第4巻 第14話 医師の完了
医師たちの移転完了表には、患者の名が一人ずつ並んでいた。
マレクは診察会議の机に、その表を広げた。病名、治療計画、処方、主治医、次の診察日。旧館で使っていた紙を新館の様式へ写し、担当医の署名があれば、欄の端に青い完了印が押されている。
サナ・リュベルの行にも、完了の印があった。
長期の呼吸器疾患。夜間の呼吸補助あり。鎮静薬は必要時に減量。主治医は新館の二階診察室で継続。薬庫への処方も、新館の棚番号で出ている。
医師長が表を見て言った。
「治療は移っています。旧館でしかできる処置は、もうありません」
「夜の補助で患者名を見失っています」
マレクが言うと、医師長は頷いた。
「聞いています。ですが、それは治療計画の未移管ではない。補助術式か、夜勤の照合の問題でしょう」
言葉は冷たくなかった。医師長にとって、治療計画とは何の病気を診るか、どの薬をどの量で出すか、急変したとき誰が判断するかだった。そこを移さずに建物だけ変えれば、患者は日中の診察で置き去りになる。新館へ移る前、彼らは何日もかけて紙を照らし合わせた。
旧館の診療録を運び、薬の重なりを消し、家族へ主治医が変わらないことを伝えた。移転の日にも、荷車へ乗る患者より先に、医師たちは処方の束を抱えて走った。だから完了印を押したことは、手を抜いた印ではなかった。
「医師の側では、何をもって完了としたのですか」
マレクは訊いた。
「診療録が新館にある。処方が新館の薬庫へ届く。診察日に患者を診られる。急変時に当直医が病歴を読める。そこまでです」
「夜勤が、いつ薬を渡し、いつ補助へ切り替えるかは」
「それは看護の手順です」
医師長は答えたあと、すぐに付け足した。
「軽く見ているわけではありません。医師が夜の細かな時刻まで決めれば、患者ごとの変化を看護者が見られなくなる。呼吸が浅くなる前兆も、痛みで眠れない夜も、そばにいる人の判断が必要です」
マレクには、その理屈が分かった。医師は一日の診察で患者の病気を見ている。看護者は夜の何度もの息で、患者の変化を見ている。どちらかがもう一方の仕事をすべて持てば、患者を見る目が一つになる。
しかし、分けたままでは渡らないものがある。
イレナが会議室の端に立っていた。夜勤明けの彼女を呼ぶことに、マレクはためらった。だが医師の完了表を前に、夜の話だけを後で聞けば、また別の紙へ分けてしまう。
「看護側の帳面を見せてもらえますか」
イレナは、薄い帳面を机へ置いた。
そこには病名ではなく、夜の順番が書かれている。眠り薬を飲んだ時刻。痛みで起きた回数。呼び鈴を引ける手がどちらか。胸が冷える前に肩が強張ること。薬を渡したあと、どのくらい水を飲めるか。
サナの頁には、医師の表にはない言葉が並んでいた。
『眠る前に息を数える』『胸の冷えを先に言う』『薬を減らすなら夜の前に知らせる』。
「これは、移転のときにどこへ渡しましたか」
マレクが聞く。
「新館の夜勤帳へ写しました」
イレナは答えた。
「ただ、薬時刻の札は薬庫へ。補助の前兆は病室の帳面へ。家族の連絡は受付へ。全部を同じ紙にはしていません」
「医師の完了表には」
「必要時の薬、としかありません」
医師長が、自分の表へ目を落とした。
「必要時、では足りないのですか」
「足りません」
イレナの声は静かだった。
「夜のサナさんは、いつでも同じように必要になるわけではない。眠り薬を飲んだあと、呼吸が浅くなる前に水を欲しがる。薬を減らすなら、鈴が届く位置に寝台を直す。その順番を知らないまま『必要時』だけを受け取っても、夜勤は患者さんの前で迷います」
医師長は反論しなかった。代わりにサナの行を指でなぞる。
「この症状は、診察時には安定していた」
「昼には、です」
「夜の時刻まで医師が処方へ書けば、看護者の判断を縛ることにならないか」
「書いてほしいのは、命令ではありません」
イレナは帳面を開いたまま言った。
「医師が治療として何を変えたかを、夜勤が分かる形で渡してほしい。眠くなる薬を増やしたのか、呼吸が浅くなっても待ってよいのか、どの患者が先に声を掛けられると安心するのか。患者ごとの前兆を、看護が勝手に作った注意書きにしないでほしいんです」
マレクは、二つの表を並べた。医師の表には病気と処方があり、看護の帳面には夜の生活がある。両方にサナの名はある。だが、薬をいつ渡し、補助をいつ考え、患者の言葉をどこで止めるかは、その間のどこにも書かれていない。
「移転のとき、医師から看護へ渡す欄はありませんでしたか」
「診療録の写しと、処方の控えだけです」
医師長が答えた。
「看護側の帳面は、新館の看護者同士で引き継ぐものだと思っていた」
「旧館の夜勤者が、新館の夜勤へ全部渡せる前提だった」
イレナが言った。
医師長は、処方の控えを一枚取り出した。サナの眠り薬の欄には「必要時、少量から」とある。病状に合わせて量を変えられるよう、あえて時刻を固定しなかった処方だ。
「この書き方は、患者に合わせるためです」
医師長は言った。
「毎晩同じ時刻に飲ませればよい薬ではない。痛みが強い日、呼吸が浅い日、家族が遅くまで面会して眠れない日で、必要な量は変わります。医師が『二刻に飲ませる』と書けば、その夜の看護者が患者の顔を見る余地を減らす」
「時刻を固定してほしいわけではありません」
イレナは帳面のサナの欄へ、昨夜の紙片を重ねた。
「薬を渡す前に何を見たか、渡したあとに何を待つかです。サナさんは、眠り薬を飲んだ直後ではなく、少ししてから呼吸が浅くなることがある。だから夜勤は、薬を渡した時刻を呼び鈴の記録と並べます」
「それは看護記録にあるでしょう」
「旧館の看護記録にあります」
イレナは答えた。
「新館の帳面には、昨夜から書き直しています。でも移転の最初の週、薬を渡した人と、呼吸を見た人が同じ帳面を見ていませんでした」
医師長が眉を寄せた。彼は診療録を新館へ運んだ日、薬庫の棚が新しくなったことまで確認している。だが夜の看護帳は、看護の責任者が移すものだと信じていた。
「薬庫の札には、時刻が書かれていないのですか」
「渡す予定の刻だけです」
「実際に渡した刻は」
「夜勤帳です」
「補助を始めた刻は」
「病室の板と、手書きの紙です」
イレナは一つずつ言った。三つの答えは、同じ患者の同じ夜に起きたことなのに、別々の場所にある。
マレクは、医師長の表の空白を見た。医師は処方を決め、薬庫は棚へ入れ、看護者は患者へ渡す。それぞれの順番は制度として分かれている。だが夜勤の薬時刻は、薬が棚を出たあとに初めて生まれる。誰も、その時刻を次の人へ渡す紙を作っていなかった。
「移転前は、どうしていたのですか」
マレクが訊く。
「旧館では、夜勤の詰所が薬庫の隣でした」
イレナが答えた。
「薬師が札を出し、私たちがその場で帳面へ書く。呼吸が変われば、同じ机にいる医師か薬師へ声を掛けられた」
「新館では、廊下と階が分かれた」
「ええ。日中は、そのほうが静かで安全です。夜だけ、紙の間を人が歩かなければならない」
医師長は、新館の見取り図を引き寄せた。二階の診察室から三階の病室、薬庫、夜勤詰所。昼ならば患者の移動を減らすための配置が、夜には情報を三つの場所へ散らしている。
「私たちは、診療録を移せば治療が続くと思った」
医師長が言った。
「治療は続いています」
イレナは否定しなかった。
「でも、夜に患者を待たせないための順番は、続いていません」
医師長は、サナの処方欄へ小さな印をつけた。処方を変える印ではない。夜勤へ渡すべき注意を書き出すための印だった。
「看護に、どこまで渡せばよいかを一緒に決めましょう」
「命令ではなく、夜に見る条件として」
イレナが確認する。
「そうです。医師が知っている治療の変化を、夜勤が患者の前で使える言葉にする」
それは今夜の異常をすぐ直すものではない。だが、完了表の外に残っていた仕事へ、初めて医師の側から手が伸びた。
「でも、移転の日は患者を運ぶことで終わった。翌朝には新館の当番が始まった」
誰も、そこで怠けたわけではない。医師は治療を途切れさせないように紙を運んだ。看護者は患者を息のあるまま寝台へ移した。薬師は薬を切らさないよう二つの鍵を残した。清掃係は空いた床を洗った。
それぞれが完了させたものの間に、夜の薬時刻だけが置かれていた。
誰かが忘れたわけではない。薬を出す時刻は、薬庫の仕事だと思われた。患者が飲める時刻は、病室の仕事だと思われた。呼吸を見直す時刻は、補助具の仕事だと思われた。その隣り合う三つを、同じ夜の順番として渡す人がいなかった。
イレナは帳面の端を押さえ、マレクへ見せた。
「看護側の薬時刻は、新館へ移っていません」




