第4巻 第6話 三人目の夜勤
朝の交代の鐘が鳴っても、新治癒院の三階には、交代できる人がいなかった。
レントは詰所の長机に並んだ椅子を数えた。夜勤明けのイレナ。薬師のベルク。倒れたリルの代わりに朝から呼ばれた看護者が二人。そして、昼番のはずなのにまだ帰っていない若い医師が一人。空いた椅子には、昨夜の砂時計と、二刻ぶん線のない紙が置かれている。
窓の外はもう明るい。病室では朝の湯が配られ、患者が少しずつ身体を起こしていた。夜の異常を知らない見舞客が来れば、いつもの治癒院に見えるかもしれない。だが詰所の誰も、朝になったことを休める合図にできなかった。
「増員は、できますか」
レントが尋ねると、イレナは椅子の背へ寄りかかったまま目を閉じた。
「昼番から二人。外来の看護者を一人。薬庫の補助を一人、回してもらえます」
「今夜の分ですか」
「今夜の分です」
「今朝から働いている人は」
「昼に休ませます」
言葉だけなら、そうなる。レントは返事をせず、机の上の勤務札を見た。木の札へ名前と担当が書かれ、夜番、早番、外来、洗濯室、薬庫、処置室と紐で分けられている。
イレナの札は夜番から外されていない。ベルクも同じだった。リルの札だけが、病室から処置室へ移され、その上に細い赤糸が結ばれている。休養中という印だ。
「イレナさんとベルクさんは、今夜も入るんですか」
「夜の手順を知っている人が、他にいないので」
イレナが答えた。
「増えた三人は、手動補助を使えますか」
「外来の一人は使えます。ただ、夜の患者さんを知りません。もう二人は、呼び鈴と薬の受け渡しなら」
増える人数と、増える判断者は違う。レントは、昨夜の紙に残った短い言葉を思い出した。胸の奥が急いでいる。肩が冷える。管の影が細くなる。初めて入る人へ伝えなければ、患者が何を怖がるかも、どの声に先に耳を向けるかも分からない。
「引き継ぎには、どのくらいかかりますか」
「短くても一刻」
ベルクが言った。
「手動補助の輪は、回し方だけならすぐ教えられる。けれど、いつ回さないかは、一度の説明では教えられません」
回せば患者が楽になるとは限らない。息が浅い原因が痛みなのか、眠りの変化なのか、補助の遅れなのか。正しくない時に力を足せば、かえって呼吸の間を乱す。
レントは勤務札を、夜の順番へ並べ直してみた。外来の看護者が来るのは夕刻。夜勤の始まる前に一刻の説明。そこから、患者の顔と記録を読む。東、西、南の三病室を歩けば、夜はもう近い。
「イレナさんは、いつ寝ますか」
「昼の引き継ぎが終わってから」
「そのあと、今夜の前に何刻休めますか」
イレナは答えなかった。ベルクが勤務札の端を指で押さえる。
「昼の薬が変わる患者が四人いる。昨日の紙を、ミナさんへ渡せる形にもする。夕方には外来の人へ説明する」
「それを全部してから、休む?」
「しなければ、今夜の三人目が何をするか分からない」
レントは机の端に置かれた砂時計をひっくり返した。砂は半刻で落ちる。昨夜、二つ落ちきっても誰も線を引けなかった。今度はその前に人を増やす。けれど、増えた人へ渡すために、昨夜の二人が休めない。
病室から鈴が鳴った。
イレナが椅子を引くより先に、外来から回された看護者の一人が立った。まだ名札も付け替えていない女性だった。
「私が行きます」
「東の三番です。眠り薬は使っていない。白くなったら、まず名前を呼んで、手首を……」
イレナが言いかける。
「待ってください」
レントは口を挟んだ。
全員がこちらを見る。急いでいる場で、止める言葉は重い。
「一度に全部渡すと、その人は聞いたことを守ろうとして、目の前の患者を見られなくなります。まず、一緒に行きましょう。何があったかを見てから、次の夜に必要なことだけを決めたい」
看護者は頷いた。イレナが立ち上がる。レントも後ろへ続いた。
東の三番は、昨夜から眠りを浅くしていた年配の女性だった。鈴を引いた手は震えていたが、息は切れていない。
「朝の薬を飲むと、眠くなるでしょう」
女性は言った。
「今は、眠りたくないんです。でも痛みも嫌です。どちらを選べばいいんですか」
新しく来た看護者は、すぐに答えなかった。イレナを見たあと、女性の枕元の紙を読んだ。そこには昨夜の脈と呼吸、それから『孫に朝の挨拶をするまで眠りたくない』と書かれている。
「痛みを和らげる量を、少し減らせるか薬師に聞きます」
彼女は言った。
「眠くなる薬をやめるのではなく、今日のあなたが自分で選べる量にできるかを」
女性はすぐには頷かなかった。けれど、鈴を握る指の力が少し抜けた。
病室を出たあと、外来の看護者が言った。
「夜勤の人は、こういう話を全部聞くんですか」
「聞けるときは」
イレナが答える。
「聞けないときは、手で補助を回しながら、患者さんの顔を見ます」
「それを、今夜だけで覚えるのは難しいですね」
彼女は責めるのではなく、自分の限界を確かめるように言った。
レントは、そこで初めて増員の中身を数えた。来られる人が三人いても、一人は新しい病室を知るためにイレナと歩く。一人は薬を運び、呼び鈴の場所を覚える。一人は患者の前で、眠らせるか起こすかを一緒に選ぶ。夜勤を三人にしただけでは、三人が夜を担えるわけではない。
詰所へ戻ると、昼番の責任者が新しい札を持って待っていた。洗濯室から一人、外来から一人、配膳から一人。頼めば短い時間だけ手を貸せるという。
「これで、夜の人数は増えます」
責任者は札を机へ並べた。誰も悪い顔をしていない。洗濯室の女性は、朝の寝具を運び終えたあとでも来ると言った。配膳の男性は、食事を配りながら患者の顔を覚えると申し出た。
「ありがとうございます」
イレナが言う。声には本心の感謝があった。
レントも頭を下げた。そのうえで、札を一枚ずつ見た。
「来てもらう時間を、先に決めてもいいですか」
「もちろんです」
「洗濯室の方は、夜の前に帰る時間を残してください。濡れた寝具が増えれば、明日の患者が困る。配膳の方も、夕食が終わったら戻れるように」
責任者の眉が動いた。
「夜のほうが、困っているでしょう」
「はい。でも、全部を夜へ集めると、明日また同じ人が足りなくなります」
洗濯室の女性が、持っていた札を見た。彼女の仕事は、夜の異常が出ればすぐ目立たなくなる。だが汚れた寝具が替えられなければ、熱のある患者は朝まで湿ったままになる。配膳が遅れれば、薬を飲む前の食事がずれる。
「私は、夕方の薬湯を運ぶところまでにします」
女性は自分から言った。
「そのあと、朝の洗濯が回るように帰ります」
配膳の男性も続ける。
「俺は、病室の人が鈴をどこに置くかを覚える。夜の鐘を鳴らす役までは引き受けない。次の朝に、食べられたかを聞くほうを残す」
それは逃げではなかった。できることを曖昧に増やすより、できないことを先に言う判断だった。
イレナは二人の言葉を、勤務札の裏へ書き留めた。引き受ける作業と、戻る時刻。誰かが善意で残り続けることを、予定にしないために。
「では、夜に残る三人は」
責任者が札を見た。
「イレナさん、ベルクさん、外来の方」
「その三人は、いつ寝ますか」
レントが聞く。
机のまわりが静かになった。
外来の看護者は、昼の患者を引き継いでから夕方に来る。ベルクは薬を分けてから、夜番に入る。イレナは引き継ぎと手順の確認を終えてから。どの札にも、横になって眠るための空白がなかった。
昼前、ミナが地下の流路室から戻ってきた。手には、昨夜の白灯の時刻を書き写した紙がある。
「流路と蓄魔具は、今のところ変わりません」
「今夜、誰が見るかのほうが先に変わりそうだ」
レントが言うと、ミナは勤務札を見た。
「またイレナさんが夜に入るんですか」
「手順を渡すために」
「渡し終わる前に、眠れなくなります」
ミナの言葉は静かだった。彼女も、正しい手順を書き残すことと、それを書く人を休ませることが別の問題だと分かっている。
レントは、夜番の札を机から外した。
「今夜の担当を決める前に、休む人を先に決めよう」
「患者を見捨てるんですか」
イレナが、初めて強い声を出した。
「違う。患者を守る人が、夜の途中で倒れない形にしたい」
「今、私が抜けたら、誰が手動の輪を回すんですか」
それには、すぐ答えられなかった。
外来の看護者はまだ患者の名前を覚えていない。ベルクは薬庫と病室を一人で往復できない。医師は処置室のリルから離れられない。紙に残した手順も、二刻抜けた記録も、誰かが読む時間を取らなければ今夜の役に立たない。
レントは札を握ったまま、机の上の夜番表を見た。
人を足した。札も増えた。
それでも、次の夜までに眠れる者の名は、勤務札のどこにも一つも残っていなかった。




