第4巻 第10話 受付から病室まで
サナは、受付の前で一度止まった。
新治癒院へ移った日、ここには人が多すぎて、床の石の色まで覚えていなかった。荷車から下ろされたあと、誰かが名前を呼び、誰かが腕へ札を結び、誰かが「次はあちらです」と言った。息が苦しくなってからは、声よりも天井の白さだけが残っている。
今日は、イレナが車椅子を押している。レントとミナは少し後ろに立ち、受付係の女性が机の向こうで紙を揃えていた。院長の許可はある。けれどサナは、ここへ来る前に、三人へ自分の条件を伝えていた。
「胸が詰まる感じが強くなったら止めます。息が三回続けて浅くなったら、次の場所へ行きません。移転の日の話を聞かれて、答えられなかったら、その質問もやめてください」
イレナはそれを小さな紙に書き、サナの膝の上へ置いた。レントは「分かりました」とだけ言った。大丈夫かと何度も尋ねず、ここから戻ることも調査の結果だと先に言った。
受付係は、サナの前へ一枚の新しい受付票を置いた。
「今の手続きは、まずここです。面会の方や搬送の方が来たとき、名前と、生まれた季節を聞きます。札を出して、病室の番号を確認します」
紙には、サナ・リュベル、二十二歳、長期入院、東三階という文字がある。名前の横には、細い青い印が押されていた。
「私が答えられないときは」
サナが訊く。
「最初の入院票と、付き添いの方の確認を使います」
「叔母は、いつもここにいるわけではありません」
「分かっています。その場合は、病室から送られた札と、薬庫の名簿を……」
受付係の声が少し弱くなった。紙の上には、本人が答えられないときの欄がある。だが、実際に夜中、誰がその欄を開き、どの札を持ってくるかまでは書かれていない。
サナは受付票の端へ触れた。紙は新しい。名前も、病室も正しい。けれど、それを誰が正しいとするのかを、彼女は夜に知っている。
「夜勤の人が、私の名前を聞くときも、この紙を見ますか」
「夜勤の方は、病室の帳面を」
「薬庫は」
「薬庫は、こちらの名簿の写しを」
同じ名前を、違う紙が持っている。サナはそれを、責めるために聞いているのではない。夜に自分が消えたとき、どの紙へ行けば戻れるのかを知りたかった。
ミナが受付票の青い印を見た。
「この印は、何を示しますか」
「新館へ入ったときの照合済みです」
「いつ押しますか」
「受付で、病室が決まったあとに」
受付係は答えた。けれど、移転の日に押したのか、今の病室へ移ったあとに押したのかは、すぐには分からなかった。紙の端に日付はある。だがその日は、サナが二度目の発作を起こした日だった。
サナの胸が、少しだけ縮んだ。
「止まります」
自分で言うと、イレナはすぐ車椅子の横にしゃがんだ。
「今の息は」
「浅くはないです。昔のことを、急に思い出しました」
「ここで終わってもいい」
レントが言った。
「終わりません。水を飲んでから、次へ行きます」
サナは膝の紙を指さした。息が浅くなったら止める。思い出して答えられなければ質問をやめる。今は、答えを求められていない。自分で続けたいと思っている。
受付係が温かい水を持ってきた。誰も、急いで次の紙を出さなかった。
水を半分飲んだあと、サナは受付係へ訊いた。
「私が新館へ来ることに同意した紙は、ここにありますか」
受付係は一度、棚の上の箱を見た。移転の日の書類を入れた箱だ。彼女は鍵を開け、名前順に綴じられた薄い冊子を取り出す。
「あります。本人が署名できない場合は、付き添いの方の確認と、担当医の記載が必要です」
開かれた紙には、サナの名前と、叔母の名前があった。署名の横には、小さく「呼吸補助の接続確認後に病室へ」と書かれている。
サナは叔母の筆跡を見た。震えてはいない。移転の日、叔母は手が震えるのを隠して、紙へ名前を書いたのだろう。サナが発作を起こしたあとの二度目の記載には、担当医の名前だけがある。
「この紙を出したとき、叔母には何を説明しましたか」
「……当時の受付係が説明しました。私は、あとから写しを受け取っただけです」
「分かりました」
サナは紙を戻した。誰を責めても、あの日の説明は戻らない。けれど同意の紙が、受付の棚で止まっていることは分かった。薬庫の木札へは名前が行く。病室の帳面へも行く。でも、サナが「移さないでほしい」と言った理由や、発作のあとに何を怖がるかは、紙のどこにも渡されていない。
「今、私が調べることに同意するなら、何を書きますか」
受付係は驚いたように瞬きをした。
「調査の同意、ですか」
「受付から薬庫、病室までを見ること。途中で息が苦しくなったら止めること。家族へ知らせること」
イレナが膝の上の小さな紙を取り、受付台へ置いた。今朝サナが決めた中止条件が書かれている。
「この紙は、今のところ夜勤帳にしかありません」
「なら、写しを二つ作ってください」
サナは言った。
「一つは叔母に渡す。もう一つは、私の病室に置く。私が続けたくないと言ったことを、次の人が知らないままにしないで」
受付係はうなずいた。「叔母様への写しは、私が署名の後に受け取り簿へ記します。今日の面会で渡せなければ、明日の朝までに叔母様の届け先へ持って行きます」
レントは口を挟まなかった。サナが自分で決めた条件を、彼の調査のための許可へ変えてしまわないようにしているのだと分かる。
受付係は、新しい紙を引き出した。そこへ「本日の確認は受付・薬庫・病室まで」「本人の申出で随時中止」「叔母様への写しは受付係が明日朝までに届ける」と書く。サナは一行ずつ読んだ。最後に、自分の名を書いた。
署名を終えたとき、胸の奥にあった重さは消えなかった。それでも、今日は自分の手で始め、止められる道を持っている。そのことだけは、移転の日と違った。
薬庫へ向かう廊下は、病室より明るかった。窓から入る光が、棚の札を白く照らしている。薬師のベルクが、引き出しを一つ開け、サナの名が書かれた細い木札を取り出した。
「これが、サナさんの夜の分です」
木札の表には名前、裏には薬の量と時刻がある。引き出しの奥には、同じ色の札が何十枚も並ぶ。
「この札は、どこから来たんですか」
「受付の名簿を写して、薬庫の帳面へ入れます。病室が変われば、古い札を抜いて、新しい場所の棚へ移す」
「古い札は、どうなりますか」
ベルクは引き出しの下段を開けた。そこには細い束があり、紐で結ばれている。
「月末に照合して、保管します。薬の間違いがあったとき、いつ何を渡したか戻れるように」
サナは束を見た。捨てられない札があることは、少し安心だった。だが、古いものが残ることと、古いものが今も自分を呼ぶことは違う。
「夜に補助具が私を見失ったら、ベルクさんの札で戻せますか」
「薬を渡す名は確認できます。でも、補助具へ直接は届かない」
「では、ベルクさんが正しくても、病室では足りない」
ベルクは頷いた。
「だから、昨夜は紙に手首の脈を書いたんです」
その言葉に、サナは昨夜の砂時計を思い出した。紙に残る脈は、補助具を動かす魔法ではない。それでも、誰かが自分をここにいると知るための手になる。
薬庫を出る前、サナは木札の裏をもう一度見た。そこには「東三階」と書かれている。受付票と同じだ。今の自分の場所は、少なくとも二つの紙で繋がっている。
病室へ戻る廊下で、サナは一度だけ車椅子の車輪を止めた。
「ここは、移転の日に通りました」
壁の角に、薄く色の違う石がある。旧館から運んだ手すりを、新館の壁へつなぐために補修した跡だという。サナはその石を見て、荷車から下ろされたときに、叔母の手を探したことを思い出した。
「戻りましょうか」
イレナが訊く。
「病室まで行きます。今日は、そこへ戻るために来たんです」
東病室では、イレナが夜勤帳を開いた。受付票と薬庫の木札とは違い、帳面には患者の名前が一行ずつ並び、隣に呼び鈴の確認時刻と補助の記録を書く欄がある。
「ここには、私をどう書きますか」
「サナ・リュベル。東三階、三番寝台」
「受付と同じです」
「今は」
イレナが言った。
帳面の後ろには、移転前の写しが綴じられている。夜勤の引き継ぎで、古い病状を確かめるために残しているものだ。イレナはその束を取り出し、サナへ見せてよいか尋ねた。
サナは少し考えた。
「見ます。読めなかったら、閉じてください」
古い紙の文字は、今の帳面より薄い。そこにはサナの名と、旧館の病室番号があった。移転の途中で書き替えたらしい行の上に、新館の東三階という字が重なっている。
イレナは二つの帳面を並べ、日付と署名を指で追った。旧館の番号に線を引いたのは受付の印で、新館の病室を書き足したのは夜勤帳の筆跡だった。どちらも、サナをここへ繋ぐためにした仕事に見える。だからこそ、片方だけが残っていても、誰も間違いだと気づきにくい。
しかし受付票の端にも、同じ筆跡の数字が残っていた。
青い照合印の下に、消しきれない旧館の番号があった。




