第4巻 第4話 起こし続ける夜
その夜、東病室には眠ってはいけない人のための椅子が並べられた。
サナの寝台のそばにも、一脚置かれている。背もたれの低い木椅子で、長く座れば腰が痛くなる。寝台に横にならず、息が苦しくなればすぐ合図できるように、というのが今夜だけの決まりだった。
今夜だけ、とイレナは夕方に言った。
けれど、サナにはそれが、昨夜の白い灯より怖かった。今夜を越えられたとして、次の夜も同じことをするのではないか。眠りが危ないと言われれば、患者は自分から目を閉じることをやめる。看護者は、その我慢を止められなくなる。
「横になりたくなったら、言ってください」
イレナが寝台の脇で言った。
「完全に眠る前に、手で脈を取ります。補助具も、先に手動へ切り替えます」
「眠らないことが治療なんですか」
サナが訊くと、イレナはすぐには答えなかった。病室の窓は閉じているが、外の冷えが硝子越しに伝わってくる。昼間、同じ椅子に座ると決めた患者は六人いた。呼吸の弱い者だけではない。昨夜、白い灯を見た者と、その隣で鈴を鳴らした者もいる。
「治療ではありません」
イレナは言った。
「夜をやり過ごすためのやり方です」
「やり過ごしたあと、どうなるんですか」
サナは問いを重ねた。言い方をきつくしたいわけではなかった。けれど、やり過ごすという言葉は、旧館でも何度も聞いた。冬をやり過ごす。人手が足りない日をやり過ごす。咳が止まらない夜をやり過ごす。そのたびに、次の日になれば何かが決まるのではないかと待った。
イレナは、椅子の横へ小さな水差しを置いた。
「朝になったら、今日の記録をミナさんとレントさんが見ます。私は、今夜のあなたたちを守ります」
守る、という言葉のあとに、イレナは自分の椅子を引いた。詰所へ戻るのではなく、病室の扉のそばに置く。そこからなら、サナの手も、西側の寝台も見える。
患者の一人、木工職人が苦笑した。
「俺たちが寝なければ、イレナさんも寝ないんだろう」
「夜勤ですから」
「夜勤だからって、ずっと起きていられるわけじゃない」
木工職人は折れた足を動かさないように、毛布の上から手を置いた。昨夜より声に力がある。だからこそ、サナは彼の言葉を聞き逃したくなかった。
「私たちは、眠らないことを決められます」
サナが言った。
「でも、イレナさんたちは、誰が決めるんですか」
病室の空気が止まったように感じた。イレナは記録板を持ったまま、目を伏せる。
「今夜は、私とベルクさん、補助に一人です」
「三人で、何人を見るんですか」
「この階は十六人です」
答えを聞いてから、サナは自分の指を数えた。眠らない人が六人。眠っている人は十人。十人のほうが安心というわけではない。起こしておくことができない患者もいる。昨夜の年配の女性は、眠り薬をやめれば痛みで体を固くする。術後の男性は、休まなければ熱が上がる。
「二刻ごとに、全員を見に来るんですか」
「呼び鈴と、板の白い灯を見ながら」
「その板が、見失うんですよね」
イレナの口元が固くなった。
サナは、自分が責めているように聞こえたかもしれないと思った。けれど、言わなければ、板が白くならない患者を後回しにする決まりが、知らない間にできてしまう。
「私の名前が消えたとき、イレナさんは私を見つけてくれました。でも、鈴を引けない人は、どうするんですか」
「手で回ります」
「誰が」
「私が」
その答えに、サナは首を振った。
「一人で言わないでください」
イレナが顔を上げる。
「今夜、私たちが起きているのは、イレナさんに全部させるためじゃありません。眠れない人が、隣の人を見ていいなら、看護者も誰かを呼んでいいはずです」
木工職人が、小さく頷いた。年配の女性は目を閉じたままだったが、枕元の鈴を手の近くへ寄せた。
「患者に見張らせるつもりはありません」
イレナが言った。
「私も、見張りをしたいんじゃないです」
サナは水差しの縁を握った。
「誰かが苦しくなったとき、誰に言えばいいかを知りたいだけです。イレナさんが走って行ったら、次はベルクさん。ベルクさんが薬庫なら、もう一人。順番を、私たちにも教えてください」
それは患者が夜勤の仕事を奪うためではない。夜の中で、自分たちが何も知らないまま待たされないためだった。
イレナはしばらく黙っていた。やがて記録板を閉じ、扉の外へ出た。戻ってきたときには、ベルクと、若い看護補助のリルが一緒だった。リルは日中の熱を下げたばかりで、顔色はまだ白い。
「一度は帰すと言った」
イレナは患者たちに聞こえる声で、そう言った。「でも、夜番室の医師は処置室を離れられない。ベルクさんを薬庫から抜けば、手動補助を回す人が減る。それで、短時間だけと決めた」
リルはイレナの言葉の後で、自分の手首をさすった。「走りません。詰所で呼び鈴の板を見て、名前を伝えるだけにします。苦しくなったら、すぐ出ます」
それは、イレナと夜番医師が決めた条件だった。短時間。走らせない。悪化すれば即座に退室させる。だが、その三つを守る手も、今夜はそれぞれ別の病室に引かれていた。
「今夜の順番を、声に出します」
イレナは病室の全員へ言った。
「板が白くなったら、近い寝台の人は鈴を一度だけ。私は東から見ます。ベルクさんは西。リルさんは詰所で呼び鈴の板を見て、病室の名を声に出す。誰も来なければ、鈴を二度。三度は、息が苦しい合図です」
「三度で、誰が来るんですか」
サナが訊く。
「私か、ベルクさんです」
「二人とも別の病室なら」
イレナは一度、ベルクを見た。
「そのときは、リルさんが鐘を鳴らします。夜番室の医師を起こします」
初めて、呼ぶ順番が部屋の中に置かれた。完全ではない。リルが倒れたら、誰が鐘を鳴らすかはまだ決まっていない。けれど、イレナ一人の手の中にだけあった夜が、少しだけ外へ出た。
消灯の鐘が鳴る。
サナは椅子に座ったまま、目を開けていた。最初の一刻は、誰も眠らなかった。木工職人は木笛を膝に置き、年配の女性は痛みをこらえるように息を浅くしている。リルは詰所と病室を何度も往復していた。走らせないと決めた境界は、すでに誰も守れなくなっていた。そのたびに、短い髪を耳へかけ直した。
夜が深くなると、起きていることそのものが体へ重くのしかかってきた。サナはまぶたが落ちるたび、水を一口飲んだ。飲むと胸が冷え、咳が出そうになる。隣の椅子では木工職人の頭が何度も揺れ、そのたびに彼は木笛の角を握り直す。
誰かを起こしておくことは、息を数えるより静かに苦しい。
一刻を過ぎたころ、イレナは東病室へ戻ってきた。手には新しい記録板ではなく、空になった水差しが二つある。西で眠れない患者に水を渡し、南の個室では手動の輪を一度だけ回してきたのだという。戻る途中、薬庫から頼まれた包帯も抱えていた。
「食べましたか」
サナが訊くと、イレナは一瞬だけ眉を上げた。
「夕方に」
「今は?」
「今は大丈夫です」
サナは、昨日の自分と同じ答えだと思った。大丈夫という言葉は、何も起きていないという意味ではない。次に何かが起きるまで、止まらないという意味にされてしまう。
「リルさんは」
「詰所で、呼び鈴の板を見ています」
「熱は下がったんですか」
「本人は下がったと言いました」
イレナの声が、そこでわずかに途切れた。本人が言ったから来させた、ではない。来られると言った人を断れるだけの人数が、ここにはいないのだろう。
木工職人が、椅子から身を起こした。
「俺の娘が来たら、食べ物を持たせる。夜勤の人の分も」
「お気持ちだけで十分です」
「十分じゃないから言ってる」
イレナは返事をせず、木工職人の足元にずれた毛布を直した。患者から受け取れば、今夜を越えられるかもしれない。けれど、それで夜勤の足りなさまで患者の家族へ渡すことになる。その迷いが、毛布を整える手にだけ出ていた。
サナは、置かれたままの小さな鐘を見た。夜番室の医師を起こすための鐘。三度の合図のあとに使う、と聞いたものだ。
「鐘を鳴らすのは、リルさんだけですか」
「今夜はそうです」
「私も、鳴らし方を知りたい」
イレナはすぐに首を振った。
「患者さんに任せることではありません」
「任せてほしいんじゃないです。鳴らす人が倒れたときに、誰も知らないのが怖いんです」
サナは自分の声が震えているのを感じた。怖いと言えるのは、少し前なら弱さのように思えただろう。だが怖いまま黙って、誰かが倒れたあとで知るほうが、今はもっと嫌だった。
イレナは鐘を見た。しばらくしてから、持ち手の下にある短い紐を示す。
「紐を引くと、夜番室へ一度だけ鳴ります。この鐘を三度続けて引かないで。病室側の「息が苦しい」という三度の呼び鈴と、区別がつかなくなるから」
「一度だけ」
「ええ。誰かが鳴らしたら、ここにいる人は待たずに、近くの大人を呼ぶ」
サナは紐に触れなかった。ただ、形と場所を覚えた。自分が使うためではなく、使わなければならなくなったときに、探す時間を減らすために。
少ししてリルが病室へ入ってきた。本来なら詰所の板の前から動かないはずだったが、西から伝えが来ないと聞いて、自分で足を運んできた。板を胸に抱え、いつもの早口で、南の個室は眠り直したこと、西の鈴は誤って引かれたものだったことを報告する。けれど最後の言葉だけ、何度も言い直した。
「リルさん、座ってください」
サナが言うと、リルは笑おうとした。
「座ったら、眠りますから」
「眠ってもいいです」
「今はだめです」
その答えは、患者たちが今夜、自分へ言い聞かせている言葉と同じだった。サナは返せなかった。イレナも、板を受け取るだけで、リルの肩を押して椅子へ座らせることはしなかった。短時間と決めた人も、退室させると決めた人も、それぞれの呼び鈴と患者の前で手が塞がっていた。
夜は、誰か一人が強いままでいることで、細く繋がっていた。
夜半を過ぎたころ、壁の青い灯が白へ変わった。
サナのものではない。西病室のほうから、鈴が一度鳴る。少し遅れて、二度。
イレナが立ち上がった。同時に、詰所からベルクが顔を出す。
「西を見ます」
「私は南の個室へ。リル、東を頼みます」
リルが頷いたが、すぐには動かなかった。壁へ手をつき、何かを探すように指を滑らせる。
「リルさん?」
サナが呼んだ。
リルは返事をしようとしたらしい。唇が動いた。しかし、顔から血の気が引き、持っていた鈴板が床へ落ちた。
乾いた音のあと、彼女の膝が折れた。
夜勤者が一人、病室の床へ倒れた。




