第3巻 第三十六話 レントのいない再配分
ノアは、共同炉の板を広げても、どの札から手を付ければよいか分からなかった。
夜はまだ明けない。製粉所から戻ったハルが、雪を落とす間もなく炉の前へ立っている。西村へ続く峠は埋まり、レントは製粉所に残る。峠の下で救った蓄魔車も、今は西村側の道を越えられない。連環視を使って村々の線を見る者は、ここにいない。
「レントさんからは」
エマが聞いた。
「袋を運ぶ方へ残ると。西村へ行けないなら、こちらの粉をこちらの足で渡す、と」
ハルの声は短かった。伝言に答えがないことを、皆が知っている。
共同炉の火は、さっきより低い。石箱から来る流れを西村へ太らせた後、製粉所の一刻は失われた。冬季例外の紙には、臼を早く止めた時の粉袋、患者車が峠で止まった時の薬湯、家石を二夜使った牛舎のことまで書いてある。けれど今夜、それらの条件が同じ刻に重なった時、どちらを先に細くするかまでは書かれていない。
ノアは首元へ手をやった。身分証のない革紐が、冷たい外套に触れる。
「札を読んで、各場所から今の刻を出してください」
彼は言った。
「私が順番を決めるためではありません。紙に書いた条件を、まだ越えているか確かめるためです」
ナダが治療所から来た。湯気を失った鍋を抱え、片方の手は薬草の匂いがする。
「薬湯は次の一口まで残る。寝台の指先が冷えた人は一人。さっきより増えていない。青の冷却灯も点いている」
「灯が点いているなら、治療所は減らせるのか」
ゴドが聞く。
「冷却流があるだけです。寝台の人が温まっている印ではない」
ナダは鍋を炉の脇へ置いた。
「ただ、廊下の灯は消せる。次の薬湯を小さくする。寝台の湯袋を減らすのは、指先が二人になってから」
ノアは、治療所の札の横へ《廊下灯・次薬湯小》と書いた。ナダ自身が細くできる場所を先に出している。誰かに取られる前に、自分の現場を守るための線だった。
ティナは学校の火番表を胸へ抱えていた。目の下が黒い。
「火番は二人いる。でも、湯桶は一つになった。小さい子が三人起きてる」
「冷えている?」
「眠れないだけ。手はまだ温かい」
ノアは、紙の《湯桶二つ》を見た。昼に決めた最低線だ。今は一つに戻している。
「二つに戻すべきでは」
エマが言う。
「戻せば、炉が細くなる」
ゴドが答える。火箸を握った手の甲に、粉が付いている。製粉所から運んだ袋を置いて、すぐ炉へ戻ったのだろう。
ティナは火番表を床へ広げた。二人組の印の横に、毛布を渡す順番がある。
「湯桶は一つで続ける。その代わり、起きている子を火鉢の近くへ寄せる。大きい子は椀を使わず、手をかざす。朝までに咳が増えたら、二つ目を戻す」
それは学校の火を減らす決定ではない。学校の中で、誰が湯を飲み、誰が火鉢の近くへ座るかを変える決定だった。ノアはティナの言葉を、そのまま札へ写した。
メラは牛舎の木札を持って来た。炭の端が濡れ、文字が少し滲んでいる。
「家石を使った。水桶は割れた。乳は二桶半。立てない牛はいない」
「家石は何夜目だ」
エマが聞く。
「一夜目。明日も同じなら、封印の一つを外す条件になる」
メラは石蔵を見なかった。今夜の札には、まだ外せないと自分で書いた。村の石箱を牛舎へ引けば、西村の治療所がさらに薄くなる。
「牛舎は、今は細くしない」
メラは言った。
「家の灯を一つ消す。乳瓶を洗う湯は、朝の炉から借りる。二桶を切ったら、私が最低線席へ行く」
ノアは、思わずメラを見た。自分の現場を後にする言葉を、昨日も今日も、彼女は他人に言わせない。
そこで、共同炉の外から女の声がした。乳を待つ幼子の母親だ。
「西村ばかり先にして、うちの子が朝まで待つなら、村の票って何なの」
炉の中で薪が弾けた。誰もすぐに答えない。
エマが女の方へ向いた。
「西村を先にしたのは、私たちです」
「エマさんは弟がいるのに」
「いるから、うちの札も同じ条件へ掛けた。学校の火番が崩れたら、私一人では西村を後にできない。ここにいる二人の印で、戻す」
女は火番表と牛舎札を見る。自分の家の印は、学校の湯桶の列にある。
「私の印もいる?」
「いる」
ティナが答えた。
「乳を待つ子が何人で、湯桶を一つにした時にどうなったかを、明日の札へ書いて。学校だけで決めない」
女は外套の前を握り、やがて火番表の端へ家の印を押した。反対したことを消す印ではない。次に湯桶を戻す時、自分も言うための印だった。
その印を見て、西村の患者車を手伝っていた男が口を開いた。
「向こうの治療所を先にするなら、こちらの学校は二つ目の湯桶を諦めるのか」
「諦めるとは書かない」
ノアは答えた。
「今は一つで持たせる。子どもの咳が増えたら、学校の札で戻す。西村の薬湯を守ることと、学校の湯桶を永遠に減らすことを同じにしない」
「戻す熱はどこから取る」
男はなお聞く。
ノアはすぐに答えず、炉の板をエマへ渡した。エマは治療所、学校、牛舎の札を順に見た。
「廊下の灯を消した分。牛舎が家石で持たせている分。製粉所が臼を止めた一刻。そのどれがまだ戻せないかを、持ち場の人が言う」
ナダは治療所の鍋を持ち上げる。
「廊下灯は戻さない。薬湯をこれ以上小さくすると、一口の間が空く」
メラは首を振る。
「家石は、今夜の水桶で使った。家の灯は細いが、牛は立ってる。二夜目までは戻さない」
ティナは火番表の上に手を置いた。
「学校の湯桶は、咳が一人増えたら戻す。その時は、火鉢の近くへ寄せる順番を変える。大きい子の手だけで持たせない」
男は黙って聞いた。誰かが西村を優先したから学校が減った、という一行の話ではない。ここにいる人が、それぞれ戻せない場所と、まだ持たせる場所を言っている。
「なら、俺は西村の札を持つ」
男は言った。
「向こうのそりが来なければ、峠の縄を結んだ刻と、寝台の数を、朝にここへ出す。西村だけが受け取る側で終わらないように」
ノアは頷いた。紙へ書く前に、エマが男へ小さな木札を渡す。札の片面には西村、もう片面には《戻す条件》と書いてある。朝に報告が来なければ、空欄のままにせず、届かなかったこと自体を板へ残すための札だった。
ノアは、炉の板を見た。治療所、学校、牛舎、製粉所、西村。どの札にも、今夜細くする場所と、戻す場所がある。だが紙を読めば、今夜の答えが浮かぶわけではない。
「製粉所は」
彼が聞くと、ハルが粉袋を一つ持ち上げた。
「粥用は三袋、硬いパンは一袋半。ブラムは臼を止めた。石が冷えた」
「もう一度回せないのか」
ゴドが言う。
「回せば、治療所の炉が細る。ブラムは朝まで油布を外さないと言った」
ノアは、製粉所の札へ手を置いた。ここにレントがいれば、何かを見て、次に誰へ聞くかを言ったかもしれない。だが、見えない人の答えを待てば、炉の火は待たない。
「今夜、臼は回さない」
ノアは言った。
すぐに、自分の声が大きすぎたと思った。
「違う。ブラムさんの停止を、ここで変えない。粉をどう分けるかは、袋の印を付けた人たちが決める。共同炉は、製粉所へ戻すはずだった一刻を、西村の流れと治療所の薬湯に残す」
エマが頷く。
「炉の板に、製粉所の一刻を戻さないと書く。代わりに、誰が粉を運ぶかも書こう」
女が一歩前へ出た。
「学校の大きい子の親が二人いる。パンの袋を学校へ運ぶ。うちの子の乳を待つ間、私が行く」
ゴドは炉番を一刻、若い流路番へ渡す。メラは牛舎の家へ戻る前に、粉袋の茶の印を見分ける役を引き受ける。ナダは治療所の廊下灯を消し、薬鍋のそばへ眠る患者を寄せる。誰もが、自分の札で細くするだけでなく、残った熱と粉を運ぶ手を出した。
ノアは役を紙へ書かなかった。エマが板の余白へ、運ぶ者の家の印を付ける。朝になれば、誰が何を持って歩いたかを、その人自身が足せる。
ゴドは炉の脇へ、粉を運ぶ者のための小さな炭袋を二つ置いた。熱を大きく出せない代わりに、手袋の中へ入れて歩く分だ。ナダは薬鍋の残り湯を捨てず、空の湯桶を洗う布へ回す。ティナは火番の大きい子へ、戸を開けるたび二人で出るよう言い渡す。
再配分は、石箱の栓を一度動かすことでは終わらなかった。誰かが小さくした分を、別の誰かが冷えない運び方へ変える。その手が止まらない間だけ、紙の順番は炉の前で続いていた。
夜は少しずつ明るさを失い、雪だけが戸の外で白くなっていく。西村からのそりは、まだ戻らない。峠を越えた石が届いたか、ここからは分からない。
ノアは不安を言葉にせず、治療所へ歩いた。ナダは鍋の前にいる。青の冷却灯が、蓄魔具の側面で細く点いている。灯だけで安心せず、ノアは寝台の女の指先を見た。ナダが布を外すと、指は昨夜ほど白くない。
「次の薬湯は」
「小さい鍋で足りる」
ナダが答える。
学校では、湯桶はまだ一つだ。火鉢の周りで、大きい子が小さい子の毛布の端を押さえている。牛舎の方からは、氷を割る槌の音がした。どれも完全ではない。けれど、誰か一人の答えを待って止まってはいない。
夜明けの灰色が窓へ差す頃、治療所の蓄魔具の青の冷却灯は、まだ消えずに残っていた。
その日の夕方、三夜目を前に石箱の量石が指一本分だけ戻った。炉番から、各戸の補助炉を元へ戻せるのではないかという声が上がる。ノアも、増えた目盛りを見た瞬間だけ、今夜は順番を解けると思った。
エマは量石ではなく、自宅から持ってきた冷えた湯袋を板へ置いた。
「老夫婦の寝床は、まだ朝まで一つ要る。うちの炉を太くするのは、その後」
ナダは薬鍋の柄へ布を巻いたまま首を振った。
「治療所は小さい鍋で足りる。でも夜番が交代できていない。廊下灯を戻すのは、次の人が来てから」
ティナは火番表を開き、眠ったまま起きない二人の印を示した。湯桶を増やすより先に、大人の交代を学校へ寄こしてほしいという。メラも、牛舎の氷は割れたが、家石を一夜使った水桶が空だと告げた。
四人の条件は、どれも量石の目盛りには出ない。ノアは《回復》と書きかけた札を裏返した。
「今夜は、今の削減順を維持する。戻すのは、各持ち場が出した条件を一つずつ越えてから。異議はありますか」
エマ、ナダ、ティナ、メラが、それぞれ自分の現物へ印を置いた。レントへの照会は待たなかった。三夜目の順番は、増え始めた熱に急かされず、炉の前にいる者たちが決めた。
増えた目盛りを、回復した暮らしと取り違えなかった。




