第4巻 第16話 夜勤者の朝
朝の引き継ぎは、終わったことを渡す時間のはずだった。
レントが三階の詰所へ入ると、夜勤明けのイレナはまだ椅子に座っていた。目の前には三つの帳面が開いている。患者の脈と呼吸を手で書いた紙。薬庫から届いた夜の札。呼び鈴帳の写し。どれも昨夜のことを残しているのに、同じ順番で並んではいなかった。
朝番の看護者が、東病室へ入る前に尋ねた。
「サナさんの眠り薬は、今夜も減らすんですか」
イレナは医師の処方控えを見る。そこには必要時、少量からとある。夜勤帳には、眠る前に胸が冷えること、薬を減らすなら鈴を右手へ寄せることが書かれている。薬庫の札には、渡す予定の刻しかない。
「今朝の診察で、医師に確認してから」
「今夜のことを、朝の診察まで待つんですか」
「今夜までに、誰が何を渡すかを決める」
イレナは答えたが、紙から目を離せなかった。
そこへ薬師のベルクが入ってきた。夜の箱を抱え、空になった小瓶を机へ置く。
「旧館側の引き継ぎ印が、二度出た。薬は出していない。帳面へはどう書く?」
朝番の看護者が、呼び鈴帳を覗く。
「患者は呼んでいません」
「薬庫の板は旧館を読んだ」
「なら、設備の人へ」
「設備の人は、旧館の寝台が清掃済みだと言う」
同じ夜の話が、机の上で三つの仕事へ分かれていく。誰も間違ったことを言っていない。患者が呼んでいないなら、夜勤の呼び出しではない。薬が出ていないなら、薬庫の渡し間違いでもない。寝台が清掃済みなら、清掃の仕事は終わっている。
けれど、旧館の印だけは残っている。
レントは机の端に立ったまま、昨夜の砂時計を見た。空になった砂のように、引き継ぎの言葉は下へ落ちていく。次に誰が拾うかが決まらない。
「今朝、旧館の三階を見た人はいますか」
「清掃の人が窓を開けに」
イレナが答えた。
「患者はいないと言っています」
「旧床は応答した」
「それはミナさんの板で見たことで、朝番の患者帳には書いていません」
イレナは責めるようには言わなかった。ただ、朝番が病室へ入る前に何を持っていくべきかを考えている。旧床が応答したことを口頭で聞いても、患者の薬を渡す順番は変わらない。変えるなら、誰が責任を持つのかを書かなければならない。
詰所の扉が開き、清掃主任が白い札を持って現れた。
「昨日の欄、書いてみました」
札の裏には、設備の切離し、受付の登録、薬庫の返却という三つの欄がある。清掃済みには印がある。設備の切離しと薬庫の返却は空欄。受付の登録には「移転班確認待ち」とだけ書かれていた。
「この寝台を、今日も洗っていいですか」
主任が訊く。
「誰も寝ていないなら、窓を開けて床を乾かす。けれど、設備がまだ応答するなら、補助具の周りは触らないほうがいいでしょう」
朝番の看護者が言う。
「それは、誰が決めるんですか」
清掃主任は札を持ったまま立っていた。
彼女の問いは、仕事を押しつけるためのものではない。洗ってよいと聞いたから洗った。次は触らないでほしいなら、その理由と、次に来る人を知りたいだけだ。
レントが答える前に、ベルクが薬箱を指した。
「薬庫は、旧館の予備を返すか残すかを決めないと、今夜も二つの鍵を持つ。返せと言われれば返す。残せと言われれば、夜の板へ旧館の線が出ることを引き継ぐ」
「返せば、夜の薬が足りなくなるかもしれない」
イレナが言った。
「残せば、患者名が二つになるかもしれない」
ベルクも言った。
扉の外で、家族控室へ向かう足音が止まった。サナの叔母だった。受付で新しい連絡先の紙を受け取ったらしく、手には写しが二枚ある。
「すみません。夜の連絡先を、新館の帳面にも写すと聞きました」
彼女は詰所の空気を見て、すぐには中へ入らなかった。
「写ったら、私へ一枚渡してください。夜にここから電話が来るなら、畑にいる昼は隣の家を先に呼ぶよう書きました。誰かが読める場所に置かないと困ります」
朝番の看護者は、患者帳の家族欄を開いた。そこには叔母の名と面会許可しかない。連絡先の写しは受付にある。夜勤が電話をかけるときは、旧館の帳面を開くことになる。
「今夜までに、ここへ写します」
イレナが言った。
「ありがとうございます。でも、誰が写したかも分かるようにしてください」
叔母は答えた。
「次に来たとき、また『まだ』と言われないように」
その言葉を聞き、レントは机の上の紙を見た。清掃の札も、薬庫の帳面も、夜勤の紙も、医師の完了表も、家族の連絡先も、すべて「次の人へ渡す」ためにある。だが渡した先が、同じ完了を見ていない。
医師長が朝の診察前に詰所へ顔を出した。マレクから夜の話を聞いたのだろう。彼はサナの処方控えと、イレナの夜勤帳を並べて読んだ。
「治療計画は新館にあります」
医師長が言う。
「薬庫も新館にあります」
ベルクが続ける。
「病室も、新館にあります」
朝番の看護者が言った。
そのとき、東病室から別の看護者が顔を出した。朝の薬を載せた小盆を持っている。
「サナさんが、眠り薬を今日はどうするか聞いています」
机のまわりにいた全員が、小盆を見た。薬は小さな紙包みで、名前と量は新館の札に書かれている。ここまでは薬庫の仕事として完了している。
「処方は必要時、少量からです」
医師長が言う。
「今朝は飲まなくても問題ありません」
「昨夜は、胸の冷えが先にありました」
イレナが夜勤帳を開く。
「飲まないなら、今夜の鈴の位置を先に決めないと」
「鈴の位置は、薬の処方と関係ありますか」
朝番の看護者が訊く。
「薬を飲んで眠りが深くなれば、手を伸ばせないことがある。飲まないなら、痛みで寝返りが増えるかもしれない。どちらでも、夜の見方が変わります」
小盆を持つ看護者は、病室の入口と詰所の机を見比べた。薬を渡すことだけなら、今ここで決められる。だが薬を渡したあとの夜を、誰がどう見て、どこに書くかは、まだ決まっていない。
「サナさんへ、今はこう伝えてください」
医師長が言った。
「朝の薬は急がない。昼の診察で、本人の感じ方を聞いて決める。今夜の鈴と補助の条件は、診察のあと看護者と一緒に書く」
「それなら、夜勤帳にも書けます」
イレナが答えた。
「薬庫へは、量が変わるかだけ伝えます」
ベルクが言う。
「家族へは、何を伝えますか」
叔母が訊いた。
医師長は少し黙った。薬が変わるかもしれない、だけでは家族は夜の電話を待つことになる。サナが薬を飲まなかったことで苦しければ、叔母は自分が何か届けるべきなのかと思うかもしれない。
「今夜、家から持って来るものはありません」
医師長ははっきり言った。
「変えるなら、先に病室から連絡します。連絡がない限り、叔母さんは夜に来なくていい」
叔母は頷いた。小さなことに見えて、帰る人にとっては違う。夜に布袋を抱え、どの門へ行くか迷わなくてよいということだからだ。
朝番の看護者は、ようやく小盆を持って病室へ戻った。薬を渡さないことではなく、渡さないあいだに誰が何を見るかが、初めて同じ言葉で渡った。
それでも、清掃主任の札には、旧床の設備を誰が止めるかが空欄のままだった。ベルクの二本の鍵にも、旧館の予備をいつ返すかが書かれていない。サナの叔母の連絡先も、受付から夜勤帳へ写す人がまだ決まっていない。
朝の一つの薬だけでも、完了は一つではなかった。
「では、旧館は何が終わっていないんですか」
清掃主任の声は小さかった。
誰もすぐには答えなかった。
詰所の窓から、旧館の屋根が見えた。朝の風で、閉鎖の札が壁へ当たっている。床は洗われ、薬は新館の棚に入り、診療録も病室も移った。それでも夜だけ、古い番号が呼ばれ、家族の電話はあちらで待つ。
レントは、紙を一枚増やすだけでそれが直るとは思わなかった。誰かが書いた完了を、別の誰かが読める時刻に渡さなければ、紙はまた机の端で止まる。今朝の引き継ぎも、決めることを先延ばしにすれば、今夜の手動補助へ戻ってしまう。
朝番の看護者は、次の患者の名を呼ぶ前に、旧館の欄へ小さく「確認中」と書いた。終わっていないことを、少なくとも次の番が見落とさないように。
サナの叔母が、連絡先の写しを胸に抱えたまま言った。
「私は、ここから電話が来ればいいと思っています。薬のことを聞けて、衣類を渡せて、面会に来られるなら、移ったことになる」
イレナは夜勤帳を閉じた。
「私は、患者さんが眠ったあとも、呼び鈴と補助がここへ戻るなら、移ったと思えます」
ベルクは二本の鍵を机へ置いた。
「私は、旧館の薬を出さなくて済み、患者の札が一つなら、終わったと言えます」
医師長は完了表の青い印を見た。
「私は、治療を続けられるなら、完了だと書きました」
四人の言葉は、同じ「完了」を指していなかった。
レントは、誰かの言葉を表へ書き直さなかった。ただ、朝番の看護者が次の患者へ行く前に、机の端の紙へそれぞれの言葉を写すのを見た。
開院完了は、四通りあった。




