第4巻 第11話 薬庫の二つの鍵
薬庫の鍵は、どちらも同じ大きさだった。
ミナはベルクの掌に置かれた二本の真鍮鍵を見比べた。片方には新治癒院の印――開いた窓の形をした小さな刻印がある。もう片方には、旧館の塔を横から見たような印があった。歯の数も、持ち手の輪の太さも似ている。違うのは、使い込まれた鍵の縁が少し黒いことだけだった。
「旧館の鍵は、もう使わないはずでは」
ミナが訊くと、ベルクは新館の鍵を先に指でつまんだ。
「薬棚を開けるのは、こっちです。旧館のものは、移転前の薬の引き渡しを戻せるように残してある」
「戻すのは、どんなときですか」
「薬の受渡先が旧館か新館か、取り違えだったと分かったとき。旧館で出した分と、新館で出した分が重なったとき」
ベルクはそう言ってから、鍵を握り直した。
「本来なら、移転が終わった時点で使わなくなるはずでした」
薬庫には朝の薬草の匂いが満ちていた。乾いた葉、煮詰めた根、少し甘い鎮静の粉。棚ごとに木札が並び、夜の分だけは小さな蓋つきの箱へ移されている。箱の前には、昨夜の手書き記録と同じ患者名が、細い札で下がっていた。
ミナはサナの札を取らずに見た。表には名前と薬の量、裏には東三階の番号。受付票に残っていた旧館番号は、ここにはない。
「この札を出すとき、患者を確認するものは何ですか」
「昼は、受付から来た新館の名簿。夜は、病室から届く補助の照合印も見ます」
「補助の照合印?」
ベルクは棚の奥から、平たい黒石の板を引き出した。掌より少し大きい板の上へ札を置くと、名前の横に淡い線が浮かぶ。線は薬庫の札から、病室の方角へ伸び、そこで二つに分かれた。
一つは新館の東三階。
もう一つは、旧館の三階へ向かっている。
「昼には片方だけです」
ベルクが言った。
「夜になると、古い線が出ることがある」
ミナは板へ顔を近づけた。線は原因を教えてくれない。どの経路が生きているか、その候補を示すだけだ。それでも、札の名前が二つの場所へ届いていることは、現物として見える。
「この板は、誰の権限で開きますか」
「薬師の鍵と、夜勤の引き継ぎ印です」
「新旧で違いますか」
「鍵は違う。印は、同じ患者紋を参照します」
ベルクは言いながら、二本の鍵を黒石の脇に置いた。新館の鍵で小さな蓋を開けると、板の新館側の線が明るくなる。旧館の鍵を近づけると、古い線が薄く灯る。どちらもサナ・リュベルの名へ触れている。
「同じ患者紋を、二つの薬庫が読めるようにしてある」
「移転中に薬を切らさないためです」
ベルクの答えは、言い訳ではなかった。旧館で出した薬を新館の医師が知らなければ、同じ薬を重ねて渡す。新館の札だけを先に有効にすれば、旧館に残る患者の夜分が途切れる。二つの鍵が同じ名を読めることは、あの混乱の日には必要だった。
「でも、今は二つとも残っている」
「はい」
ベルクは薬棚のいちばん下から、移転月の引き渡し帳を取り出した。紙の端は薬草の粉で黄ばんでいる。そこには、旧館の棚番号、新館の棚番号、患者名、薬を渡した時刻が横に並んでいた。
「この月だけ、二つの番号を一行へ書きました」
サナの名を探すと、旧館三階の棚番号に横線が引かれ、その隣へ新館の東三階と書かれている。横線のそばには、薬師の印と、夜勤者の印が二つずつあった。
「新館へ渡したことを示すための印ですか」
「最初はそうでした。旧館で薬を出していないこと、新館で同じ薬を受け取ったことを、朝番と夜番の両方が確認する」
ベルクは、次の頁をめくった。
「問題は、旧館の番号を消してはいけなかったことです。移転の途中で戻る患者がいた。新館の補助が合わず、旧館の隔離室で一晩だけ見ることもあった。番号を消すと、その人の薬がどこにも出せなくなる」
「それで、二つの番号を同じ患者紋へ繋いだ」
「ええ。戻る人を、名簿から消さないために」
ミナは帳面の余白を見た。薬師の字とは違う、細い筆跡で「夜間は旧棚を先に確認」と書かれている。誰かが夜の混乱を避けるために残した指示だろう。薬庫の当番は、夜ほど人数が少ない。病室から急ぎの札が来たとき、新館の引き出しを探して空なら、旧館の箱まで走る。最初から古い棚を開けば、薬を遅らせずに済んだ時期があった。
「この指示は、いつ終わるはずでしたか」
「旧館の在庫を全部引き上げたあとです」
「終わった印は」
ベルクは答えず、帳面の最後の頁を開いた。旧館在庫の欄はほとんど埋まっている。しかし隔離用の薬、夜間だけ出す鎮静薬、呼吸補助の予備粉には、引き上げ済みの印がない。
「夜の分だけが、残った」
「残す判断をしたのは誰ですか」
「私と、前の薬庫長です。新館の夜が落ち着くまで、と」
ベルクは、逃げずに言った。
「新館の薬棚が一度空になった夜がありました。搬送が遅れて、鎮静薬を待たせた患者がいた。だから旧館の予備を先に読めるままにした。患者を待たせないためでした」
ミナは彼を責められなかった。古い鍵を残したことが、今の夜に影を落としているかもしれない。だが、当時それを外していたら、薬を待った患者がいた。後から見れば余計な線も、その時には誰かを繋ぐ手だった。
「鍵そのものは、誰が持ちますか」
「夜の薬師と、旧館の管理人だけです」
「ローデさん」
「ええ。けれど彼は、薬を出しに来ません。旧館の隔離室と蓄魔具を見ているだけだと聞いています」
聞いているだけ、という言葉に、ミナは印をつけた。確認したことと、誰かから聞いたことは分ける必要がある。今は、鍵が二本あり、同じ患者紋を読む。旧館側の夜の在庫と、そこへ続く優先指示が残っている。そこまでが現物と帳面で確かめられたことだった。
ミナは昨夜の白灯を思い出した。患者の名前が消えたとき、薬庫の黒石板は何を見ていたのか。薬を渡すための照合と、呼吸を補助するための照合が、同じものかはまだ分からない。
「夜勤の引き継ぎを、見せてもらえますか」
ベルクは頷き、詰所へ続く小扉を開けた。そこには夜の薬箱があり、患者ごとの札と、病室から来た呼び鈴の写しが入る。引き継ぎのたび、薬師は鍵を新館側へ回し、看護者は病室の照合印を押す。二つが揃えば、夜の薬箱は開く。
昼のうちに、ミナは患者名のない練習札で確かめた。新館の鍵だけを使えば、板は新館の棚番号へ一度だけ線を伸ばす。旧館の鍵だけなら、古い棚番号へ伸びる。二本を同時に板へ近づけても、昼は新館の線が先に明るくなった。
「昼は、新しい鍵が優先される」
ミナは記録紙へ書いた。
「夜に同じことが起きるかは、患者の札を使わずに見られますか」
「夜用の練習札はありません」
ベルクが答える。
「夜の箱は、実際の患者の引き継ぎ印がなければ開かない」
それも、患者を間違えないための作りだった。誰かの名前を借りて試すことはできない。だから今夜の確認は、薬を渡す順番を変えず、患者へ余計な合図を出さずに、板の横で見るしかない。
「見ているだけなら、患者さんの手順は変わりませんか」
「変えません」
ベルクは答えた。
「変えない。だから、何も起きなければそれも残す」
「昨夜は、どうでした」
「最初の白灯のあと、箱が一度閉まりました。私は新館の鍵を回した。けれど、サナさんの札だけ、印が戻らなかった」
「旧館の鍵は使いましたか」
「いいえ。使う理由がない」
ベルクは、そこを強く言った。
「私は旧館の鍵を持っていただけです。夜の薬は新館の患者に出した。古い鍵で開けたことはない」
疑われていると思ったのだろう。ミナはすぐに首を振った。
「誰が使ったかを決めたいのではありません。鍵を使わなくても、旧館側が読めるなら、どこで優先が変わるかを見たいんです」
ベルクの肩が少し下がった。
「では、夜に来てください。昼の板では、古い線が弱すぎる」
その日の夜、ミナは薬庫の隅で砂時計を見ていた。患者を起こさないため、照合だけを確認する。ベルクは夜の薬箱の前に座り、イレナは病室から持ってきた引き継ぎ印を机へ置いた。
最初の一刻は何も起きなかった。新館の鍵が、黒石板の中央で淡く光る。サナの札は東三階へ線を伸ばし、薬庫の箱も開いたままだ。
旧館の鍵は、机の端に置かれている。誰も触れない。
夜半が近づくと、板の上の線が一度だけ震えた。
「今です」
ミナが言った。
新館側の線が細くなる。代わりに、旧館三階へ向かう線が濃くなった。ベルクの手は鍵から離れている。イレナの引き継ぎ印も、新館のままだ。
黒石板の横にある小さな鍵穴が、自分で音を立てた。
真鍮の輪は動いていない。それでも、旧館の鍵の印だけが白く光る。
夜間だけ、薬庫の鍵は旧館側を先に読んでいた。誰も古い鍵へ触れていないのに、その優先だけが、夜の患者名よりも早く、静かに先回りしていた。




