と言えなかったら」


 当直医が訊いた。


「迷っていることも、止める条件にします」


 イレナが答えた。


「続けるか聞かれて、返事が遅い。目を閉じたまま紐を探す。そういうときは、患者さんが言葉にするのを待たない」


 それは患者の選択を奪うためではない。選び続ける負担を、苦しい人へ押しつけないためだった。ミナは、旧館の盤の前でできるのは、復帰札を手に取ることだけだと思っていた。だが、新館の寝台で誰かが迷った時点で自分が戻すと知ることも、操作の一部だった。


 ローデは盤の横に小さな椅子を置いた。復帰札を置くためではない。自分が立ち続けて疲れ、盤の白い残留灯を見落とさないようにするためだ。


「俺が休むための椅子も、札に書くか」


 彼は半分冗談のように言った。


「書きます」


 ミナは答えた。


「休めない人を前提にした手順は、夜の途中で崩れます」


 ローデは笑わなかったが、椅子へ一度座った。旧館の灯を守ることを、自分だけの根性にしないと決めたように見えた。


 新館の軽症病棟では、候補の三人へ、別々に説明が行われた。最初の患者は水を欲しいときに鈴を一度引く人。二人目は眠る前に肩をさすり続ける人。三人目は、夜に家族の面会がないと確認できた人。全員に同じ手順をするが、同じ停止条件は使わない。


 一人が、家族の連絡について訊いた。


「夜に旧登録を眠らせて、家から電話が来たらどうする」


 受付係が答えた。


「新館の連絡帳に番号を書きました。旧館受付ではなく、今夜はここから受けます。つながらなければ、休止を続けません」


 患者はそこで、やっと頷いた。紋を休止することは、家族との連絡まで消すことではない。そう言葉にされなければ、患者は同意しても眠れない。


 ミナは、自分の紙へ「説明済み」とだけ書かなかった。誰が説明し、患者が何を聞いたかを、短く残した。長い会話を夜勤帳へ移せば、次の人は読めない。けれど、家族への連絡が中止条件であることだけは、受付にも夜勤にも渡る必要がある。


 安全上限の確認では、ミナが旧館の盤に小さな印を入れた。旧患者紋を休止しても、旧館の隔離室の灯、火災の警報鐘、非常扉の蓄魔は残す。患者紋と建物の安全機能を同じ停止にしないためだ。


「塔印だけを眠らせる。灯や扉まで眠らせない」


 ミナはローデへ言った。


「赤の警報灯が出たら」


「患者紋には触れず、操作を止める。建物側の危険を、患者側の復帰で隠さない」


 旧館の盤と新館の病室は、同じ夜に動く。だからこそ、片方の赤い灯をもう片方の白い灯で言い換えない。ミナは、色と対象を紙に書き分けた。


 すべての札が掛かり、患者へ説明が終わっても、誰もまだ操作しなかった。今夜の軽症病棟は、すぐ試すために集めた人たちではない。戻せると分かるまで、始めない人たちだった。


 旧館の盤には、今夜休止する三人の旧館番号が並んでいる。ミナは一つずつ、復帰札の紋と見比べた。番号を間違えれば、別の患者の旧登録を眠らせる。だから名を声に出さず、番号、寝台、薬庫の札、新館の病室を二人で確かめた。


「旧館三階・二番。新館軽症病棟・六番」


 ローデが読む。


「新館の薬庫札、六番。夜の薬は新館棚」


 ベルクの声が伝声管から返る。


「患者本人、今夜の休止に同意。鈴は右手。中止条件を確認済み」


 イレナが続けた。


 ミナは、旧館の盤の端にある安全上限を確かめた。旧登録を眠らせても、旧館の蓄魔具や隔離室の灯まで落とすわけではない。今夜止めるのは、患者紋を夜間照合へ出す権限だけだ。もし盤が想定外の流路まで切ろうとすれば、赤の警報灯が先に出る。そのときは操作を止め、復帰札にも触れない。


「安全上限、盤の残留灯、復帰札。三つが揃ってから眠らせます」


 ミナは言った。


「急いでいるときほど、一つずつ声に出しましょう」


 ローデは頷いた。彼は鍵を持つが、今夜、鍵を回すだけの人ではない。盤の残留灯が消えないとき、寝台の側へ行き、何がまだ旧館に残っているかを見る役だ。


 新館の軽症病棟では、患者たちがそれぞれの寝台で待っていた。誰も試験のために眠らされてはいない。普段の夜と同じように、薬を飲み、灯りを落とし、眠くなれば目を閉じる。ただ、今夜は旧館の名が眠り、新館の名だけが夜勤へ届く。


 最初の患者が鈴を一度引いた。水を欲しいという合図だった。イレナが行き、いつものように水を渡す。鈴は新館の詰所に届き、薬庫の札も新館側だけが淡く光る。旧館の盤は、まだ何も変わらない。


 ミナは盤の前で、復帰札から手を離さなかった。操作を始める前から、患者の鈴は新館へ届いている。今、旧登録を眠らせることで、それを変えてはいけない。


「一人目、始めます」


 ミナは旧館の番号へ指を置いた。塔印の灯が、青から白へ変わる。休止の紋を重ねると、盤の中央に白い残留灯がついた。


「旧登録、休止中。復帰札は有効」


 彼女は声に出した。


 新館の詰所では、イレナが患者の手首を取る。脈は規定内。患者は水を飲み、鈴の紐を右手に置いたまま目を閉じている。


「中止の言葉はありますか」


「今はない」


 患者が答えた。


 薬庫では、ベルクが夜箱の札を一度だけ読み取らせた。新館の棚番号が出る。旧館の塔印は、箱の脇で眠ったまま動かない。


「薬庫、新館のみ」


 その声が伝声管を通る。


 ミナは盤の白い残留灯を見た。消えるまで、次の患者へ進めない。灯が消えなければ、旧登録は完全に休止していない。消えたあとも、新館の表示が白くなれば、すぐ復帰札を使う。


 しばらくして、残留灯が細くなり、消えた。


 ミナは息を吐かなかった。終わったとは言わない。今夜はまだ始まったばかりだ。


 「一人目、休止完了。監視を続けます」


 レントが回廊で、その言葉を受け取った。誰も次の操作へ急がない。患者が眠り、新館の鈴が届き、薬庫の札が一つであることを、夜の中で確かめてから次へ進む。


 新館の病室では、最初の患者が水差しへ手を伸ばした。イレナがすぐそばへ行くが、患者は首を振る。


「今は大丈夫。鈴が届くか、もう分かったから」


 その言葉を聞き、ミナは旧館の盤から目を離さずに、復帰札の位置をもう一度確かめた。眠らせる操作が成功したことより、患者が自分で大丈夫と言えることのほうが、今夜は大切だった。


 盤の塔印は眠り、窓印だけが新館の方角へ薄く残っている。まだ一人目でしかない。だからこそ、誰も「終わった」とは言わなかった。


 軽症病棟の試験が、静かに始まった。

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