第4巻 第5話 手で刻む脈
リルを空いていた処置室へ運び込んだあと、イレナは自分の手を見た。
患者を支えたときに付いた汗と、床から拾った鈴板の細かな木くずが、指の間に残っている。洗えば落ちるものだった。けれど手を洗うために流しへ向かうと、東病室の誰かが呼吸を浅くし、西病室の鈴が鳴るかもしれない。そう思うと、水を出すことさえ後回しになった。
「リルさんは」
処置室の外で待っていたサナが訊いた。
「熱が上がっています。夜番室の医師が来て、休ませています」
「戻ってきますか」
イレナは答えなかった。
戻ってきてほしい、と言うべきではない。リルは看護補助であって、夜の穴を埋めるための蓄魔具ではない。だが、戻らないなら、東階を誰が見るのか。その問いも同じように胸へ残った。
詰所の机には、昨夜からの記録板が重なっている。板の表示が白くなった時刻、患者が返事をした時刻、手動の輪を回した時刻。読める字もあれば、揺れる馬車の中で書いたような線もある。ベルクが薬を持ったまま、紙の束を見下ろしていた。
「今から、どう書きますか」
彼が聞いた。
「板が白くなったら、その時刻だけでは足りません」
イレナは机の上から空白の紙を取った。
「息が浅くなったのが先か、鈴が先か、手で脈を取ったのが先か。あとで分けられるようにする」
「書く人がいません」
「私が書きます」
「イレナ」
ベルクの声には、止めるための強さがあった。
「あなたは手動補助を見る。字を書くために患者から離れたら、昨夜と同じです」
正しかった。イレナは紙を持ったまま、何も言えなくなった。
手で脈を取る者と、砂時計を返す者と、紙に残す者。その三つが一人の中にあれば、どこかで必ず遅れる。昨夜までの自分は、遅れを走る速さで埋めようとしていた。今も、同じことをしようとしている。
サナが詰所の戸口から、紙を覗き込んだ。
「私たちが、言えます」
「患者さんに記録を頼むわけにはいきません」
「書くんじゃなくて」
サナは首を振った。
「私の息が変わったら、自分で言います。鈴を引ける人は、引いたときに何が苦しいかも言える。書くのは、ベルクさんがする。イレナさんは、手を離さない」
「返事のできない人はどうするの」
「その人は、近くの人が見る。今夜だけじゃなくて、前からそうしてきました」
サナは病室を振り返った。患者同士で助けることを、当たり前のように置きたくはない。けれど、誰も何も知らずに待つよりは、自分が見たことを渡せるほうがいい。そういう目だった。
イレナは紙を机へ置いた。
「見たことを言うだけにしてください。脈を数えたり、輪を回したりはしない。苦しくなった本人の言葉と、隣の人が見た変化は、ベルクさんへ渡す。書くのは私たちです」
サナは頷いた。
ベルクが薬庫から、細い砂時計を六つ持ってきた。薬の煮出し時間に使うものだ。砂の落ちる長さは半刻。彼はそれを詰所の机、東病室の入口、西病室の窓際、南の個室の前へ一つずつ置いた。
「砂が落ちたら、紙に線を引く。何もなくても引く」
「何もない時間も残すんですね」
サナが言う。
「残さないと、何もなかったのか、誰も見られなかったのかが分からない」
イレナは答えた。自分でも驚くほど、声が乾いていた。
紙は患者ごとに一枚ずつではなく、病室ごとに一枚にした。寝台番号、名前、目を開けているか、声に返事があるか、手首の脈、呼吸補助の開始と終了。書く欄を増やせば正確になるように見えるが、夜勤者の手が止まる。最低限の五つだけを、横に並べる。
最初の砂時計が落ちきる前に、東病室の年配の女性が痛みを訴えた。呼び鈴は鳴ったが、声は弱かった。イレナが寝台へ行くと、女性は「孫に朝の挨拶をするまで眠りたくない」と言った。
「眠らなくていい、と言ってほしいわけではないんです」
女性は続けた。
「眠ったら、ここにいるって分かっていてほしいだけ」
イレナは手首へ指を置いた。脈は速いが、途切れていない。補助具の灯も青い。
「あなたが眠っても、私はここにいると分かるように書きます」
約束にしてよい言葉か迷った。今夜、ずっとそばにはいられない。それでも、名前が消えたとき何をしたかを、翌朝に誰も言えなくなるほうが怖い。
詰所へ戻ると、ベルクが紙の二段目へ線を引いていた。砂時計はもう一つ、落ちきっている。
「東の三番、眠りに入りました。呼吸は十六、手首は規定内」
「分かりました」
イレナは書き添えた。紙の文字は整っていない。だが、板の表示だけでは消えてしまう人の、手首の温かさと声が、そこには残る。
次の半刻、イレナは患者のあいだをゆっくり歩いた。急げば記録は早く埋まる。だが、眠りに入ったばかりの者の肩へ触れて起こせば、今夜のために作った紙が、患者を眠らせない理由になってしまう。
西病室の二番は、術後の腹を抱えたまま眠っていた。イレナが枕元へ近づくと、隣の寝台の女性が小さく手を上げる。
「さっきから、息を吐くときに眉を寄せます」
「鈴は」
「まだ。起こしたらかわいそうで」
イレナは、すぐに鈴を鳴らさなかったことを責めなかった。眠っている人を起こすべきか、眠らせて待つべきか。夜勤者でさえ迷うのに、患者へ正解を預けることはできない。
手首に触れると、脈は乱れていない。けれど呼吸の間だけが少し伸びている。イレナは紙へ『隣の患者、眉間のしわを先に見る』と書いた。誰が見たかも横へ添える。次に同じ変化があっても、それを脈の異常と決めつけないために。
「見てくれて、ありがとうございます」
隣の女性は、眠っている人ではなくイレナを見た。
「見てたって書かれるのは、初めてです」
その言葉に、イレナは返事を失った。これまで、夜の観察は看護者の仕事としてしか残らなかった。患者が見た恐怖や、隣の寝台から聞こえた小さな音は、朝になれば曖昧な話として消えていた。
南の個室では、窓際の寝台の男性が、板の色ではなく壁の影を見ていた。
「灯が変わる前、あの影が一度細くなる」
「壁の影?」
「補助具の横の管です。昼にも少し動いた」
イレナは管を見た。灯は青い。流れの音もいつもと変わらない。だが男性の言葉を、ただの寝ぼけだと切り捨てる理由はなかった。紙の欄外へ『管の影、細くなる。本人の観察』と書く。
字を書いた手が、ほんの少し震えた。疲れのせいか、冷えのせいか、自分では分からない。イレナは筆を置き、指を二度握った。紙に残すことが増えるほど、患者へ触れる時間は短くなる。そのことも、この紙には書けない。
東病室へ戻ると、サナが水差しを持ち上げていた。
「イレナさん、今の脈を見てください」
「苦しいですか」
「苦しくはないです。でも、いつもより速い気がします」
イレナは手首を取った。確かに少し速い。しかし、椅子に座り続けていること、眠れないこと、水を飲む回数が増えたことでも変わる。昨夜の白灯と同じ前触れなのかは、まだ分からない。
「今の数字だけでは、補助を増やしません。次の砂が落ちるまで、肩の冷えと息の深さを一緒に見ます」
「私の言葉も書いてください」
サナが言った。
「速い気がする、じゃなくて、胸の奥が急いでいる感じ、と」
イレナはそのまま書いた。患者が自分の状態を言葉にできれば、看護者の手が届かない場所にも、次の確認の手がかりが残る。
夜が進むにつれ、記録は仕事の順番を決める道具にもなった。東の三番は眠っても表示が残る。西の二番は眠りに入る直前、呼吸が浅くなる。南の個室は鈴を引けないが、窓際の寝台の患者が咳の変化を聞いてくれる。
イレナは、患者の言葉を欄外へ小さく書いた。『胸が沈む前に肩が冷える』『鈴を引く前に唇が乾く』『夜半のあと、足が先に冷える』。医学書の言葉ではない。けれど、手を置く前に気づくための言葉だった。
それでも、紙は患者を見てはくれない。
南の個室で白い灯が出たとき、イレナは東病室の女性の補助具を手で回していた。ベルクは西病室で薬の量を測っている。南の患者は返事ができず、窓際の人が鈴を二度鳴らした。
イレナは輪から手を離せなかった。あと三息で、東の女性の補助が安定する。ここで離れれば、息の間が大きく崩れる。
「ベルクさん!」
声を出してから、彼が西にいることを思い出した。南まで走る間に、次の砂時計が落ちる。
やがてベルクが駆け込んできた。二人で南へ向かい、患者の手首を取り、補助具の蓋を開け、呼吸が戻るのを待った。戻ったとき、詰所の紙の上で、砂時計は二つとも空になっていた。
誰も線を引いていない。
イレナは紙の二つの欄を見つめた。半刻ごとの線なら、四本分になるはずだった場所。手首を離せなかった時間、薬を量っていた時間、走っていた時間が重なり、紙の上では丸ごと消えている。
患者を放った者はいない。
それでも記録には、二刻ぶんの脈と呼吸が残らなかった。




