第4巻 第8話 完成式の銘板
新治癒院の玄関には、まだ完成式の銘板が掛かっていた。
磨かれた白石の板へ、金色の文字でこう刻まれている。
――王都支援により、新治癒院は全機能の移転を完了した。
マレクは毎朝、その板の前を通った。完成式の日は、ここに花が飾られ、王都から来た役人が新しい扉を褒めた。広い廊下。家族控室。薬庫の温度を保つ棚。旧館の雨漏りを知る者なら、誰もが新館を必要だと言った。
だからマレクも、「完了」と書かれた紙へ署名した。
今は、その文字が玄関から中へ入る人間へ、もう何も困っていないと告げているように見える。夜に患者名が消え、夜勤者が床へ倒れたことは、銘板のどこにも書かれていない。
院長室へ戻ると、机の上に王都保健局の封書が届いていた。封は青い蝋で閉じられ、端に「移転完了後支援・精算確認」とある。マレクは封を切らずに、しばらくその文字を見た。
完成を宣言した月から、新治癒院は特別移転枠ではなく、通常の運営枠で扱われる。補助金は新しい設備を入れるためだけの金ではない。夜勤者を増やすための手当、夜間用の蓄魔、呼吸補助の替え部品、遠方から来る家族へ渡す一時宿の券。その多くが、移転の途中だからこそ認められていた。
封書を開くと、予想したとおりの文があった。
完了報告を受理したため、翌月より移転支援枠を終了する。未使用分は返還手続きへ移し、通常予算をもって運営を継続すること。
紙の下には、小さな算定表が添えられている。夜間の追加看護者二名。非常用の蓄魔箱三基。呼吸補助具の交換弁。次月の薬草仕入れ。どれも、今の異常を抱えたまま削れないものだった。
マレクは算定表の余白へ、手元の数字を書き足した。移転支援が続けば、夜勤の追加は二人ではなく三人にできる。蓄魔箱の予備も置ける。リルを休ませても、別の補助を呼べる。
支援が消えれば、まず夜勤の追加枠を取り下げなければならない。次に薬庫の夜間当番を減らす。薬草の仕入れを遅らせれば、痛み止めの種類を絞ることになる。呼吸補助の部品を後回しにすれば、今夜は動いている設備へ、来月の不安を積むことになる。
文書には、条件が一行だけ書かれていた。
移転未完了を理由に完了報告を撤回する場合、当該支援は翌月分から停止する。
マレクはその一行を、三度読んだ。
支援が続かない、ではない。撤回すれば、翌月分から止まる。未完了を認めれば、今、夜を守るために必要な人と物を失う。
ノックの音がした。入ってきたのは、経理を預かる年配の書記官だった。彼は封書と算定表を見るなり、顔を曇らせた。
「届きましたか」
「知っていたのですか」
「完成式のあと、王都から照会が来ていました。通常枠へ移す準備をしろと」
「撤回すれば、翌月で終わると」
「はい」
書記官は椅子に座らず、机の横に立った。
「院長、私は完成報告を出すことが間違いだったとは言いません。あのまま旧館へ残れば、冬の雨漏りで薬庫が使えなくなるところでした。新館を開かなければ、治療院そのものが縮小していました」
「でも、開いたことと、移り終えたことは別だった」
マレクが言うと、書記官は目を伏せた。
「別です」
事務の言葉としては、同じ箱へ入れられていた。開院完了。移転完了。補助金の完了。けれど病室では、呼び鈴がどこへ届くか、夜勤者が誰の手を離せるか、家族がどの受付へ来るかがまだ終わっていない。
マレクは銘板の文言を思い出した。全機能の移転を完了した。あの短い言葉があることで、紙の外に残った仕事は、誰の予算にも入らなくなる。
「通常予算では、夜勤をどうしますか」
「今の人数を維持するだけで精一杯です」
「追加は」
「外来を減らすか、薬草の契約を切るかです」
外来を減らせば、町から来る軽い症状の患者が、病気をこじらせてから来る。薬草を切れば、入院患者の痛みが増える。夜勤だけを選んで守れば、別の入口が細くなる。
書記官は算定表を裏返し、普段は院長へ見せない細かな帳面を開いた。薬庫の棚番ごとに、次月の入荷予定が書かれている。
「夜勤を一人増やすための手当は、ここです」
彼は細い欄を示した。
「移転支援枠があれば、二人分を先に押さえられます。通常枠だけなら、外来の午後番を一人減らして、その分を夜へ回すことになります」
「薬のほうは」
「痛み止めの薬草を、長く保つものから短く保つものへ替える。薬師は調合の回数が増えます。夜に急な痛みが出たとき、すぐ渡せる分は減る」
マレクは、昨夜の年配の女性を思い浮かべた。痛みを抑えれば眠くなる。眠らなければ、呼吸を見失うかもしれない夜を恐れる。薬を減らせば、彼女は眠らずに済むかもしれない。しかし、痛みを抱えたまま朝を待つことになる。
「蓄魔箱は」
「予備を置けません。今ある三基を回し、空になったものから充填する。充填を待つあいだに、別の病室で必要になれば……」
書記官は言葉を止めた。最後まで言わなくても分かる。誰かの非常用を、別の誰かから借りることになる。
マレクは帳面の数字が、患者の顔へ変わっていくのを止められなかった。夜勤一人分は、イレナが水を飲む間。薬草一箱は、眠り薬を減らした女性の夜。蓄魔箱一基は、呼吸補助の弁が遅れたときに手を添える間。数字の外へ出れば、どれも誰かの「今夜だけ」になる。
「支援枠の終了を、延ばす申請は」
「完了を撤回せずに、ですか」
「はい」
書記官は首を横に振った。
「夜勤の不具合では、移転支援を延ばせません。建物に欠陥があると認定されるか、移転が未完了だと報告するか。そのどちらかです」
「夜に患者を見失うのは、欠陥ではないのですか」
「現場ではそうです。王都の様式では、どの機能が未完了かを一つ選ばなければなりません」
完了、未完了。建物、設備、患者名簿、薬庫、家族の連絡。違うものを一つの丸印へ入れるために、誰かがまだ歩いている仕事を削る。
マレクは窓の外ではなく、壁に掛かった新館の見取り図を見た。薬庫、処置室、東病室、家族控室。部屋にはすべて名前がある。しかし夜勤の手が、どの廊下からどの患者へ届くかまでは、見取り図に描かれていない。
「銘板を外したら、すぐに撤回になりますか」
「銘板は式典のものです。外しても文書は変わりません」
書記官は慎重に答えた。
「ですが、銘板をそのままにして未完了を報告すれば、患者も職員も、何を信じればよいか分からなくなるでしょう」
その通りだった。石の板を外すことは、予算を守る手ではない。だが、掲げたままにすることも、患者へ「もう済んだ」と言い続けることになる。
マレクは、玄関で子どもが金の文字を追おうとした手を思い出した。あの子へ、治癒院が縮小するかもしれないとは言えない。けれど、ここが大丈夫だと、まだ言い切れないことも隠せない。
「今月のうちに、直せるところまで直す」
彼は帳面を閉じた。
「直せなければ、銘板も報告も、私が撤回します」
書記官は返事をしなかった。撤回すると言うだけなら、院長室では簡単だった。そのあとに来る返還の通知、仕入れ先への断り、夜勤へ渡せなくなる手当を、彼は知っている。マレク自身も、翌月の棚からどの薬が消えるかを、今、数字で見たばかりだった。
それでも「完了」を守るために夜を見ないふりをすれば、削られるのは来月の帳面だけではない。今夜、眠ろうとする患者の前で、看護者が何を言えるかまで細くなる。
マレクは封書を机の端へ置いた。返事の期限は月末。あと十日あまりしかない。銘板の金文字は、玄関で変わらず光っている。その下で、まだ移り終えていない仕事が、夜ごとに息をしていた。
「撤回しないで済むように、直すべきだと思っています」
「それは、間に合えばです」
「間に合わなければ、私は撤回します」
書記官が顔を上げた。
「院長。撤回すれば、来月の薬も夜勤も、今のままには残せません」
「分かっています」
分かっているから、言葉は胸の中で重くなった。
机の脇には、昨夜の勤務札がある。イレナの札。ベルクの札。リルの札。誰かが倒れてから増やす人手を、撤回によって先に減らすのは、あまりにおかしい。だが未完了を完成と呼び続ければ、患者が夜に消えることまで、完了した仕事の外へ追い出してしまう。
窓の外で、銘板を見上げる家族がいた。小さな子どもが、金の文字を指で追おうとして、母親に止められる。母親は「ここなら大丈夫」と言った。聞こえた声は、マレクの背へ静かに刺さった。
大丈夫であることを、銘板が証明してくれるわけではない。
それでも撤回すれば、翌月の予算は失われる。そのことを、今夜はまだ誰にも渡せない。
マレクは封書を閉じず、朝まで待つべき返答の束の上へ置いた。金の文字を残すか、夜勤の手を残すかという二つだけの選択にしてはならない。それとも、まだ、まったく別の手が紙の外に残っているのか。




