第3巻 第三十七話 煙の戻る屋根
エマは、屋根から上がる煙を数えなかった。
寒波の三夜目が明け、山の風はようやく細くなった。共同炉の流れは少し太くなり、石箱の量石も昨夜の下限から指一本分だけ上がっている。けれど、炉から見える家の煙が増えたからといって、皆の夜が戻ったわけではない。
最初に行ったのは、隣の老夫婦の家だった。戸を開けると、炉の火は小さい。昨日、土鍋で分けた火が、湿った薪の奥にまだ赤く残っている。
「火を戻しますか」
エマが聞くと、老人の妻は鍋の蓋を開けた。湯はぬるいが、凍ってはいない。老人は寝床の上で、自分の指を動かしている。
「あと半刻、このままでいい」
妻は言った。
「西村の車が戻った札を見てから。うちだけ太くして、向こうの湯が切れたら、借りた火を返したことにならん」
エマは頷いた。炉へ熱を戻せる量があるかではなく、この家が今、戻す必要のある状態かを見た。湯袋は冷えていない。手は動く。煙を太くするのは、次の刻でも遅くない。
家を出ると、屋根の雪を下ろしていた女が声をかけた。
「炉が太くなるって聞いた。うちも今日から湯を二鍋にしていい?」
「鍋が二つ必要な理由を、先に炉へ持って来て」
エマは言った。
女は不満そうに眉を上げたが、すぐに屋根の上を見た。
「下ろす人の手を温める。濡れた手袋を乾かす」
「それなら、炉番へ言って。屋根の雪を下ろす家が何軒あるか、同じ刻に重ならないように」
火が戻る朝に、皆が一度に鍋を掛ければ共同炉はまた細る。女は屋根から降り、隣家の男と雪下ろしの刻をずらす相談を始めた。
次にエマは治療所へ行った。ナダは寝台の間の灯をまだ一つ消したまま、薬鍋の底を洗っている。青の冷却灯は消えずに点いている。冷却流が保たれている印で、寝台の全員が元へ戻った印ではない。
「薬湯を大きくしますか」
「まだ小さい鍋で足りる」
ナダは答えた。
「昨夜、指先が冷えた人は朝に自分で椀を持てた。今は、廊下の灯を戻す方が先。付き添いが湯をこぼさず歩ける」
治療所の回復は、薬鍋を大きくすることではなかった。女が暗い廊下で躓かず、椀を寝台まで運べること。ナダは蓄魔具の白い残留灯が消えたのを確かめ、切り離していた廊下の小灯を接いだ。灯が青白く点き、壁の霜が少しだけ見えるようになる。
「寝台の暖めは」
「昼まで戻さない。外が静かになったからと、夜の薬を忘れない」
ナダは鍋へ蓋をした。エマは、治療所の札へ《廊下灯・戻す。寝台・昼に確認》と書いた。
学校では、火鉢の周りの寝床がまだ片付いていなかった。子どもたちは外套を着たまま、机へ座っている。ティナは二つ目の湯桶を戻さず、一つ目の桶を大きな布で包んでいた。
「もう二つにしないの」
エマが聞く。
「戻す前に、火番を解く」
ティナは答えた。
「眠れなかった子を授業へ座らせるより、家で寝かせる。二つ目の湯桶は、帰る家の炉が細い子へ持たせる」
火鉢のそばにいたユリクが顔を上げた。頬はまだ青白いが、指先は外套の中で動いている。
「俺、家へ戻らなくていい。火番表、朝の分まで書く」
エマは弟へ近づき、肩へ手を置いた。
「書くのはいい。でも、ここで寝ない。朝の分を書いたら、家で横になる」
「みんな戻るのに」
「戻るのは、同じ刻じゃない」
エマは言った。学校の子も、治療所の患者も、牛舎の牛も、戻れるところから少しずつ戻る。ユリクだけが元の役目へ急げば、また誰かが「大丈夫」と思って無理をさせる。
ティナは火番表の夜の欄へ線を引いた。今夜の見回りは二人組のまま残すが、最初の鐘まで起きる子は大人へ替える。学校が元に戻るのは、机が並んだ時ではない。眠い子が火鉢の前で働かなくてよくなった時だと、彼女は言った。
エマは教室の窓を少し開け、外の煙を見せた。子どもたちは、自分の家の煙を探す。太く出ていない家を見つけても、すぐ薪を持って走らない。ティナが家の印を控え、炉番へ伝える。煙が細い理由が、湿った薪なのか、鍋を掛けていないだけなのか、戸を開けて確かめるまで決めない。
ユリクは窓の下へ、小さな印を三つ描いた。《煙、湯、手》。明日の朝、学校へ来る子はこの三つを見てから火番表を片付けるのだと言う。エマは弟の炭を取り上げなかった。ただし、書き終えたら椀を持って座るよう言った。
牛舎へ行くと、メラが水桶の縁を撫でていた。氷は薄い。家石を使った夜のあと、牛は皆立っている。だが乳桶は三つしかない。
「石箱から半刻を戻せます」
エマが言うと、メラは乳桶を見た。
「半刻あれば、水と金具は戻る。けど、乳が四桶に戻るとは限らん」
牛の腹は昨夜までの冷えを覚えている。火が来た量だけで、朝の乳は増えない。
「まず水桶と瓶を洗う湯」
メラは言った。
「背を温めるのは明日。乳が二桶を切らなかったから、封印の石は外さない」
村の石蔵には、冬季例外で条件付きの蓄魔具が残っている。牛舎の条件は越えていない。戻す朝だからと使えば、次に本当に立てない牛が出た時の条件が曖昧になる。
少年が乳瓶を抱えて来た。以前、学校の火番へ遅れていた子だ。
「瓶、洗えた。学校に持ってく」
「走るな」
メラが言う。
「今日は学校の炉に寄ってから行け。湯桶が一つ戻る」
少年は頷き、瓶を布で包んだ。牛舎の熱が戻ることは、乳を多く取るだけではない。少年が瓶を洗い、学校へ遅れず歩けることまで含んでいる。
共同炉では、ゴドが新しい札を板へ留めていた。西村から、そりが峠を越えたという札が届いている。石は治療所へ渡り、薬湯は朝まで切れなかった。ただし蓄魔車の車輪軸に再凍結があり、今夜も車は長く走れないと書かれていた。
炉の脇には、昨夜止めた製粉所から届いた粉袋がある。ブラムは臼をすぐ回さず、石の冷えが抜けるまで油布を掛けたままにしている。粉が足りない家があるからと、朝の流れを全部臼へ入れれば、治療所と西村へ送る分がまた細くなる。
「製粉所は、いつ戻す」
エマが聞く。
「粥用の粉が一袋を切り、臼の歯が温まって、治療所の次薬湯が残った時」
ゴドは答えた。
返って来た量だけで臼を回さない。粉の袋、石の音、薬鍋の三つがそろうまで待つ。エマはその順を板へ足した。寒波を越えた朝も、止める条件を消してしまえば、次の冷えで同じように誰かの椀が空になる。
石蔵の封印札も、そのままだ。牛舎の牛は立ち、乳は二桶を切っていない。家石は一夜しか使っていない。エマは青い札の前に立ち、手を伸ばしかけてから下ろした。道具がそこにあるだけで、使えば皆が助かるように見える。だが、条件を越えていない今外せば、次に本当に必要な時、誰も「まだ待つ」と言えなくなる。
クレイが石蔵の向こうから来た。王都へ細くした昼の一刻も、まだ元へ戻していないという。
「向こうの留め具工房も、今夜まで一刻を細くする」
「こちらが戻っていないから」
「こちらだけではない。王都の受領先も、代替分が届くまで戻せない」
エマは彼の言葉を、すぐには受け入れられなかった。それでも、村だけが我慢しているのではないという紙が、遠くの炉でも今動いている。だからこそ、自分の村の半刻を戻す時も、煙の太さだけで決めない。
「西村の炉は」
「廊下灯を戻した。寝台はまだ半分だ」
ゴドが答えた。
エマは、自分の村の石箱へ戻す半刻を、牛舎だけに使うつもりだった。だが西村の車が今夜も走れないなら、向こうの治療所は次の薬湯でまた細るかもしれない。
「半刻を二つに分ける」
エマは言った。
「牛舎へ水と瓶の分。残りは西村へ地中の流れで送る。車は動かさない」
メラはすぐに賛成しなかった。
「牛舎の金具が冷えれば、明日の乳はまた減る」
「分かってる」
「それでも向こうを先にするなら、札へ書け。明日、乳が二桶を切ったら、誰が戻すかも」
エマは板へ《牛舎半刻・水と瓶。西村半刻・次薬湯》と書き、《乳二桶未満で最低線席を呼ぶ》と足した。自分の村だけを後にして、黙って耐える形にはしない。戻せないものと、戻す時を皆が見られる場所へ置く。
日が傾く前、家々の屋根から煙が少しずつ上がった。太い煙の家も、まだ細い煙の家もある。エマはそれを成功の数にはしなかった。
家へ戻ると、ユリクが火番表を膝へ置いて待っていた。
「明日、学校へ戻る」
エマは戸口で立ち止まった。
「授業へ?」
「火番じゃない。授業。朝の乳が来る刻も、湯桶が減る刻も書いたから、次はちゃんと座る」
弟の声は強くない。けれど、学校の机へ戻ると言えるほどには戻っている。
外では、共同炉の煙が風にほどけていた。西村の車輪はまだ直っていない。牛の背を温める刻も、寝台の灯を全て戻す刻も残っている。
それでもユリクは、火番表を畳んで机の上へ置いた。
エマはその紙の端を撫で、明日の煙を待つことにした。
まだ、戻さない火もあった。




