第4巻 第17話 古い名を呼ぶ
旧館の三階には、名前の消えた札が残っていた。
ミナは夜の前に、ローデ・カンと一緒にその札を確かめた。病室の扉から外された木札は、清掃主任が渡した私物箱の脇にまとめられている。表には患者名、裏には寝台番号と患者紋の短い符号。新館の札より古い木で、角が何度も指に触れたように丸くなっていた。
「これは、いつ外したんですか」
ミナが訊く。
「移転班が、患者を出したあとだ」
ローデは答えた。
「札を外すと、寝台は空いたことになる。だが紋まで消えるわけじゃない」
彼は旧館の管理人として、閉鎖後も隔離室の灯と蓄魔具を見ている。薬庫の鍵を持っていることも、夜に古い印が残ることも知っていた。けれど、どの患者の名が夜の照合へ残っているかまでは、今まで紙で確かめる機会がなかった。
ミナは、サナの旧名札を布の上へ置いた。新館の受付票の端に残っていた旧館番号と、札の裏の符号が同じだ。薬庫の黒石板へ近づけると、昼のうちは線が弱く浮かぶだけだった。
「患者紋は、札に刻まれているのではありません」
ミナは言った。
「札は、どの紋を読むかを示す手がかりです。旧館の寝台、薬庫の鍵、呼び鈴帳が同じ符号を参照できるようにしてある」
「新館では、同じ名に新しい紋を作ったのか」
「作ってはいません。患者そのものを示す基底の紋は一つです。別にすると、薬や治療が切れます。新館の札は、同じ基底紋へ別の病室番号と、新館で有効に読む登録を添えたものです」
移転中には、それでよかった。旧館の補助具も新館の補助具も、同じサナを必要なときに読める。患者が途中で戻っても、薬を渡し損ねない。
問題は、同じ基底紋へ添えた二館の有効登録のうち、どちらが今、先に読んでよいかだ。
ミナは旧名札、新館の受付票、薬庫の札、夜勤帳の写しを床に並べた。四つともサナを指しているが、書かれているものは同じではない。
旧名札には、旧館三階と寝台の符号。受付票には、新館へ入った日の照合印。薬庫の札には、薬を渡す棚と予定の刻。夜勤帳には、鈴を引ける手と、眠る前の前兆。
「この四つのどれかを消しても、サナさんの治療は困ります」
ローデが言った。
「旧名札を消せば、旧館で何があったか分からなくなる。薬庫の札を消せば、夜の薬が届かない。夜勤帳を消せば、今夜の呼び鈴が届かない」
「消すか残すかだけではありません」
ミナは答えた。
「今夜、どれが先に患者紋へ触れてよいかを決めないと」
彼女は札の裏にある符号を紙へ写した。旧館の札と新館の受付票では、患者を示す短い紋が同じだ。その前に付く場所の印だけが違う。旧館は塔の形、新館は開いた窓の形。薬庫の鍵には塔の印があり、夜勤帳の端には窓の印がある。
昼の照合では、窓の印が先に読まれる。新館で治療を続けるための通常の順番だ。夜だけ塔の印が先に動くなら、薬を急いで出すために残した古い優先が、どこかでまだ生きているのかもしれない。
だが、それだけでは患者名が消える理由にはならない。二つが同時に読めても、古いほうを待たせ、新しいほうだけへ返事をすればよいはずだ。どちらも「自分が先だ」と要求するなら、旧館の寝台や呼び鈴盤にも、患者を待つ理由が残っている。
「旧館の寝台札を外した時、患者紋を休止する印はありませんでしたか」
ミナが訊く。
「知らない」
ローデは正直に言った。
「俺が受け取ったのは、扉を閉める札と、蓄魔具の残りを確かめる帳面だけだ。患者紋の話は、受付か移転班の仕事だと思っていた」
それは清掃主任と同じだった。誰も、患者を消さないよう自分の範囲を守った。だから旧館の寝台は空になり、札は外れ、鍵は残り、紋を休ませる手だけがどこにも置かれなかったのかもしれない。
ミナは、そこまでを仮の線として紙へ書いた。線は答えではない。旧館の盤がなぜ夜だけ動くのか、誰が優先を変えたのか、患者の呼吸補助とどこで結ばれるのかは、まだ現物で見ていない。
「今夜は、紋を止めません」
ミナは言った。
「止めて患者さんの補助が変わったら、確かめるために危険を作ることになる。先に、動く順番と、止められる条件を見ます」
ローデは古い鍵を布で包んだ。
「俺は鍵に触れない。盤の前にも立たない。誰かが『管理人が動かした』と疑わなくて済むように」
「一人で立たないでください」
ミナは言った。
「鍵を持っている人が、全部を説明する必要はない。見たことだけを、一緒に残しましょう」
ローデは少し驚いた顔をし、それから頷いた。彼は旧館の灯を守るために残った。だが患者の名まで一人で抱えるために残ったわけではない。
ミナは旧館の呼び鈴盤を開けた。鐘の音は鳴らないよう、音の金具には布を巻いてある。けれど盤の内側には、寝台ごとの小さな確認灯が残っている。サナの旧館番号に触れる灯は消えているはずだった。
「夜の前に、呼び鈴を鳴らすことはしません」
ミナはローデへ言った。
「患者のいない部屋から音を出せば、新館の夜勤を動かしてしまう。今は、鳴っていない記録と、灯の反応だけを見る」
ローデは頷き、古い鍵を壁の箱へ近づけた。鍵は回さない。金属の刻印を、鍵穴の脇にある読み取り板へ寄せるだけだ。
新館の薬庫で見たのと同じように、旧館の印が淡く白くなった。
「鍵は、夜の在庫を開くためだけじゃない」
ミナが呟く。
「患者紋を、旧館側で読む権限にもなっている」
ローデは黙っていた。自分が鍵を持ち続けたことで、何かを残したのかと考えているのだろう。ミナはすぐに続けた。
「持っていたことが悪いとは、まだ言えません。旧館に残った隔離室や蓄魔具を点検するには必要です。今は、鍵が夜に何へ返事をするかを確かめたい」
夜が来て、新館の詰所と旧館の三階に、それぞれ人が入った。新館にはイレナとベルク、患者のそばにはサナ。旧館にはミナとローデ。レントは二つの館の間を行き来せず、新館の廊下で、どちらかが患者の安全を止める判断をしたときに受ける役になった。
サナには、今夜旧館で名札を読むことを伝えてある。ただし、白い灯が出たら旧館の確認はそこでやめ、新館の補助を優先する。サナが眠れないと言えば、旧館の盤を閉じる。イレナがその条件を病室の板と夜勤帳の両方へ書いた。
「旧館で何が見えても、患者さんへ今夜の我慢を頼まない」
レントが廊下で言った。
「分かっています」
ミナは答えた。自分が見たいのは術式の順番だ。だが、患者が眠れなくなれば、見える線も記録も、その夜の本当の状態ではなくなる。旧館の灯を追うことが、サナの呼吸を追うことより先になるなら、調べる意味がない。
ローデは旧館の窓を少しだけ閉めた。風で盤の灯が揺れないようにするためだ。蓄魔具には触れず、鍵は布に包んだまま机の端へ置く。二人は、動かしたものと動かさなかったものを紙に残してから、夜を待った。
連絡には、短い管を使った。声だけを通す古い伝声管で、患者名は口にしない。時刻と寝台番号だけを伝える。新館の夜勤を、旧館の実験へ使わないためだった。
最初の一刻、何も起きなかった。
新館ではサナが眠っていた。鈴は鳴らず、呼吸補助具の青い灯も変わらない。旧館の呼び鈴盤は沈黙し、薬庫の鍵も机の上に置かれたままだ。
ミナは、何も起きない時刻を紙へ書いた。夜に旧館が必ず動くなら、そこにいる患者の眠りとは関係がないかもしれない。逆に、新館の患者紋が読まれるときだけ旧館が応じるなら、二つを繋ぐものがある。
夜半が近づくと、旧館の盤の一つが白くなった。
音は鳴らない。
サナの旧館番号の灯だけが、息をするように明滅した。
「新館へ。旧館三階、旧番号が読み取りを始めました」
ミナは伝声管へ言った。
少し間を置いて、イレナの声が返った。
「新館東三階、サナさんの板が白です。まだ鈴は鳴っていません」
ミナは旧名札を見た。札はただの木片だ。だがその裏の符号が、二つの館で同じ患者を呼ぶための入口になっている。
「鍵には触れていません」
ローデが言った。
「呼び鈴も鳴らしていない」
「分かっています」
ミナは盤の表示を見つめた。旧館側が勝手に患者を移したわけではない。新館の病室で何が起きたかも、まだ分からない。だが夜の照合が、旧館の名を呼び、新館の名も同時に探している。
伝声管の向こうで、イレナがサナの名を呼んだ。
「サナさん、聞こえますか」
返事はすぐには来ない。
旧館の灯が、もう一度白く脈打った。新館の青い灯が白へ変わるという声が、管の向こうから届く。
ミナはローデへ、鍵を回さないよう手で合図した。今、旧館側で何かを止めれば、新館の患者へ何が起きるか分からない。
盤の二つの灯が、同時に文字を浮かべた。
旧館三階・サナ・リュベル。
新館東三階・サナ・リュベル。
新館と旧館が、二つの表示で、同じ患者を、まったく、はっきりと同時に要求していた。




