第4巻 第3話 眠れば見失う
レントが新治癒院へ着いたとき、入口の受付台には、消し忘れた夜の札がまだ残っていた。
「東三階・補助確認中」と書かれた札の端が、朝の風でわずかに揺れている。受付係はその札を伏せようとして、レントの姿に気づくと手を止めた。
「王立魔導院の方ですか」
「違います。昨夜のことを、少し聞かせてもらうよう頼まれました」
レントは答えた。頼まれた、という言葉に嘘はない。ミナから短い伝書が届き、流路と蓄魔量は規定内、しかし夜間だけ患者名の照合が外れる、と書かれていた。確かめるべきものがあるのなら、答えを持っている顔で入るべきではない。
受付の奥には、病室案内の板が置かれている。昼の板には、患者名の代わりに番号だけが見えるよう薄布が掛けられていた。その布の端から、旧館という二文字がのぞいている。
「それは、昨日の表示ですか」
レントが指すと、受付係の若い女性は慌てて布を押さえた。
「閉鎖前の照合札です。朝に片づけることになっていて」
「新館の患者を確認するのに使いますか」
「私は、使いません」
答えは丁寧だったが、誰が使うかを言わなかった。レントはそれ以上聞かず、三階へ向かった。受付で言葉を重ねても、昨夜息が苦しくなった人の待ち時間は減らない。
東病室では、ミナが枕元の板を開けていた。板の内側に細い線が何本も走り、脈拍紋と呼吸補助具、詰所の警報盤へそれぞれ繋がっている。イレナは隣の寝台で、年配の女性の指先を温めながら脈を取っていた。
「来てくれてよかった」
ミナは顔を上げずに言った。
「まだ見えている線だけでは、何も言えないんです」
「言えないことが分かっているなら、今は十分だよ。昨夜の順番を聞かせて」
レントは病室の入口で足を止めた。寝台の間を歩けば、患者の休みを邪魔する。向かいの木工職人は目を閉じていたが、眠っているようには見えなかった。木笛を握る手だけが、毛布の外に出ている。
イレナが、昨夜の記録を一枚ずつ示した。
「最初はサナさん。呼び鈴より先に、板が白くなりました。次が西病室の術後患者。そこは呼び鈴が鳴って、本人も返事をしました。三人目はこの方です」
彼女は年配の女性の寝台へ目を向けた。
「眠り薬のあとで、返事が遅れました。脈はありましたが、紋の表示が消えました」
「三人とも、眠っていましたか」
「サナさんは、眠ろうとしていました」
サナが自分で答えた。毛布を膝まで下げ、背を起こしている。顔色は昨日より悪くないが、目の周りだけが赤い。
「目を閉じて、数を数えていました。まだ眠っていなかったと思います。でも、イレナさんに呼ばれたとき、すぐ返事ができなかった」
「薬は飲んでいません」
イレナが補う。
「眠り薬を飲んだ方も、飲んでいない方もいます」
同じ時刻、同じ病気、同じ薬ではない。レントは記録の端を見た。昨夜の白灯が出た時刻には、旧館の夜間鐘が鳴る時刻が並んでいる。しかし、それが患者の眠りとどう結びつくのかは、まだ一つも確かめられていない。
「今、ここで確かめられることはありますか」
レントはミナに尋ねた。
「眠っている人と起きている人で、板の照合が変わるかを見たいです。ただ、眠らせるために薬を使ったり、誰かを起こし続けたりはしたくありません」
「それはしないでください」
サナの声は小さかったが、はっきりしていた。
「眠れないのが怖いからって、別の人まで眠れなくなるのは嫌です」
レントは頷いた。
「自然に眠っている人だけで見る。起きている患者には、そのときの表示を一緒に確かめてもらう。それで違いがなければ、別のものを探そう」
イレナは少し黙り、それから寝台の外へ出た。
「西病室に、昼の投薬のあと眠る方がいます。眠り薬ではなく、痛みが引くと眠れる方です。本人へ説明して、嫌ならやめます」
彼女が戻るまでの間、ミナは枕元の板へ小さな紙片を貼った。患者の名前を隠すためではない。表示が変わった瞬間を、誰かの記憶だけにしないためだった。左に時刻、右に「目を開けている」「眠っている」「返事あり」と三つの欄を作る。
レントは紙を見ながら、前の仕事で夜の監視画面を眺めていたころを思い出した。色が変わった時刻だけを追えば、何かが分かった気になれる。だが、画面の前にいなかった人間が、何をしていたのかを後から消してしまえば、同じ時刻でも意味は変わる。
だから、患者の言葉を一緒に残す必要がある。
西病室の患者は、若い女性だった。腹部の手術を終え、痛みが和らぐ時間だけ浅く眠れるという。イレナは寝台の脇で、これから見るのは呼吸と紋の表示だけで、何か苦しければすぐ中止する、と説明した。女性は不安そうにレントを見た。
「眠れなくなるわけではないんですね」
「眠れなくさせることはしません。今の眠りのまま、看護者がそばで確認します」
レントが答えると、彼女はゆっくり頷いた。
十分ほど、何も起きなかった。女性の呼吸は浅くなり、眉間のしわがほどける。板の青い表示は、名前も病室番号も変えずに残っていた。イレナは手首に触れず、目だけで息の間を数えている。
「眠っていても、今は見えています」
ミナが小声で言った。
「昨夜は、眠ったことだけが違いじゃないかもしれない」
レントは答えた。眠れば必ず外れるのなら、昼も同じことが起きるはずだ。夜にだけ起きるなら、眠りと一緒に変わる別の条件がある。
ミナは表示板の端に触れず、目だけで細い符号を追った。昼の照合では、患者の名前の横に、呼吸補助具と詰所の警報盤を示す二つの印が並ぶ。サナの板も、今は同じだった。
「この二つが消える順番は、昨夜と同じですか」
レントが尋ねる。
「昨夜は名前のあとに病室番号が消えました。今は、まだどちらも残っています」
「では、消える直前に板へ何かを足すのはやめよう。今の形を変えると、変えたせいなのか分からなくなる」
ミナは頷いた。術式の線を一つたどれば、もっと細かな照合の手順まで覗けるかもしれない。だが患者のそばで開ければ、補助具は一度停止して再接続を求める。今、眠っている人の呼吸を止めてまで得る確認ではない。
イレナが、眠っている女性の足元へ小さな札を置いた。札には「確認中」とだけ書かれている。
「病室の人には、どう伝えますか」
レントが訊いた。
「異常が出るかもしれない、と」
イレナは言った。
「でも、眠らないでとは言いません。苦しくなったら呼ぶこと、呼べないなら近くの人が呼ぶこと。それだけを先に伝えます」
向かいの寝台にいた木工職人が、袋から木笛を出した。吹く気はないらしい。指先で穴を一つずつ押さえながら、ぼそりと言う。
「俺が起きていれば、隣のやつが苦しくなったとき見える」
「それを、夜通し頼るわけにはいきません」
イレナの声は柔らかかった。
「あなたも眠ってください。呼びに来るのは私たちです」
木工職人は返事をしなかった。けれど木笛を袋へ戻し、毛布を胸まで引き上げた。その動作を見て、レントは、今夜の暫定策を患者の我慢に乗せてはいけないと思った。記録を取るために眠れない人を増やせば、異常の影響範囲そのものを作り替えてしまう。
廊下の時計が、昼の刻を知らせた。鐘は鳴らない。新館では、夜の見回りを音で揃える必要はないと聞いている。
それでも、その静かな時刻の少しあと、窓際の寝台で男性が寝返りを打った。
若い女性ではない。胸を包帯で固定した男性が、眠ったまま眉をひそめる。
枕元の板の青い表示が、一度だけ細く揺れた。
ミナが息を止めた。レントも、紙片に置いた指を動かさなかった。
揺れはすぐ戻った。だが、表示の端にある病室番号が、短く白くなった。
「起きていますか」
イレナが男性の名を呼ぶ。返事はない。肩へそっと触れると、男性は目を開けた。
「……何です」
「胸の苦しさは」
「変わらない」
声も脈も落ち着いている。けれど、眠っているあいだだけ、板は彼を見失いかけた。
ミナは紙片に時刻を書いた。旧館の夜間鐘とは違う、昼の時刻だった。
「鐘だけではない」
彼女の呟きに、レントは頷いた。
同じころ、廊下の向こうで呼び鈴が鳴った。一度、二度、間を置かずに三度。別の病室から、看護者が名前を呼ぶ声がする。
イレナは紙片をレントへ渡し、すぐに走り出した。
紙片には、昼の静かな時刻と、眠っていた患者の状態が残っている。レントはそれを握ったまま、あとを追った。確かめるための記録が、次の患者を待たせる理由になってはいけない。
「西の二番、東の四番、南の個室です!」
ベルクの声が廊下を抜けた。
白い灯は、一つの寝台だけには留まらなかった。眠りへ沈んだ患者を追うように、異常は別々の三つの病室へ、ほとんど同じ時刻に、白い光を残して広がり始めていた。




