第4巻 第9話 建物だけを調べろ
院長室の机には、二枚の紙が並んでいた。
一枚は新治癒院の見取り図だった。流路室、薬庫、病室、詰所、旧館へ続く地下の配管。ミナが赤い糸で、夜に白くなった補助具の位置を結んでいる。
もう一枚は、患者の移転手続だった。受付で渡す札、病室の割り当て、薬庫へ届く名簿、夜勤者が使う呼び出し帳、家族控室の面会表。文字ばかりの紙だが、レントにはこちらのほうが、昨夜の病室に近く見えた。
「調べるのは、建物と設備にしてください」
マレクが言った。
「患者の手続きを、もう一度開かないでほしい」
レントは紙から目を上げた。院長の声は、調査を妨げるためだけのものではなかった。サナが受付で二つの自分の名を見たこと。夜勤者が患者の名を呼んでも板が返事をしなかったこと。移転を思い出させる紙をまた患者の前へ出せば、眠れない夜を増やすかもしれない。
「手続きを開くために、患者さんへ聞き取りをするつもりはありません」
レントは答えた。
「ただ、建物だけを見て直せるかは、まだ分かりません」
「流路は規定内でした」
「はい」
「蓄魔も残っていました」
「はい」
「なら、まず管と紋を調べるべきでしょう。患者をまた受付へ連れて行き、名を書き直させる前に」
マレクの言葉は正しい。レントも、患者の寝台の横で名前を何度も確認することが、ただの質問ではないと知っている。答えるたび、ここにいることを証明しろと言われる。今、眠りに怯えている人へ、移転の日をもう一度歩かせる理由はない。
「私も、患者さんを検査の材料にしたくありません。同意なく手続きを追わず、まず紙と、そこで働く人の説明を照らします」
「それで手続きの取り違えがなければ、建物だけを見ればいい。そういう順番です」
マレクは、机の上の二枚の紙を見比べた。
レントは患者手続の紙を指さした。
「夜に白くなった補助具は、患者の名を確認できないと言いました。補助具が置かれている場所は建物の中です。でも、誰を補助するかは、壁や管だけでは決まりません」
「それは、古い名簿が悪いと言いたいのですか」
「まだ言えません。旧館の鐘と時刻が重なったことも、患者が眠ると表示が揺れることも、原因ではなく現象です」
レントは、連環視を使っていない。ここで線を見たとしても、紙と管と人の間に候補が増えるだけだ。患者の前で説明できないものを、院長へ答えのように出すことはできない。
「ただ、夜勤者がどの板を見て、どの帳面で患者を探し、誰へ引き継ぐかは、建物の外側ではありません。そこが旧館のままなら、管を替えても同じ夜が残ります」
マレクは見取り図を押さえた。
「今は、受付、薬庫、夜勤帳の三つです。紙を比べ、同じ人をどう呼んでいるかを聞く。患者さんにもう一度歩いてもらうのは、それでも足りないと分かってからです」
「それだけで足りなければ」
「患者さん自身に、何を見せてよいか、何を止めたいかを聞きます」
「また、不安にさせる」
「不安にさせる可能性はあります」
それを否定しなかったことに、マレクの表情がわずかに固くなった。
「ですが、夜に名前を見失われる不安を、患者さんが一人で引き受け続けるほうが危険です。調べることを患者へ押しつけず、決める前に説明する。その順番は守ります」
マレクは、患者手続の紙を裏返した。
「では、あなたの言う手続きの調査は、どこまでですか」
「今は三つです」
レントは指を一本ずつ立てた。
「受付が、誰をどの病室へ案内するか。薬庫が、誰の薬をどの札で渡すか。夜勤が、誰の呼び鈴をどの帳面で受けるか」
「患者の前へ行かずに、それが分かりますか」
「紙と、そこで働く人の説明だけでは、足りないかもしれません」
レントは言った。
「だから、足りないと分かった時点で止めます。患者さんに頼む前に、どの場所へ行くのか、何を確かめるのか、何が起きれば中止するのかを伝える」
「中止する条件まで決めるのですか」
「はい。夜の補助と同じです。調査で疲れた、息が苦しい、昔の移転を思い出して続けられない。そう言われたら、その場で戻る」
マレクは、しばらく紙を見ていた。自分が恐れているのは、患者がまた荷車へ乗ることだけではない。患者の意思を聞くという形で、実際には断れない頼みをすることだ。院長や看護者が必要だと言えば、患者は自分を後回しにする。夜勤者が足りないと知れば、眠れないまま協力すると言う。
「患者が、断れないと言ったら」
「断らせます」
レントは即座に答えた。
「院長や私の前で返事をさせない。担当の看護者と家族に、あとで返す時間を渡す。協力しなくても治療が変わらないことを、先に言う」
それは正しい手順に聞こえる。だが、手順を増やせば今夜に間に合わないかもしれない。マレクはその焦りを、自分の中で見つけた。夜が来る前に何かを直したい。だから患者の返事を待つ時間すら、遠回りに見えてしまう。
「時間がありません」
「だからこそ、急ぐ範囲を狭くしたいんです」
レントは見取り図の赤い糸へ目を落とした。
「患者を動かさないなら、まず人と紙の動きを見る。そこに問題がなければ、建物へ絞れます。問題があれば、建物の中のどこを止めると危ないかも分かります」
「人と紙を先に見ることが、患者を守ることになると」
「そうならない可能性もあります。だから、結果が出るまで患者へ期待を持たせない。直ると約束もしません」
その慎重さが、マレクには歯がゆかった。完成式の日なら、誰もが早く扉を開けろと言っただろう。だが今は、早く直すための言葉が、患者の選択を消すかもしれない。
マレクは、見取り図の上に手を置いた。
「受付、薬庫、夜勤帳までを見てください。ただし、患者へ声をかける前には、私かイレナへ伝えること。本人が断れば、その先へ進まない」
「分かりました」
レントは頷いた。許可は出た。けれど、患者の手続きへ踏み込むことは、まだ誰も決めていない。
院長室の外で、廊下を走る車輪の音がした。薬の台車だろう。次に鈴が鳴れば、会議はそこで終わる。レントは、今ここで院長を言い負かしたいわけではない。調査のために、患者の生活をまた入口から作り直すこともしたくない。
「建物だけを調べる、という言葉には賛成できます」
レントは言った。
「最初に患者を動かさない。旧館へ戻さない。夜勤者の手を止めさせない。その意味なら」
「しかし?」
「建物だけで終わったと決めないことも、同じ条件にしてください」
マレクは答えなかった。見取り図の赤い糸は、地下の管から三階の病室へ伸びている。隣の紙では、患者名が受付、薬庫、夜勤帳へ矢印で移る。そのどちらかだけを見れば、もう片方は静かに消える。
そのとき、扉が二度叩かれた。
「入っていいですか」
サナの声だった。
イレナが車椅子を押して、サナを室内へ入れた。長く歩けない患者が、院長室まで来るだけでも負担だ。レントは思わず立ち上がり、すぐに座り直した。ここへ来たことを、調査に使えると考えたくなかった。
車椅子の車輪には、廊下の敷居で付いた白い埃が残っていた。サナは膝へ毛布を掛け、片手で呼吸補助具の紐を整えている。無理をして元気に見せようとしているわけではない。休みながら、自分でここへ来る道を選んだのだと、レントはその動きから受け取った。
「無理をさせましたか」
マレクがイレナへ訊く。
「私が来たいと言いました」
サナが先に答えた。
「廊下の途中で休みました。息は大丈夫です」
彼女は膝の上に、昨夜の記録の写しを置いていた。砂時計の線と、患者の言葉が並んだ紙。端には二刻ぶんの空白がある。
「私のことを、調べるかどうかを話しているんでしょう」
「サナさんに、今ここで決めてもらうつもりはありません」
レントは言った。
「寝台で休んでいてください。必要なら、こちらから分かるように説明します」
「説明だけ聞いて、また夜に待つんですか」
サナの問いに、レントは言葉を止めた。
「私は、受付の板に二つ名前があったのを見ました。夜には、補助具に名前がないと言われた。どちらが本当か、ここで決めてほしいんじゃありません」
サナは紙の空白を指で押さえた。
「私がどこからここへ来て、誰が私を呼んで、薬をどこで受け取るのか。私の手続きなら、私が一緒に歩きます」
マレクが息をのんだ。
「サナさん、それはまた移転を思い出させます」
「思い出さないようにしても、夜に戻ってきます」
サナは院長を見た。
「だから、私のいないところで決めないでください」
彼女は記録の写しの空いた二刻へ指を置いた。その時間には、だれかが呼び、だれかが走り、だれかが返せなかった。それを、今度も紙の外に置きたくはなかった。
それからレントへ顔を向けた。
「私の手続きを歩いて」




