第4巻 第13話 夜間補助の呼び鈴
呼び鈴の紐は、サナの右手のすぐそばにあった。
小さな木の持ち手から、壁の中へ細い線が入っている。引けば詰所に音が届き、夜勤者が来る。サナはその説明を何度も聞いていた。けれど、昨夜まで自分の鈴がどの紙へ写され、誰の手を通って補助具まで届くのかは知らなかった。
今夜、それを確かめることになった。
ただし、鈴を試すために鳴らすことはしない。サナが昼のうちに決めた条件だった。
「苦しくないのに引いたら、誰かが本当に必要なときの手を取ります」
サナはイレナへ言った。
「だから、いつもの夜に私が引く必要が出たら、そのときだけ見てください。引く必要がなければ、見ないで終わりにしましょう」
イレナは、その条件を夜勤帳の余白へ書いた。鈴を引くことが、調査の成功になってはいけない。サナが眠れたなら、それは調べられなかった失敗ではなく、患者として守られた夜だと、レントも隣で言った。
消灯の鐘が鳴る前、イレナは病室の入口で経路を説明した。
「鈴を引くと、まず詰所の板に寝台番号が出ます。私かベルクさんが見ます。呼吸補助が必要なら、病室の板にも知らせが戻る。そこから補助具の輪へ、手動か自動の指示が行く」
「鈴を引いた私の名前は、どこで出ますか」
「詰所の帳面と、薬庫の夜箱です」
「病室には」
「寝台番号です」
サナは、紐を見た。自分が引くものから出るのは、まず番号。名前はあとから別の帳面で探される。昨夜、補助具が名前を確認できないと言ったとき、鈴のほうは何を先に伝えていたのだろう。
「私が引けないときは」
「近くの方が壁の鈴を引く。二度なら確認、三度なら息が苦しい合図です」
イレナは向かいの寝台の木工職人を見た。彼は今夜も眠る前に、鈴の位置を確かめている。
「でも、隣の人に見張りを頼むわけではありません。あなたが眠ったら、私たちが見ます」
「頼まれてなくても、気になるよ」
木工職人は言った。
「鈴の音を聞いたら目が覚める。俺が起きたら、名前を呼ぶくらいはできる」
サナは彼へ頷いた。助け合うことと、夜勤の穴を患者が埋めることは違う。イレナはその違いを、今夜も言葉にしてくれた。
夜が深くなるまで、鈴は鳴らなかった。
サナは椅子ではなく寝台に横になっていた。眠らないことをやめたわけではない。今日の昼、受付から病室まで歩き、何度も止まった。夜まで起きていれば、呼吸の浅さを自分で作るだけだと、イレナに言われた。
目を閉じると、鈴の紐が手の甲へ触れる。手を伸ばせば届く。届くことを確かめるたびに、かえって眠れなくなる。サナは紐から手を離し、毛布の上へ置いた。
しばらくして、胸の奥が冷えた。
苦しい、と言うほどではない。息は入る。けれど、受付で移転の日の紙を見たときと同じように、胸の中だけが狭くなった。三回、浅い息が続く。サナは昼に決めた条件を思い出した。
四回目を待たず、紐を一度引いた。
壁の中で、小さな金具が鳴る。
病室の入口にある青い灯が、短く明るくなった。詰所のほうから、紙をめくる音がする。すぐにイレナが入ってきた。走ってはいない。だがサナの寝台へ来るまで、木工職人の鈴も、別の患者の呼吸も見落とさないように目を動かしている。
「サナさん。どこがつらいですか」
「胸が冷える。息が浅いのが三回」
「分かりました。手首を見ます」
イレナの指が脈を取る。もう片方の手で、病室の板を開く。板には寝台番号が出て、その横にサナの名がゆっくり浮かんだ。
「鈴は届きました」
サナは言った。
「届きました。でも、補助具はまだ動いていない」
「今は手で見ています。補助が必要なら、次に回します」
イレナは答えた。鈴を引いたから、すぐ機械が助けるわけではない。夜勤者が患者の状態を見て、補助へ渡すかを決める。サナはその間を初めて、怖さだけでなく順番として見た。
詰所ではベルクが、鈴の記録を帳面へ書いていた。ミナとレントは少し離れ、病室の外から板の光を見ている。サナは、皆が自分の鈴を調べているように感じないよう、イレナだけを見た。
「今は、補助を回さないんですね」
「脈は速いけれど、切れていません。あなたが私の声に返せている。ここで補助を足すと、かえって息の間を乱すかもしれない」
「待つ条件は」
「胸の冷えが増す。返事が遅くなる。青い灯が白になる。そのどれかです」
サナは頷いた。待つ、と聞けば以前は置き去りにされる感じがした。今は、何を見て待つかが分かる。分からないまま我慢することとは、少し違った。
数息のあと、胸の冷えは薄くなった。イレナは手を離さず、砂時計を半分だけ使った。補助具は動かなかった。鈴は、夜勤者の手で止まった。
「今の鈴は、どこまで行ったんですか」
サナが訊くと、イレナは砂時計を寝台の縁へ置いた。
「病室の壁から、詰所の板へ。板が寝台番号を出して、私が患者帳を開く。そこで名前と今夜の注意を見ます」
「それから補助具へ」
「必要なら、です」
イレナは病室の入口を指した。扉の外の詰所には、鈴ごとに小さな札が掛かる板がある。札が一枚出ても、夜勤者はただ走るわけではない。寝台番号から患者帳を開き、鈴の回数と、隣の寝台にいる患者の状態を見て、誰が行くかを決める。
「鈴が三度なら、補助を先に準備します。一度なら、まず話ができるかを見る。今のサナさんは、胸の冷えを自分で言えた。だから、手首と呼吸を先に見ました」
「私が言えなかったら」
「鈴の回数と、近くの人の声で決めます」
木工職人が、眠ったまま少し身じろぎした。彼を起こさないよう、イレナは声を落とす。
「だから、呼び鈴だけでは補助具は動かないんです。鈴の音は、誰かを呼ぶためのもの。補助は、今の患者に合わせて決めるものです」
サナは紐を見た。小さな持ち手の先に、詰所の板、患者帳、夜勤者の足、補助具の輪がつながっている。どこかで誰かが止まれば、次のものは届かない。けれど一度で全部が動けば、今の自分に要らない補助まで来るかもしれない。
「私の鈴が鳴ったとき、病室の板に名前が出ました」
「受付の札と、夜勤帳が新館のまま揃っていたからです」
「そこが揃わなかったら」
イレナはすぐには答えなかった。
「患者帳を手で開きます。今夜の紙に、手首と呼吸を残す。補助具が名前を読めなくても、目の前の人を見失わないために」
それは、昨夜までイレナが一人で抱えていた手順だった。今はベルクが帳面を開き、ミナが時刻を写し、患者も自分の感じたことを伝える。少しずつ人が増えたのに、誰かが休めるわけではまだない。
サナは、床に置かれた小さな紙を思い出した。受付で書いた中止条件の写しは、今は病室の板の下に留められている。
「私が次に鈴を引いて、胸が苦しくないのに補助具が白くなったら」
「そのときは、調べるために待ちません」
イレナは言った。
「補助を手でつなぐ。白い灯を見続けることより、あなたの呼吸を先にします」
サナは頷いた。鈴の道を知ることは、すべてが安全だと知ることではない。どこで止めるかを、今夜の人たちが同じように知ることだった。
イレナは詰所へ戻る前に、サナの鈴紐をもう一度、右手のそばへ寄せた。届く位置にあることを、患者が証明しなくてもいいように。
イレナが詰所へ戻ると、ミナが夜の呼び鈴帳を開いた。サナの一度の鈴は、新館東三階・三番寝台として記録されている。時刻、イレナが来た時刻、脈を取った時刻。三つの線が揃っていた。
「薬庫の夜箱は」
レントが訊く。
「新館の札が出ています」
ベルクが答えた。
「旧館側は、まだ静かです」
ミナは呼び鈴帳の横に、詰所の音を記す細い札を置いた。鈴が鳴れば、音の札には回数、帳面には寝台番号、薬庫には患者名が残る。今夜のサナの一度は、三つとも同じ順番で揃っている。
「音だけが鳴って、帳面に残らないことはありますか」
サナが訊く。
「紐が切れたときは」
ベルクが言った。
「逆に、音がなくて帳面だけ動くのは、普通ではありません」
ミナは、そこで紙へ線を引いた。今見ているのは、鈴の音そのものではない。音を受けたあとに、誰がどの寝台へ行くかを残す記録だ。だから音がない記録が出れば、病室の紐より先、あるいは別の館から、同じ夜勤の経路へ触れていることになる。
サナは毛布を握った。分からないものが増えたのではない。今夜の自分の鈴が通った道と、通っていないはずのものが残る場所を、初めて分けて見られた。
サナは毛布の中で息を吐いた。自分の鈴は、少なくとも今夜はここへ届いた。眠る前に、誰かが自分の名を別の館へ持っていくのではないかという恐怖が、少しだけ遠ざかる。
その直後、詰所の板が、別の欄で白く光った。
音は鳴らない。
けれど夜の呼び鈴帳には、旧館三階からの確認印が一つ、ゆっくりと浮かんだ。
鳴っていない旧館の鈴が、記録に残っていた。




