第九十九話 三百年前の大循環 前編
ペールの山頂にある祭壇は、雲を抜けたその先だった。
祭壇のまわりには、雪に埋もれた柱の残骸や、崩れかけた石壁がいくつも残っていた。
どれも今の時代の造りじゃない。
ネージュは、その祭壇の中央へゆっくり歩いていった。
長い首で辺りを見回し、三百年ぶりの場所を確かめるみたいに、周囲を見回す。
それから静かに口を開いた。
「今から話すことは、三百年前この世界に起こったことだ」
「うん」
僕は自然と、頷いた。
それから、ネージュは祭壇の奥に残る古い石板へ視線を落とした。
「じゃあ、始まりから話そうか」
「大地の循環が狂った、あの日のことを」
⸻
三百年前。
ペール山。
その日、山はいつもと違う静けさに包まれていた。
長くこの山に棲んでいたネージュには、それがはっきりと分かった。
(なんだろ?)
山頂近くの岩場で、ネージュはふと顔を上げる。
足元の雪を、細かな振動が伝わってくる。
大地の奥を何かが流れるような、そんな感覚だった。
目を細める。
(魔力の流れが変わった……)
それは気のせいなんかじゃなかった。
大地を巡っているはずの魔力が、急に不自然な動きを始めていたのだ。
本来なら、ゆるやかに、大地の呼吸みたいに流れているもの。
それが、ひとつの方向へ引っ張られるように偏り始めている。
(強い魔力が集まってくる)
ネージュはその場で翼を少しだけ広げた。
雪がふわりと舞う。
(あっちからだ……)
視線の先は、遠い遠い地平線の向こう。
山のモンスターたちも、それを感じていた。
雪の下に潜む者たちが落ち着きをなくし。
崖に巣を作るものたちが、意味もなく鳴き交わし。
普段は姿を見せない大型の獣までが、唸っていた。
ペール山が、ざわついていた。
⸻
ネージュはそこで一度、言葉を切った。
祭壇に吹く風が、僕のローブの裾を揺らす。
「それが始まりだったんだ」
ネージュは静かに続ける。
「最初は、ただ流れが変わっただけだった」
「でも、あの時から、全部が一気に傾き始めた」
「大循環……」
僕がその言葉を口にすると、ネージュがこちらを見る。
「そう」
「大循環が始まったんだよ」
「ちょうど、三百年前にね」
「リュミエールが言ってた」
僕は思い出しながら言った。
ネージュは頷く。
「彼らとの出会いも、それがきっかけだった」
「スラガの大地、そう呼ばれる場所がある」
「そこから、魔人界への門が開く」
ネージュの声が少し低くなった。
「その門を通して、魔人界からこの世界に大量の魔力が流れたんだ」
「それと、モンスターを引き連れて、この世界に魔人達がやってきた」
僕は、無意識に拳を握る。
「そして一斉に、大地をモンスターで覆い尽くし人間達を襲いはじめた」
「それが……大循環……」
「正確には、違う」
ネージュは首を横に振る。
「本来、大循環の目的は違うんだ」
「魔人界とこの世界の魔力の均衡を保つための、大きな流れ」
「それ自体は、悪いものじゃない」
「でも、なぜか魔人は人間界を滅ぼそうと考えたんだ」
「魔力の流れを使って、モンスターをこの世界へ雪崩れ込ませた」
「その影響を受けたのが、ペール山があるこの場所だったのさ」
「なんでペール山だったの?」
僕が聞くと、ネージュはすぐに答えた。
「それは、この大地の魔力循環を司る場所だからだよ」
「ガルディアにも、ウルズ大森林って場所があるでしょ」
「魔力が濃くて、モンスターが集まるっていう」
「そうだね」
僕は頷く。
「集まるのには理由があるんだ」
「大地を巡る大循環、その太い通り道」
「そこへ向かって、モンスターは流れる」
「そこまでは別に自然なことなんだよ」
「魔力が流れ、循環することこそ、自然の摂理だからね」
魔力の濃い場所。
モンスターが集まりやすい場所。
そう考えると、今までそういう場所には必ず強いモンスターがいた。
「でも、それがおかしくなった」
ネージュは、少し遠いところを見る目をした。
「そこで立ち上がったのが、この世界の番人」
「光の竜、リュミエール」
「光の竜……」
ネージュは静かに続きを言う。
「魔力の循環がおかしくなってから数日」
「モンスターと共に、それは現れたのさ」
「魔人ターク……」
その名前を言った瞬間ネージュの表情が変わった。
「魔人……」
⸻
三百年前。
ペール山。
ネージュは山頂近くから、フロワの街を見下ろしていた。
雪原の向こうの街。
そこには、人の暮らしの明かりがあった。
けれど、その周囲を覆う魔力の流れは、日に日に濃くなっているのが分かった。
(こんなに毎日毎日、モンスターが押し寄せてるのはおかしい)
山道の下では、雪を蹴散らしながら見慣れない群れが走っている。
どれもペール山に元からいたものではなかった。
(雪原も危なくなる)
(このままだと、あの街もきっと飲み込まれる……)
ネージュは翼を少し広げた。
せめてペール山へ近づくものは払い、この地の秩序を守ろうと動いてきた。
けれど、現れるモンスターの数が多すぎる。
そして、流れてくる魔力そのものが、日に日に濃くなっていく。
その時だった。
凄まじい魔力が、この地へ迫っているのを察知した。
ネージュの全身の羽が、一気に逆立つ。
(なんだ……)
それは今まで感じたどんなモンスターとも違った。
(感じたことないくらい強い魔力だ)
(僕より、よっぽど強い)
空気が張る。
それから少しして、それは姿を現した。
黒い外套のようなものをまとった、一人の魔人。
雪の白さの中で、その存在だけが異物みたいに濃く見える。
目は鋭く、全身から滲む魔力は、空間そのものを歪めているようだった。
魔人タークは足を止め、山頂の気配を見渡した。
「ここが、この地の循環点か」
その一言だけで、ネージュは本能的に何かを悟った。
(何者だ......)
ネージュは雪を蹴り、タークの前へ降り立った。
翼を広げる。
言葉は通じないが、ここより先へは行かせない、という構えだった。
タークは、わずかに眉を上げた。
「ここの主か」
ただそのまま立ちはだかる。
タークは口元を歪めた。
「ほう、荒らさせないとでも言いたいのか」
(ここから立ち去れ)
タークは肩を鳴らす。
「まぁいい」
「循環点は破壊させてもらう」
(そんなことしたら世界が……)
タークの目が冷たく細まる。
「あくまでどかないか」
ネージュが一歩も引かないでいると、タークは小さく息を吐いた。
「ならば」
「分からせるまでだ」
タークが手のひらをかざす。
その瞬間、周囲の空気が一気に重くなった。
(すごい魔力だ……)
黒い闇が、手のひらの前に集まり始める。
霧とも炎とも違う、密度の高い闇の塊。
それが渦を巻きながら膨れ上がっていく。
「〈〈ダークネビュラ〉〉」
打ち出された闇は、そこにあった空間ごと押し潰すような圧を伴っている。
(まずい、受けないと)
(〈〈アイスウォール〉〉)
ネージュがとっさに防壁を展開する。
魔力を帯びた氷の壁が前方に広がった。
「無駄だ」
タークの声と同時に、その氷壁はあっさりとかき消された。
次の瞬間、闇の塊がネージュを飲み込んだ。
世界が揺れる。
羽が裂け、体が弾かれる。
雪が大きく爆ぜ、山肌に深い傷が刻まれた。
ネージュは何とか踏みとどまったが、その一撃だけでもう立っているのがやっとだった。
桁が違う。
タークはそんなネージュを見下ろした。
「わかるなら、消え去れ」
「同胞はなるべく手にかけたくない」
⸻
現在の祭壇の上で、ネージュは一度目を閉じた。
「圧倒的だったよ」
静かな声だった。
「僕は立ち尽くすことしかできなかった」
僕は言葉を返せなかった。
目の前にいるネージュが強いのは、もう十分すぎるほど分かっている。
そんな存在が、何もできなかった。
それがどれだけ絶望的な相手だったのか、想像するだけで息が詰まる。
「魔人の強さは、やっぱり異次元だ」
ようやく、それだけ言う。
「そうだね」
ネージュは頷く。
「覚悟したよ」
「ここで終わるんだってね」
「僕の存在はいい」
「でもこの大地は、それだけは守り抜きたい」
「そう思った、その矢先だった」
ネージュが、ゆっくりと僕を見た。
「心の中で、声が聞こえたんだよ」
⸻
三百年前。
タークがもう一度手を上げようとした、その時だった。
「ん……?」
タークの目がわずかに細まる。
「なんだこの魔力は……」
「フォンセ……いや、違うな」
ネージュもまた、別の気配に気づいていた。
何かがネージュに語りかけてくる。
(何?)
次の瞬間、空から影が落ちる。
竜だった。
翼で雪を巻き上げながら、一体の竜が山頂へ降りてくる。
その背には、二つの影。
一人は人の姿。
もう一人は、魔人だった。
「ターク! そんなことをしても何も解決しない!」
先に声を上げたのは、魔人の女性だった。
その声には焦りが滲んでいる。
タークの顔が大きく歪んだ。
「アルミ……お前、まだそんなことを」
「では、あの世界はどうする」
アルミと呼ばれる魔人は竜の背から飛び降り、真っ直ぐタークを見た。
「人間界を滅ぼしても魔人界は救われない!」
「今すぐこんなことはやめて帰ろう」
「帰る?」
タークは吐き捨てるように笑った。
「ダメだ」
「オレはこの世界を滅ぼし、魔人界を元に戻す」
「みんなそれで一致してここまできたはずだ」
「ここまで待った……三百年だ」
「これで全てが終わる」
タークの目には、執念めいたものが宿っていた。
「アルミ、お前も戻って来い」
アルミは、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。
けれど、次に顔を上げた時には、もう迷っていなかった。
「どうしても、ダメなんだね……」
「くどい」
タークの声は冷たい。
その時、竜の背にいたもう一人がゆっくりと前へ出た。
ただタークを見据え、その手をゆっくりと構えた。
それだけで、空気が変わる。
アルミが息を吸い、はっきりと言った。
「じゃあ、私たちが全力で止めるよ!」
タークの口元がつり上がる。
「いいだろう」
「来いっ!!」
その声と共に、三百年前の戦いの幕が上がった。
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