第4巻 第15話 家族の完了
叔母が新治癒院へ着いたのは、面会の終わる一刻前だった。
サナは家族控室の窓際で待っていた。今日は病室ではなく、ここまで車椅子で来ている。受付から渡された面会札には、新館二階、東三階、家族控室という三つの行き先が書かれていた。叔母は最初に二階の診察室へ行き、次に薬庫の前で待ち、最後に控室へたどり着いた。
「ごめんね。遅くなった」
叔母は息を切らしていた。腕には大きな布袋がある。中には替えの衣類、靴下、少し甘い果実の煮物、医師へ渡すための紙が入っていた。旧館なら、門を入ってすぐの受付で病室を聞けた。新館は広くて明るい。けれど、初めて来る人間には、どの明るい廊下を選べばいいのか分からない。
「薬庫へ行ったのは、薬を受け取るため?」
サナが訊く。
「あなたの眠り薬が変わるかもしれないと聞いたから、帰りに説明を聞こうと思って」
「説明は聞けた?」
「薬師さんは、夜の分は病室へ渡すと言った。私は、何を持って帰ればいいのか分からないまま来たの」
叔母は笑おうとしたが、笑えなかった。
家族にとって、薬を受け取ることは薬袋を持つことだけではない。何を飲んだのか。次に苦しくなったら誰へ言うのか。夜に呼ばれたとき、何を持って来ればいいのか。旧館では分かりやすかったとは言えない。それでも、受付の年配の女性が、薬庫と病室の間に立ってくれた。
新館では、誰もが自分の仕事をしている。受付は面会札を出し、薬庫は薬を棚へ入れ、病室は患者を見ている。叔母がその間を歩けなければ、サナへ届くはずの衣類も説明も、途中で止まる。
「今日、何を確認したい?」
サナが訊くと、叔母は布袋から紙を出した。移転の日に渡された案内と、今朝受付で受け取った新しい面会札だった。
「まず、面会の入口。次に、夜に呼ばれたときの連絡先。それから、あなたの衣類を誰へ渡すか」
「全部、分かっていない?」
「分かると思って来たの」
叔母は紙を重ねた。旧館の案内には、夜間連絡は旧館受付と書かれている。新館の面会札には、緊急時は治癒院へ、とだけある。番号は書かれていない。
サナは、その二枚を見比べた。旧館から新館へ移ったのは自分だけではない。叔母も、面会のたびに移ってきた。けれど誰も、家族がどこへ電話をかけ、誰から折り返されるかまで、新館へ運んだとは言っていない。
叔母は布袋を膝へ置き直した。
「衣類は、前は病室の入口の籠へ入れていたでしょう」
「今は洗濯室の前の棚です」
「誰が受け取るの」
「日中なら洗濯の人。夜なら、病室の人に渡す」
「夜に来た家族は、病室まで入っていいの?」
サナは答えられなかった。夜の病室は眠っている患者がいる。家族が衣類を渡すために入れば、呼び鈴と看護者の動きを増やす。それでも、濡れた寝間着が必要なとき、朝まで洗濯室の棚に置くわけにもいかない。
「先に、洗濯室の棚を見てもいいですか」
叔母は言った。
家族控室を出る前に、サナは息を一度整えた。受付まで行く前の寄り道にすぎない。けれど今日は、自分の移転だけでなく、叔母が荷物をどこへ運ぶかも確かめるのだ。
洗濯室の前には、布袋を置くための木棚があった。棚は新しく、患者ごとに小さな箱が付いている。サナの箱には東三階・三番と書かれ、名は外から見えないよう内側の札にだけある。
「これは良いね」
叔母は言った。
「でも、夜に来たら、この箱へ入れていいの?」
洗濯係の男性が、濡れたシーツを抱えて通りかかった。叔母が尋ねると、彼は足を止めた。
「急ぎの衣類なら、箱へ入れず病室の夜勤へ。ここへ入れると、朝まで開けないことがあります」
「夜勤へ渡すには、どこへ行くの」
「東階の詰所です」
「入口から分かりますか」
男性は少し考えた。
「案内札は、面会時間のあと外します。夜は玄関の守衛へ言ってもらうことになります」
叔母は頷いたが、納得した顔ではなかった。守衛へ何を言えばよいのか。サナの名だけでいいのか、病室番号もいるのか。濡れた衣類を受け取った夜勤者は、誰の箱へ入れたとどう残すのか。
「私は、ここに衣類を置く前に確認したい」
叔母は言った。
「急ぎじゃないなら箱へ。急ぎなら詰所へ。守衛に伝える言葉と、受け取った印を、面会札に書いてください」
洗濯係は困ったように眉を下げた。
「私からは書けません。受付の仕事です」
「では、受付で聞きます」
叔母は引かなかった。
サナは、その姿を見ていた。叔母は洗濯係へ無理を言っているのではない。洗濯室の人が決められないことを、ここで決めさせようとはしていない。ただ、自分が帰ったあと、衣類がどこで止まるかを曖昧にしたくないのだ。
イレナが叔母の言葉を小さな紙へ写した。夜間の衣類受け渡し、守衛から詰所までの案内、受取印。薬の説明と同じように、家族のための経路として残す必要がある。
「今日は答えが出なくても、書いておきます」
イレナが言う。
「出ないままなら、また聞きに来ます」
叔母は答えた。
「受付へ行こう」
サナは言った。
「今日は、私が一緒に聞く」
イレナは、サナが疲れたら戻ること、叔母が一人で説明を受ける時間も取ることを確認してから、車椅子を押した。レントたちは少し離れて歩いた。家族の手続きを調べるために、叔母の困り方を待っているように見せたくなかった。
受付係は、二枚の案内を見てすぐに謝った。
「新しい札に、夜間の連絡先がありませんでした」
「どこへかければいいですか」
叔母が聞く。
「新館の夜勤詰所へ……」
受付係は言いかけ、帳面を開いた。新館の連絡帳には、病室の内線と医師当直の札がある。だが家族からの外の連絡を受ける欄は、空白だった。
「詰所へ直接つなぐための外線は、まだ」
「まだ?」
「旧館受付が、夜の連絡を受けています」
叔母の手が、布袋の口を閉じた。
「旧館は閉じたんでしょう」
「閉鎖作業中です」
「夜に、サナが苦しくなったら、私は閉鎖作業中の受付へ電話するんですか」
受付係は答えられなかった。
サナは叔母の横顔を見た。怒鳴ってはいない。けれど、移転の日に床へ散った衣類を拾った手が、今も布袋を強く握っている。
「私は、夜にここへ来られないことがあります」
叔母はゆっくり言った。
「だから連絡を待ちます。待つ場所がどこか、誰が電話に出るか、薬を何時までに持っていくか。それが分からないなら、移ったと言われても、私はあなたをここへ置いて帰れない」
「薬を持っていく必要がある夜は、どんなときですか」
受付係が訊いた。叔母は布袋から、医師へ渡すための紙を取り出す。そこには、家から持ってきた薬草茶が、夜の咳を和らげることがあると書かれていた。
「処方の薬を替えるとき、先生が家の茶を一度止めてほしいと言うことがあります。そのとき、私は何を持ち帰り、何を病室へ渡せばいいのか聞きたい。新しい薬を飲んだ夜に連絡が来たら、私は何を聞けばいいのかも」
受付係は、薬庫へ問い合わせる紙を作った。家族が持つもの、病室へ渡すもの、持ち帰るもの。その区別まで、面会札にはまだ書かれていない。
「薬師さんの答えも、連絡先の紙に一緒に残してください」
叔母は言った。
「私が次に来るまで待たず、病室の人が先に読めるように」
受付係は新しい紙を出した。
「今、確認します。夜勤詰所と、院長室と、旧館受付の三つへ」
「確認だけでは足りません」
叔母は言った。
「私の番号はどこにありますか。新館の人が、夜に私へかける番号です」
受付係が患者名簿を開く。新館の欄には、家族の名前と面会許可だけがある。連絡先の数字は空いていた。
「旧館の入院票にはあります」
「なら、写してください」
「手続きが」
「今、ここで書いてください」
叔母の声は強くなった。
「あなたたちがあとで写すまで、夜に何かあっても、私は連絡を受けられないんでしょう。私は、今ここにいます。番号を見て、間違っていたら直します」
それは怒りだけではなかった。叔母は紙の上の番号を、サナの叔母として自分で確認したいのだ。移転の日、誰かに任せるしかなかったものを、今度は任せきりにしないために。
受付係は旧館の帳面を取り寄せるよう、使いへ頼んだ。届くまでの間、叔母は面会札の裏へ、自分の番号と昼に出られない時間を書いた。
「夜なら出られます。畑にいる昼だけは、隣の家へ先に伝えて」
サナは、その字を見た。叔母の生活も、新館の手続きへ入る。連絡先はただの数字ではない。どの時間に誰が電話を取れるか、夜に歩いて来られるのか、薬を受け取る手があるのかという約束だった。
しばらくして、旧館の帳面が届いた。厚い革表紙の連絡帳を、受付係が慎重に開く。
サナの名の横には、叔母の番号と、夜間は旧館受付経由という赤い印があった。
新館の帳面には、その番号がまだ一つも写っていなかった。
家族の緊急連絡先は、旧館受付にだけ残っていた。




