第4巻 第2話 青灯の向こう
明け方の新治癒院は、眠れなかった人間の匂いがした。
ミナは三階の詰所へ上がる階段で、ぬるくなった薬湯と、消しきれない汗の匂いを吸い込んだ。夜の間に何度も沸かし直した湯だろう。廊下の窓からは朝の光が差しているのに、看護者たちは夜の青白さを顔に残したまま、寝台の間を歩いていた。
東病室の前には、小さな砂時計が三つ並んでいた。どれも砂が落ちきっている。
「ミナさん」
扉のそばにいたイレナが、すぐに手を上げた。上着は昨夜と同じ紺色だった。袖口には乾いた薬湯の跡があり、髪を結んでいた紐も少しほどけている。
「来てもらってすみません。王立魔導院からの人は、昼にならないと来られないそうで」
「私は院の人間ではありません。見られることを一緒に確認します」
ミナはそう答えた。魔術師が足りないとき、結界庁の記録を扱っていた彼女の名まで呼ばれるようになってからも、この言い方だけは変えないようにしている。見たものと、直したものは、同じではない。
病室の中では、サナが起きていた。枕元の板は昼の表示に戻り、生命維持紋の中央には細い青の灯がある。だが彼女はその灯を見ず、膝の上で毛布の端を握っていた。
「眠れましたか」
ミナが尋ねると、サナは少し考えてから首を振った。
「目を閉じていた時間はあります。でも、眠ったとは言えません」
向かいの木工職人も起きていた。落とした木笛を、今は枕元の袋へしまっている。
「俺のほうは大したことない。胸が変な感じはしたが、イレナさんが来たらすぐ楽になった」
「すぐではなかったです」
イレナが言った。
「あなたの補助具が動くまでに、砂時計半分です」
木工職人は口を閉じた。軽く済んだ者ほど、待った長さを自分で数えていない。そのことを責めるような言い方ではなかったが、イレナの声には、昨夜から積み重なった時間が残っていた。
ミナは枕元の板を覗き込んだ。生命維持紋、呼吸補助具、呼び鈴、詰所の警報盤。それぞれに薄い確認灯があり、朝になればどれも青か、消灯の状態になっている。
「昨夜、白になったのは何床ですか」
「東病室で二床。西の軽症病室で一床。呼び鈴だけが遅れた方を入れれば、四人です」
ベルクと呼ばれた夜番の薬師が、詰所の記録板を持ってきた。紙の端には、脈を手で取った時刻が細かく並んでいる。薬の時刻、補助具を手で回した時刻、患者が起きた時刻。どれも揃った書式ではなかった。急ぐたびに、余白へ書き足された字だった。
「二人では足りなかった?」
ミナが訊くと、ベルクは記録板を見たまま答えた。
「患者が四人なら、手は足ります。呼び鈴が同じ頃に鳴らなければ」
「鳴らなかった人もいます」
イレナが補った。
「サナさんのところは、呼び鈴より先に私が見ました。けれど西の病室では、鳴ってから行って、名前を聞いて、手で脈を取って、補助を回して……その間、こちらを見られません」
彼女は四つの寝台を順に見た。患者の数だけでは測れない。自力で返事をできる者、眠り薬で反応の遅い者、呼吸が浅くなると手を握れなくなる者。昨夜の手動補助は、同じ作業を四回繰り返したのではなかった。
「サナさんの補助は、手でどのくらい続けましたか」
「二刻です。白が消えたあとも、夜明けまで三度、脈を確認しました」
「イレナは二刻ごとに、別の患者にも行ってた」
ベルクが言った。
「俺は薬と砂時計を見た。手動の輪を回せるのは看護の資格がある人だけだから」
ミナは、枕元の真鍮の輪を見た。使える人を増やせば良い、と外からなら言えるかもしれない。しかし、患者ごとの呼吸の速さと、止めるべき変化を知らない者が回せば、補助そのものが危険になる。昨夜を乗り切った手順を、毎晩の前提にするわけにはいかなかった。
「まず、設備が何を失ったのかを分けます」
ミナは記録板を借りた。
「流れている魔力が足りなかったのか。補助具の中に残っている蓄魔が少なかったのか。それとも、患者を見つけるところだけが途切れたのか」
「最後のだと思います」
サナが言った。
皆が彼女を見る。
「息はできていました。苦しくて、遅れている感じはしました。でも、胸が止まったわけではない。板だけが、私をいないものみたいにしたんです」
言い切るまでに、サナは毛布の端を握り直した。患者の感覚を、故障の証拠にしてほしいと言っているわけではない。昨夜自分が何を感じたかを、ここで消さないでほしいのだとミナには聞こえた。
「分かりました。脈そのものと、板の表示を別に残します」
ミナは紙の余白に二本の線を引いた。左に「手首」、右に「紋」と書く。夜勤者が再び同じことをするなら、二つの時刻が後で比べられるようにしなければならない。
その後、ミナはイレナと一緒に地下の流路室へ降りた。
新治癒院の流路室は、石壁の間に太い管が何本も走っている。暖房、洗濯室、薬湯の釜、病室の補助術式。用途ごとに色の違う札が下がり、管の継ぎ目には、ひびがあれば色を変える小さな粉が塗られていた。夜の間に急いで開けられた点検口は、まだ温かい。
「ここが落ちれば、青の冷却灯も消えます」
ミナは主流路の脇にある計器を指した。青の冷却灯は規定の流れを保っている。供給の目盛りも、夜間の最低線を少し上回っていた。
「サナさんの部屋だけが白くなったときも?」
「主流路は変わっていません」
イレナが、壁に吊られた夜間の巡回札を見た。札には、二刻ごとに確認した看護者の印がある。最後の印は、白灯が出たあとにつけられていた。
ミナは床へしゃがみ、呼吸補助用の細い枝管を見た。管の根元には、非常用の蓄魔箱がある。ふたを開けると、内側の小瓶に淡い光が満ちていた。残量を測る針は、規定線より上にある。
「蓄魔もあります」
「では、何が足りなかったんですか」
イレナの問いには、疲れだけでない苛立ちが混じっていた。患者の前で自分が何度も手を動かしたのに、地下の管は何事もなかったように青く光っている。
「足りなかった、とまだ決められません」
ミナは蓄魔箱のふたを閉じた。
「流路も蓄魔も、ここで見える範囲では規定内です。だから、今夜また白くなっても、ここを増やすだけでは同じかもしれません」
イレナは短く息を吐いた。
「患者を眠らせずに待つ、ということですか」
「いいえ。待ち方も、ここで決めてはいけません」
ミナは答えた。昨夜の手動補助を続けるか、患者を起こしておくか。どちらも病室の人たちが払うものを先に見なければならない。少なくとも、流路室の計器が青いという理由で、夜勤者へ同じ二刻を渡すことはできない。
詰所へ戻ると、ベルクが古い帳面を広げていた。新館の記録ではない。紙が黄ばんだ、旧治癒院の夜番帳だった。
「これ、ローデさんが今朝持ってきたんです」
「旧館の管理人さんが?」
「鐘の記録だけでも見ろ、と」
帳面には、夜間の鐘を鳴らした時刻が縦に並んでいた。隔離室の確認、薬庫の戸締まり、火鉢の見回り。閉鎖前の最後の数日も、律儀に記されている。
「鐘って、ただ見回りを知らせるだけではないんですか」
イレナが訊いた。
「旧館では、鐘を聞いてから補助具の確認をしていました」
ベルクが帳面の余白を指でなぞった。鐘の欄の横には、小さく病室番号が添えられている。
「夜番が少なかったころの名残です。鐘が鳴れば、薬師は薬庫を、看護者は病室を見に行く。人が足りないから、同じ音で順番を揃えていたんでしょう」
「新館では鳴らしていません」
「ええ。少なくとも、私たちは」
その言い方に、ミナは顔を上げた。誰かが鳴らしている、とベルクが言ったわけではない。旧館を出た人間が皆、新館の外へ目を向けずに済んでいるとも限らない。ただ、現に聞こえない鐘の時刻が、記録に残っている。
ミナはさらに帳面をめくった。旧館の夜番帳には、患者の症状ではなく、看護者が足を運んだ順番が残っている。呼吸の弱い者、眠り薬を飲んだ者、手で鈴を引けない者。旧館では、その順番で名前を呼んで回っていたらしい。
「昨夜、白くなった四人に、共通する病気はありますか」
「ありません」
イレナが即座に答えた。
「長期の呼吸補助が必要なサナさん。足の痛みで眠り薬を使った人。術後で起き上がれない人。西の方は、軽い喘鳴です」
「年齢も、入院した時期も違います」
ベルクも続けた。
患者の体の共通点ではない。補助具の型も、寝台の位置も揃っていない。ならば、今夜の問題を一つの病室だけで待ち受けることもできない。
ミナは新館の記録へ、旧館の鐘の時刻を書き写した。誰かを起こし続けるためではなく、次に白くなったとき、夜勤者が最初に何を確かめればよいかを決めるために。
ミナは新館の手書き記録と、旧館の帳面を隣へ置いた。昨夜の最初の白灯は、二刻半を少し過ぎたころ。旧館の帳面にある最後の夜間鐘も、同じ欄に記されていた。
偶然かもしれない。鐘が鳴る時刻など、どこでも似たようなものかもしれない。
けれど、二つ目の白灯の時刻も、その次の巡回の欄と重なっていた。
ミナは帳面の端を押さえた。流路の青灯は、地下で変わらずに灯っている。その向こうで、もう使われていないはずの館が、夜の時刻だけをこちらへ渡しているように見えた。
旧館の夜間鐘が鳴る時刻と、新館で患者の名が消える時刻は、ぴたりと重なっていた。




