第九十三話 零翼の神旗
フロワの朝は、今日もよく晴れていた。
窓の向こうには、白い雪が積もった屋根が並んでいる。
空気は冷たいのに、差し込む光はやわらかい。
僕は顔を洗い、身支度を整え、宿を出た。
⸻
零の大聖堂へ向かう。
高台へ続く坂道を上がっていくと、だんだんと白灰色のローブ姿が増えていく。
大聖堂は、やはり圧倒される存在感がある。
巨大な石造りの壁。
高く伸びる尖塔。
その全てが、どこか神々しい。
(さて、どこに行けば)
大聖堂の正面に立ちながら、僕は心の中で小さく呟く。
礼拝堂には、すでに多くの信徒が集まり始めていた。
前に来た時より多い。
しかも、今日はなんだか空気が重い。
怒りが押し込められたような、息苦しい静けさだった。
祭壇の前には、あの神鳥の彫刻が鎮座している。
その像を見上げている人たちの顔は、相変わらず真剣だった。
やがて、奥の扉が開いた。
白灰色の正装をまとったウルモイが、前へ出る。
その後ろには、祭司コヤンの姿もあった。
礼拝堂のざわめきが、一気に静まっていく。
「みなさん」
ウルモイの声が、堂内に響く。
「先日の襲撃について、コヤン祭司様からお言葉があります」
そう言って一歩下がると、コヤン祭司がゆっくり祭壇へ向かった。
祭司は祭壇の前で立ち止まり、まず神鳥像へ深く頭を垂れた。
「エジルが、何者かに襲われて意識がありません」
その一言で、礼拝堂の空気がさらに一段重くなる。
「回復への祈りを」
その言葉を合図に、信徒たちが一斉に、あの翼のような祈りの形を取る。
僕も周りに倣って胸の前で手を交差させた。
白灰色のローブが一斉に同じ形を取る光景は、やはり異様だった。
「これは、許されることではない」
コヤン祭司が静かに言う。
「断じて」
その声が、礼拝堂の石壁に吸い込まれるように響いていく。
「醜い思想によって引き起こされた、神を愚弄する愚かな行為である」
「実に嘆かわしい」
そこで、数秒間を置く。
「しかし、嘆いてばかりもいられない」
コヤン祭司はそこで顔を上げた。
「この地は、まもなく魔力の循環が狂うことによって飲み込まれるであろう」
(そういう解釈は魔零派にもあるのか)
僕は小さく息を呑む。
「それが齎されるのは、神を冒涜するかのような討伐の数々、これによってなのです」
(その解釈は極端なんじゃ)
僕がそう思うのをよそに、信徒たちの間にざわめきが広がった。
怒りと恐れが混じったざわめきだった。
「エジルは、魔制炉について調べていました」
「だから、魔創派に命を狙われた」
「エジルには何の罪もない」
「我々、零の者達は、必ずエジルの無念を晴らそうと思う」
再び、信徒たちが一斉に祈りの形を取る。
さっきまでの祈りとは違っていた。
誓いの祈りだった。
僕も同じ形を取る。
「そして、我々は、長い沈黙から解き放たれる」
コヤン祭司の声が、少しだけ強くなる。
「その時は近い」
「ウルモイ、例の物を」
「はっ!」
ウルモイが短く応じ、礼拝堂の奥へ消えていく。
その間にも、信徒たちは誰一人声を上げなかった。
少しして戻ってきたウルモイの手には、一本の旗があった。
長く、白灰色の旗だった。
中央には、銀糸で神鳥の刺繍が施されている。
翼を大きく広げたその姿は、神鳥像そのものを図案にしたようだった。
それが現れた瞬間、礼拝堂の空気がまた変わった。
小さなざわめきが、信徒たちの間を走る。
ウルモイは、その旗を神鳥像の横へと静かに立てる。
「皆、静まられよ」
ウルモイが言うと、ざわめきはすぐに消えた。
コヤン祭司が、旗へ向き直る。
「これは聖戦である」
その一言が、重く落ちた。
「この零翼の神旗のもとに誓い、必ずやこの地に安寧をもたらさん」
「罪なる討伐に断罪を」
祭司の言葉に、信徒たちの視線が旗へ集まる。
「ひいては、準備ができ次第、神山巡礼の儀に移り祈りを捧げる」
「そこで巫女様が声を聞き、神託が降りよう」
そこで、コヤン祭司が礼拝堂の脇を見た。
「聖護衛アレイシス様、前へ」
そこから、アレイシスが進み出た。
ただ立つだけで、周囲の人間と空気が違う。
(やっぱり、あの人が出てくるのか)
(何か雰囲気が違うね)
パンが小さく言う。
(立ち方でわかる、あいつ相当強いぞ)
パディットが唸った。
コヤン祭司がアレイシスへ告げる。
「皆を神鳥様へ導いてください」
「必ず」
アレイシスは短く答え、礼拝堂全体へ向き直る。
「みなさん、私が巡礼の儀を仕切らせていただく」
「エジルのためにも、必ずや」
その言葉は短かった。
でも、信徒たちがそれで十分だと分かるくらいには、強い響きがあった。
「もう一度祈りを」
コヤン祭司が告げる。
全員が、再び祈りの形を取った。
白灰色の袖が、まるで羽の群れみたいに揃って動く。
「では、これにて儀礼を終わる」
「神鳥様に祈りを捧げられよ」
その言葉とともに、前と同じように、信徒たちが列を作り始めた。
神鳥像の前へ一人ずつ進み、短い祈りを捧げて下がっていく。
(フリールはいた?)
エルが少し焦ったように聞く。
(見当たらないね)
(今日は人が多いから、探すのはなかなか難しいね)
パンも周囲を見回すように言った。
そうして、列が少しずつ前へ進む。
やがて僕の番が近づいた。
祭壇の横には、ウルモイが立っている。
「おや」
僕の顔を見るなり、ウルモイが少し目を細めた。
「昨日も来てくれた方ですね」
「あ、はい」
「嬉しいです」
ウルモイは柔らかく笑う。
「もし、興味があれば、奥の間でローブや経典をお渡ししています」
「行ってみてください」
「ありがとうございます」
僕は祈りを終えると、そのまま信徒候補らしい人たちの流れに紛れて奥の間へ向かった。
そこには、まだ正式な信徒服を持っていない人たちが数人並んでいる。
皆、少し緊張したような顔をしていた。
そうして列が進み、僕の番が回ってきた。
「まずは、こちらに寄付を」
目の前に立っていた係の人が、小声で言った。
僕は硬貨をいくらか箱へ入れる。
その時だった。
(!?……フリール!)
エルの声が、器の中で響いた。
僕は顔を上げる。
白灰色の服を着て、授与係として立っていたその人は、間違いなくフリールだった。
服装と場の空気のせいで、一瞬だけ別人に見えた。
「では、このローブと経典を――」
フリールの手が止まる。
「あ……フライ」
「あ……じゃないでしょ、フリール」
僕は慌てて声を潜めた。
「こんなとこで何やってんの」
「エルも心配してるよ」
「え、えーっと、その、つ、次の方ー」
フリールは明らかに慌てながら、ローブを渡すふりをして一枚の紙を手の中へ滑り込ませてきた。
去り際に、ほんの小さな声で言う。
「見ておいて」
それだけだった。
僕は何も言い返せないまま、奥の間から外へ出る。
(フリール、あの子……)
エルの声が、震えていた。
(心配だよね、それでもーー)
僕がそう言いかけた時。
(立派に働いていたわね)
エルの声が震えていたのは、働いていたフリールに、少し感動したからだった。
(お母さん目線がすごいのん)
ムーがツッコむと、少しだけ肩の力が抜ける。
(とにかく、一旦帰ってこれを読んでみよう)
僕はローブの内側に紙をしまい、そのまま帰路についた。
⸻
宿に戻ってから、部屋の机にその紙を広げる。
「さて、何なんだ」
そこに描かれていたのは、この街の地図だった。
大通り。
高台。
宿屋街。
そこに、小さく印がついている。
(これは……地図ね)
エルがすぐに言った。
(この街の地図かしら)
「あ、ここに印があるね」
(宿みたいだね)
「ここまで来てってことかな?」
(本当に何考えてるのか)
エルが半ば呆れたように言う。
そうして夕方になり、僕は印のついた場所へ向かった。
⸻
(確か、印はここだ)
そこは、ごく普通の宿に見えた。
でも近づいてみると、入口には神鳥ニヴァリスの紋様。
中から漏れる灯りは、魔導灯ではなく蝋燭の火。
そして出入りしている人間の何人かが、白灰色のローブを着ている。
僕は自然を装って中へ入る。
宿の中も、大聖堂ほどではないにしても、どこか独特な空気があった。
(地図によると、確か二階の黄色札)
階段を上がる。
廊下にはいくつか札が下がっていて、その一つに黄色い印がついていた。
僕は扉の前に立ち、軽くノックする。
「どうぞ、お入りください」
妙に澄ました声が返ってきた。
扉を開ける。
中には、やっぱりフリールがいた。
なぜか、姿勢が妙にしゃんとしている。
「あら、フライ」
「本当にフリール?」
「ええ、私はフリールです」
(……フライ、わたしを呼んでもらえる?)
エルの声が少し低い。
「フリール、エルを呼ぶからね」
「えっ、ちょ……」
フリールが言いかけた言葉を無視して、僕は杖を構えて魔力を流す。
「〈〈テイムバンク〉〉」
魔法陣が生まれ、部屋の中にエルが姿を現した。
「フリール、あなた何やってるの」
エルの第一声は、それだった。
「こ、これは私のさだめなのです」
「喋り方も妙になってるし」
(それは、前の喋り方のほうが妙なんじゃ……)
僕は心の中でそう思った。
「私は間違っていたのです」
フリールが、どこか遠くを見つめるように言う。
「恵みは奪うではなく、齎されるべきなのです」
「……何があったか話してもらえる?」
「大丈夫だから」
「誰も責めないから」
エルがじっと見つめる。
「うう……」
「それと、ここにはみんなしかいないから、普通に喋りなさい」
その一言で、フリールの顔が一気に崩れた。
「エルぅうううううう!」
次の瞬間には、フリールがエルに抱きついていた。
「よしよし、この子ったら」
エルが呆れながらも受け入れる。
「えっとね、フロワまで来たのはよかったんさ」
「でもね、お金、お金が……」
「寒いし、白いし、行くあてもないし」
「お金って、何があったの?」
僕が聞くと、フリールは目を泳がせた。
「……いや、それは、その」
「……フリール、無くしたの?」
エルの目が細くなる。
「はい」
フリールが観念したように言った。
「キャラバンに、お金を落としてきました」
「気がついて慌てて戻ったら……そのキャラバンはもう出ちゃってて」
「なるほどね」
僕は思わず頷く。
「で、路頭に迷っていたら、魔零派の人たちが困ってるなら助けにならせてくださいって」
「あたい、恩には弱い女じゃん」
「いや、知らないけど」
僕が即座に突っ込む。
「あなた、それでずるずると……」
エルが額に手を当てた。
「気がついたら熱心にお祈りしていた次第です、はい」
フリールがしおらしく言う。
「でも、ここ抜けたらあたい行くとこないからさ」
「何かと面倒見てもらったんさ」
「宿も、魔零派ならココはタダだし、ご飯も出してくれるし」
「……最初、何か変わっちゃったって思ったけど」
僕は深く息を吐いた。
「実にフリールらしい」
「えへへ」
「えへへ、じゃないでしょこの子ったら」
エルがすぐ叱る。
「これからどうするの?」
「あのー、よろしければなんですが、少しばかりお恵みを」
「わかったよ」
僕は苦笑した。
「生活するお金なら貸すから」
「ひゃっほーい、助かるー!」
フリールが両手を上げる。
(でもさ、この状況って実は結構使えないかな?)
パンの声がふっと差し込む。
(うーん、確かに、熱心な信徒やってたフリールなら……)
僕はそこで考えを切り替えた。
「フリール、魔零派ではどうなの」
「ウルモイって偉い人と喋ってたみたいだけど」
「ウルモイ様は実にお優しいお方です」
フリールが途端に真顔で言う。
「あのお方のおかげで、今の私があるのです」
「また、信徒口調になってるわよ」
「……あ」
フリールが目をぱちぱちさせる。
「助けてもらったのは、ウルモイさんなんだね」
「そうそう」
フリールはすぐ元に戻った。
「困ってる人を助けるのが、神の意向だそうで」
「じゃあさ、巡礼は?」
「巡礼?」
「なんでも、眠り続けている神鳥様がいるって話だったね」
「何かあると神託を聞きに、ペール山に行って祈りを捧げるみたい」
「フリールも行くの?」
「信徒の選別して行くみたいだけど、あたいは多分選ばれるよ」
「雑用係だもん」
「準備とか持ち物運ぶとか」
フリールは頷く。
「今はでも、昨日のあれでピリピリしてるから」
「あんまり、遠足気分で行く感じじゃないっていうか、なんていうか」
「だよね……」
「フリールにも、状況知っておいてもらう?」
エルが僕を見る。
「そうだね、話しておこうか」
「なに?」
「えっと――」
そうして僕は、フロワに来てからのことを説明した。
魔制炉の話。
循環の限界。
三百年前の謎。
神鳥ニヴァリス。
そして、巡礼に潜り込まなければならないこと。
フリールは思っていたよりずっと真面目な顔で聞いていた。
「なるほど……」
話が終わると、フリールは腕を組んで頷く。
「要は、三百年前に何があったか探って対策しないと、フロワの魔力循環がまたおかしくなって、モンスターが大量に来てしまう、と」
「この子、察しはいいのよね」
エルが少し感心したように言う。
「えへへ」
フリールが照れたように頭を掻いた。
「だから、巡礼には絶対行かなくっちゃいけないんだ」
僕はフリールを見た。
「怪しまれたくない、そして巡礼には選ばれたい、と......」
「そういうこと」
「ほんなら、あたいが色々聞いといてあげるよ」
フリールが胸を叩く。
「助かるよ」
「とにかくフリールが無事でよかったわ」
エルが少しだけ優しい声になる。
「でも、無茶しちゃダメよ」
「おっけ、約束するよ」
「じゃあ、明日も大聖堂に行くからよろしくね」
「おっけー」
フリールが親指を立てる。
その顔は、ようやく僕の知っているフリールだった。
そうして僕たちは、魔零派の宿舎を後にした。
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