第4巻 第7話 再移転なし
マレク・ディオールは、移転の荷車をもう一度院庭へ入れる光景を、何度も夢で見ていた。
荷車が石畳を越えるたび、寝台の脚が鳴る。蓄魔箱を抱えた看護者が走る。家族は自分の荷物を持つこともできず、患者の名を呼びながら門の外へ並ぶ。新治癒院へ移る最初の週、マレクはその光景を毎日見た。完成を祝うための白布が玄関に掛けられている横を、呼吸の弱い患者が、顔色を失って運ばれていった。
サナ・リュベルは、あの日二度発作を起こした。
一度目は旧館の階段を下りたあと。二度目は新館の受付前で、補助具の接続を待っているときだった。彼女の叔母は、抱えていた着替えの包みを床へ落とした。包みは開き、冬用の靴下と、患者用の書きかけの手紙が石床へ散った。マレクはその手紙を拾い、渡すことしかできなかった。
家族が散ったのは、サナの家だけではない。
面会の時間に合わせて旧館へ来た夫が、新館の場所を聞けずに一日探した。子どもを連れた母親は、移転の混乱で面会札を受け取れず、薬の説明を聞けなかった。病室を移る患者だけを見れば、移転は一日で済んだように見える。だが家族が新しい廊下を覚え、看護者が呼び鈴の音を聞き分け、薬庫が患者の名を新しい棚へ移すまで、治癒院はずっと半分ずつだった。
院長室の窓から、マレクは新館の中庭を見下ろしていた。洗濯物が風に揺れ、配膳の台車が一階の回廊を通る。ここには、旧館にはなかった広い廊下と、日当たりのよい家族控室がある。だからこそ、もう一度患者を荷車へ乗せるなどと、軽く言えなかった。
机の前にはレント、ミナ、イレナ、ベルクが座っている。イレナの目の下は、夜明けよりさらに暗くなっていた。マレクは彼女へ休めと言えなかった。休ませるための人を、院長である自分がまだ用意できていない。
「昨夜までのことは聞きました」
マレクは言った。
「流路と蓄魔は規定内。夜だけ照合が外れ、手動補助でつなぐ。夜勤を増やしても、引き継ぐ者が眠れない」
「患者も眠れません」
イレナが静かに補った。
「ええ」
マレクは頷いた。
「だから、建物の中で直してください」
レントが、少し間を置いて訊いた。
「建物の中だけ、ですか」
「患者を旧館へ戻さない。別の施設へ移さない。この新館で、補助が夜も動くようにする」
言葉にした途端、部屋の空気が硬くなった。ミナは机の上の時刻表を見る。旧館の夜間鐘と、新館の白灯が重なった紙だ。
「旧館の記録を調べる必要はあります」
「調べてください。ただし患者は動かさない」
「旧館の設備が関係しているなら、現物を止める必要が出るかもしれません」
レントの声は穏やかだった。反対するために声を強める人ではない。その分、マレクは、その先に置かれる条件を聞くのが怖かった。
「止める範囲が新館の補助へ届くなら、どうしますか」
マレクは机から目を離さずに答えた。
「患者に先に説明する。代わりの手を用意する。寝台を動かす以外の方法を、最後まで探す」
「寝台を動かさなければ、命が守れない場合は」
沈黙が落ちた。
マレクの頭には、荷車の上で唇の色を失った患者の顔が浮かんだ。新館の扉をくぐれなかった老夫婦。途中で離れた家族。あの一日を、失敗だったと認めることはできる。けれど、もう一度やり直すために、同じ人たちへ同じ怖さを渡すことはできない。
「そのときは、私が患者と家族の前で言います」
マレクは言った。
「ここで直せなかった、と。だが、調査の途中で、移す前提の話を始めないでください」
イレナが息を吸った。
「院長、それでは危険な患者の順番を決められません」
「決めてください。どの患者を先に守るかは、必要です」
「順番を決めることと、移すことを言えないことは別です」
初めて、イレナの声に疲れ以外の硬さが出た。マレクはその言葉を受け止めた。院長室で「再移転なし」と言えば、現場はそれを「患者を動かす話はするな」と聞く。夜勤者が最悪を口に出せなくなれば、患者の安全はむしろ遠ざかる。
「言い直します」
マレクは椅子から背を離した。
「再移転は、私が求めない。けれど、必要になる条件は隠さない。患者を動かすなら、誰が何を失うかも含めて、私が聞く」
レントが手元の紙を閉じた。
「それなら、今は二つを分けられます。旧館を見ること。新館で患者を守ること。どちらも必要です」
「分けられるのですか」
「まだ分かりません。ただ、片方を見ないために、もう片方を急いで直すことはしたくない」
その言葉は、マレクには厳しかった。新館を完成させると決めたときも、自分は同じように急いだ。患者を良い場所へ移すためだと思いながら、途中で落ちる仕事を見ないふりした。
会議を終える前に、マレクは机の引き出しから移転時の名簿を取り出した。厚い紙束の端には、荷車へ乗せた順番と、付き添いの家族の名が書かれている。赤い印のある行は、途中で補助をつなぎ直した患者だった。サナの行には、二度印がある。
「これは、調査の人にも見せます」
マレクは名簿をレントへ差し出した。
「何を繰り返せないかを、先に知ってもらうために」
レントは受け取らず、紙束を机の上で開いた。赤い印を一つずつ目で追う。そこには、呼吸補助が必要な者だけでなく、移動中に家族と離れた患者、薬の受け渡しが遅れた患者、寝台の高さが変わって痛みを訴えた患者まで記されていた。
「全員を一度に動かさない、という基準はありましたか」
「ありました。急変しやすい患者を先に運び、軽い患者はあとにする、と」
「家族の移動は」
「後回しになりました」
マレクは、自分の答えを聞くたびに、言葉が刃のように戻ってくるのを感じた。患者を先に守ると言えば正しい。けれど、家族のいない新館で、患者が自分の薬も寝具もどこへ行ったか分からなくなったことまで、基準には入っていなかった。
「今度、動かす必要が出たら」
レントが言う。
「患者の容体だけでなく、誰が付き添い、どこで薬を受け、戻せる場所があるかまで、先に並べる必要があります」
「今度は、という言い方をしないでください」
マレクは反射的に言ってから、自分の声が大きかったことに気づいた。
誰もすぐには話さない。
「……失礼しました」
マレクは名簿の上へ手を置いた。
「私は、その表を作る前に、ここで直せるところを全部見てほしい。患者を運ぶ相談が、必要な点検まで追い出す理由になるのも困る。けれど、運ぶことを平気な選択肢に戻したくもない」
ミナが、旧館の帳面を見た。
「旧館には入れますか」
「入れます」
「夜間鐘の設備を動かして、反応を見ることは」
マレクは答えるまでに、長い息を吐いた。旧館の設備を止める話は、患者を運ぶ話ほど明白ではない。だからこそ、安易に許せば新館側の補助が止まり、また誰かを寝台ごと動かすことになるかもしれない。
「人がいないことを確認してから。新館の患者へ影響が出るなら、夜勤者と患者へ先に知らせること。止めたあと戻せる手がないものは、勝手に外さない」
「分かりました」
ミナは頷いた。しかし、その条件があれば、確かめられないものも出る。旧館を動かすには、新館の夜を安全に越える手がいる。安全な夜を作るには、旧館との関係を見なければならない。マレクにも、その輪が見えた。
「私の条件が、調査を遅らせるなら言ってください」
マレクは言った。
「ただし、患者を移すことが早いからという理由だけで、条件を外さないでほしい」
レントはすぐに肯定しなかった。机の上には、旧館へ入る許可と、止めてよい設備の条件が並んでいる。安全のために置いた条件が、現場では「触れてはならない線」になることを、彼は考えているようだった。
「調べながら、必要な条件を具体的に返します」
やがてそう答えた。
「止めるなら、誰が困るか。戻せるか。患者へ何を伝えるか。その三つを、院長にも先に見せます」
マレクは頷いた。許可を出したことで、責任まで渡したつもりにはなれない。だが自分の恐怖だけで、旧館の扉を閉め続けることもできなかった。
イレナが名簿のサナの行を見ていた。彼女は何も言わず、二度の赤印の上へ、夜勤の疲れた指を一瞬置いた。それだけで、マレクは自分が守ろうとするものと、同時に縛ろうとしているものの両方を知った。
窓の外で、家族控室の扉が開いた。子どもが一人、湯気の立つ椀を両手で持ち、廊下をゆっくり歩いている。その後ろを母親が追い、看護者が通路を空ける。新館の広い廊下は、患者だけのものではない。そこに通う人たちの一日も、もうここへ根を下ろしている。
「直してください」
マレクはもう一度言った。
「この建物で。患者をもう一度、移転の列へ並べずに済む方法を」
そして、机の上の勤務札を見た。
「そのために必要な調査は許可します。ただし、再移転を前提にしない。患者と家族への説明と、代わりの手を確かめずには、認めません」




