第4巻 第1話 夜だけ消える脈
眠る前には、きちんと脈があった。
サナ・リュベルは枕元の薄い板に指を置き、そこに刻まれた小さな生命維持紋を見た。紋の中央では、爪ほどの青い光が、息を吸う間に細くなり、吐く間に丸く戻っている。胸に巻かれた布の下でも、同じくらいゆっくりと心臓が打っていた。
新治癒院の三階、東病室。窓の外にはまだ雪の名残が白く残っていたが、部屋の中は温かかった。壁の流路から届く熱が、干した洗濯物の石けんの匂いと、薬草を煮た湯気をゆっくり押し上げている。向かいの寝台では、足を折った木工職人が、昼間に娘から貰った木笛を胸に抱えて眠っていた。その隣では、年配の女性が眠り薬を飲む前に、看護者へ孫の名前を三度確認している。
眠れる場所に移ったのだ、とサナは何度も自分へ言い聞かせてきた。
旧館にいたころ、夜の冷えは廊下から忍び込んできた。窓枠は鳴り、湯をもらうにも階下まで呼びに行かなければならなかった。ここには呼び鈴がある。水差しは毎晩替えられる。咳が出れば、壁の脈拍紋が看護詰所へ知らせてくれる。
それでも、消灯の鐘が鳴ったあとだけ、サナは眠りに落ちるのを怖がるようになっていた。
「息苦しくはありませんか」
仕切り布の向こうから、夜勤のイレナが顔を出した。紺の上着の袖を肘までまくり、片手には記録板、もう片方には温めた薬湯の小瓶を持っている。髪はきれいに結われていたが、目の下の影だけは昼間より濃かった。
「今は大丈夫です」
「今は、ですね」
イレナは記録板に何かを書き、枕元の生命維持紋へ視線を移した。青い光は静かだった。
「もし胸が重くなったら、鈴を引いてください。引けなければ、壁を二度叩いて。聞こえます」
「前も、そう言ってくれました」
「ええ」
イレナの返事は短かった。短くしたのは、余計な安心を約束したくなかったからだと、サナには分かった。
昨夜、鈴を引いたとき、補助術式はすぐには動かなかった。イレナが駆け込んで、枕元の紋へ自分の魔力を添え、呼吸の間を数えながら手で流れを繋いだ。眠りから引き戻されたあと、サナは息を整えるのに長い時間がかかった。朝には紋も呼び鈴も、何事もなかったように働いていた。
「今夜も、同じ時間ですか」
サナが尋ねると、イレナの指が記録板の端で止まった。
「まだ決めつけません。昨夜は二刻半を少し過ぎたころでした」
「私だけですか」
「それも、まだ」
イレナは言葉を選んだ。病室の向こうで木笛が寝返りに合わせて小さく鳴る。眠れない者を増やしたくないのだろう。
「眠ってください、サナ」
「眠ったら、脈がなくなるんでしょう」
言ってから、サナは自分の声が思ったより鋭かったことに気づいた。イレナを責めたいわけではない。けれど、目を閉じるたびに、旧館で起こした発作の夜が戻ってくる。人の手で運ばれ、冷たい廊下を揺られ、途中で何度も名前を呼ばれた。もう一度、どこかへ移されるのではないかという恐怖は、息より先に喉を狭くした。
イレナは記録板を寝台の端へ置いた。
「脈がなくなるわけではありません。紋が、脈を拾えなくなるんです」
「同じことです」
「違います。あなたの体はここにあります」
少しだけ強い声だった。イレナはすぐに息を吐き、声を落とした。
「だから今夜は、私たちがここにいます」
私たち、と言った先に誰がいるのか。詰所には二人しかいないはずだった。夕方、若い看護者のリルが熱を出して帰されたと聞いている。イレナはそのあとも、薬の配り直し、寝具の交換、夜の投薬を止めなかった。
「イレナさんは、いつ寝るんですか」
「朝番が来てからです」
「それ、昨日もでしたよね」
今度は、イレナが答えなかった。
廊下の奥で、消灯を知らせる小鐘が一度鳴った。扉の隙間から入っていた明かりが細くなり、病室は壁際の青い灯だけになる。生命維持紋と同じ色の灯が、寝台を並べたまま薄く照らした。
イレナは一人ずつに毛布の端をかけ直した。木工職人の木笛を落ちない位置へ移し、年配の女性の水差しを手の届く場所へ寄せる。サナの胸元では、呼吸の補助具が、吸うときだけ小さく震えた。
「眠れないなら、話をしていてもいいですか」
「いいですよ。ただし、苦しくなったらすぐ止めましょう」
「旧館には、まだ人がいるんですか」
イレナの手が止まった。
質問をしたのは、昼のことがあったからだった。面会に来た叔母が、受付で帰り際に変なものを見たと言っていた。新館にいるはずのサナの名が、受付板に二つ並んでいたのだという。片方には東病室、もう片方には旧館三階と書かれていたらしい。受付係はすぐ板を伏せ、古い照合が残っただけだと説明した。
だが、古い照合という言葉は、サナの胸に残ったままだった。
「閉鎖の作業は、まだ続いています」
イレナは答えた。
「人がいるかどうかは、私からは言えません」
「私の名前も、まだ置いてあるんですか」
「サナ」
「また移すつもりですか」
「違います」
答えは早かった。しかし、イレナの目はすぐに逸れた。廊下の詰所では、誰かが紙を繰る音がした。今夜の担当表を確かめているのか、昨日の記録をめくっているのか、ここからは分からない。
サナは目を閉じられずにいた。青い灯がまぶたの裏へ残る。呼吸を数えようとして、五つ目で数を忘れた。胸の奥に、空気が入っているのに足りないような感覚が広がり始める。
「イレナさん」
「います」
すぐそばから返った。
「鈴、まだ鳴らしていません」
「分かっています」
イレナはすでに寝台の横にいた。片手をサナの手首へ置き、もう片方で生命維持紋の縁を押さえる。青い光は一度だけ大きく脈打ち、それから、糸を引くように細くなった。
枕元の板から、乾いた音がした。
青い灯が白へ変わる。
「脈を確認します。サナ、私の声を聞いて」
イレナの声が近い。手首には確かに指がある。胸も動いている。なのに、板の上の文字だけが、ゆっくりと消えていった。
患者名の欄から、最初に消えたのは病室番号だった。
次に、サナ・リュベルという文字の最後の一画が薄くなった。
「補助を切り替えます。息を吐いて、次を待って」
イレナの指が枕元の板を滑った。普段は触れない蓋を開け、その下の小さな真鍮の輪を回す。輪のそばには、昼間には伏せられている手動用の目盛りがあった。看護者が一息ごとに流れを足すためのものだと、サナは前の夜にぼんやり聞いた覚えがある。
輪を回しても、呼吸補助具はすぐには鳴らなかった。
「イレナ」
詰所の方から、男の声がした。夜番の薬師、ベルクの声だった。扉を開けたまま、片手に薬箱、もう片方に短い砂時計を持っている。
「東の三番も白です。今、患者を起こしています」
「三番は自分で吸えますか」
「浅いですが。呼び鈴は通じました」
サナの向かいで、木工職人が目を覚ました。眠りの深い人だったはずなのに、白くなった灯を見て、木笛を取り落とした。
「何だ、火事か」
「火事ではありません。横向きにならず、仰向けでいてください」
イレナはサナの顔から目を離さずに言った。向かいの寝台の女性が、毛布の中で孫の名前を呼ぶ。眠り薬を飲んだばかりの声はかすれていた。
「皆さん、聞こえますか」
イレナは病室全体へ声を通した。
「胸が苦しい方、手を上げてください。苦しくない方も、今夜は一人で起き上がらないで」
木工職人が、折れた足の側ではない手を上げた。年配の女性は返事をせず、目を閉じたまま胸元を押さえている。サナは自分も手を上げようとしたが、指先に力が入らなかった。
ベルクが砂時計を寝台の脇へ置いた。細い砂が、一粒ずつ落ちていく。
「一息ごとに呼びます。サナさん、私の声に合わせて。吸って」
イレナの手が、手首の脈を数えている。もう一方の手は真鍮の輪から離れない。白い灯は、消えもせず、青にも戻らない。
サナは息を吸おうとした。空気は入った。だが胸の途中で止まり、次の息が来るまでの間が、いつもより長い。旧館の廊下の冷たさではない。温かい病室で、顔を知っている看護者の手が触れているのに、体だけがここにいないものとして扱われている。
「私は、ここにいます」
言葉にすると、かすかな音にしかならなかった。
「聞こえています」
イレナはすぐ返した。
「だから、手で繋ぎます」
真鍮の輪がもう半分回った。補助具の奥で、ようやく細い振動が起きる。だが、その振動はサナの呼吸に合わず、遅れてから追いつこうとしているようだった。
病室の外では、別の呼び鈴が短く鳴った。すぐに止まり、廊下を走る足音だけが近づいてきた。灯りが白いままでは、誰が助けを求めているのかさえ、壁の向こうへ正しく届かないのだとサナは思った。
呼吸補助具の口元で、小さな金具が鳴った。普段なら息に合わせて開くはずの弁が、閉じたまま動かない。
そして補助具は、低い声で告げた。
「対象者名を確認できません」




