第九十話 初めまして
「ちょっと今から時間ある?」
講義室のざわめきの中で、その一言だけがはっきり耳に残った。
「ええ、このあとは何もありませんけど……」
僕がそう答えると、アーミさんは少しだけ真顔になる。
「じゃあ、ちょっと着いて来てほしいところがあるんだ」
僕が何も返せずにいると、アーミさんはさらに一歩だけ距離を詰めた。
「その前に、少し質問させて」
「はい」
アーミさんは僕の目を見た。
「アルミ村って知ってるよね」
その一言で、空気が止まった気がした。
⸻
少し前。
魔零派が魔導院で騒ぎを起こした、あのすぐ後のこと。
魔導院五階。
魔導研究所三号施設、その奥にある教授の間。
その奥で、リーザは机に片肘をついたまま、じっと何かを考えていた。
「……また、魔零派が来てたらしいですよ」
アーミは、部屋に入るなり言った。
「わかってるさね」
リーザは視線を上げないまま言う。
「じゃあ……」
アーミは言いかける。
けれどリーザは、その言葉を切った。
「魔制炉がまだ動いている限りは、とりあえずは大丈夫さね」
「そんな悠長では、手遅れになります」
アーミの声に、抑えきれない熱が混じる。
「師匠がそんなふうに動けないでいる間にも、事態は進んでいます」
「この地の存続すらかかっています」
リーザはその言葉に、ようやく顔を上げた。
「……言うようになったさね」
リーザは、苦く笑った。
「確かに、これがアルミ村に生まれた運命と思うしかないさね」
「いや」
アーミは首を横に振る。
「わたしは、希望だと思っています」
その言葉に、リーザは一瞬だけ目を閉じた。
そして、小さな声で呟く。
「後悔は、やってからさね」
アーミは何も言わずに待つ。
しばらくして、リーザは机の上の紙束を指先で揃えた。
「わかった、話をするさね」
その一言で、アーミの顔がわずかに緩んだ。
「師匠……」
リーザはただ窓の外を見ていた。
降り続く雪の向こう。
遠い昔に、自分が離れてきた場所を見るように。
⸻
そして現在。
アーミさんの問いに、僕は言葉を失っていた。
「……あ、え、あの」
アーミさんが、僕の言葉を切り、軽く笑う。
「隠さなくっていいよ」
「わたしは味方だから」
「アルミ村のフライ君」
「ど、どうしてそれを」
僕がそう言うと、アーミさんは、少しだけ目を細めた。
「一緒に来てくれたらわかるよ」
僕は少し考えた。
ようやく繋がりそうな何かが目の前にある。
「わかりました」
自然にそう答えていた。
(味方って言ってたね)
パンが器から小さく言う。
(なんなんだ、アーミはいったい)
パディットが続いて言う。
(とにかく行くしかなくなったね)
僕は器の中でそう返した。
アーミさんはそれ以上何も言わず、先に立って歩き出す。
講義室を出て。
同じ五階の廊下を抜けて。
魔導研究三号施設のさらに奥へ。
やがて、ある扉の前で立ち止まった。
「わたしは、ここからは呼ばれるまで入らないからね」
僕は一度だけ深く息を吸った。
不安も緊張もある。
でも、それ以上にこの先を知りたい気持ちの方が強かった。
(フロワに来て、色々調べて、力にするって決めたんだ)
「ええ、大丈夫です」
そう答えると、アーミさんは静かに頷いた。
そして扉を軽く叩き、そっと押し開ける。
⸻
部屋の中は静かだった。
壁一面の本棚。
積まれた古文書。
使い込まれた机。
どれも研究者の部屋らしいのに、どこか生活の匂いも残っていた。
その部屋の奥で、ひとりの女性が立っていた。
小柄な体。
淡い灰がかった長髪。
少し気だるそうに見える目元。
その目が、まっすぐ僕を見ていた。
「よく、ここまできたさね」
「あなたは……?」
僕がそう言うと、その人はほんの少しだけ目を細めた。
「ああ、フェイスの面影も、ハーヴェストの強さも持った顔さね」
その名前を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
母さんと父さんの名前。
その二つを当たり前みたいに口にする人。
喉が詰まる。
「ま……さか、おばあちゃん……?」
その言葉を絞り出すと、目の前の女性は小さく笑った。
「フライ、初めましてさね」
その言葉で、胸の奥が一気に熱くなる。
「リーザおばあちゃん……」
「やっと会えた」
僕がそう言うと、おばあちゃんは少しだけ涙ぐんだ。
「フェイスがあんたを産んだことは、手紙づたいに知ってたさね」
「でも、どーしても帰れなかったさね」
その声には、積もった歳月があった。
「いいんだよ、おばあちゃん」
僕はそう答える。
「誰にだって事情はあるよ」
「ロイは、おじいちゃんは元気さね」
おばあちゃんが少しだけ苦く笑う。
「おじいちゃんは、村で立派に村長をやってるよ」
僕がそう言うと、おばあちゃんの目がほんの少し遠くを見た。
「その人にも、悪いことをしたさね」
「本当はもっと早くに……」
「おばあちゃん」
僕は、その顔を見た。
「その、よかったら何があったのか話してくれないかな」
「力になれることがあったら、なりたいよ」
おばあちゃんはすぐには答えなかった。
ただ僕の顔をじっと見ていた。
「正直、誰も巻き込みたくなかったさね」
「なんとか解決できるように、研究を重ねたさね」
「でも、どーしても決定的なものが足りなかったさね」
「……ここから先を聞いたら、確実に後戻りできないさね」
おばあちゃんの声が低くなる。
「でも、ここまで呼んでおいてさね」
「いいよ、大丈夫」
僕は迷わず言った。
「話して」
おばあちゃんはしばらく黙っていた。
やがて、覚悟を決めたように椅子へ腰を下ろし、向かいの席を手で示した。
「この地は、まもなく魔力の循環が狂ってモンスターが押し寄せるさね」
「どういう……こと?」
「私が調べ上げた結果では、もう時間がないさね」
「三百年前、この地に大量の魔力が流れたさね」
「この地の循環を狂わす何かが、その時にあったことまでは、燈魔書という古の書記でわかったさね」
「燈魔書……」
アーミさんの講義で出てきた名前が、今度はおばあちゃんの口から出た。
「でも、その三百年前に何があったのか」
「それがわからない限り、それを救う手はないさね」
三百年前。
その言葉が出た瞬間、僕の中でもう一つの答えが浮かんだ。
「三百年前……」
おばあちゃんの目が見開かれる。
「フライは何か知っているさね」
「おばあちゃんになら、話していいと思う」
僕はゆっくりと言った。
「僕の知っている全部」
おばあちゃんは数秒だけ僕を見つめ、それから急に扉の方を向いた。
「わかったさね、ちょっと待つさね」
「アーミ! 聞いているさねー! こっち来るさねー!」
「アーミさん?」
扉が開き、アーミさんが顔をのぞかせる。
「師匠、私もいていいのですか」
「師匠?」
僕が思わず繰り返すと、アーミさんは少しだけ笑った。
「そう、私の師匠」
「氷寄りのリーザ」
「その恥ずかしい名前はやめるさね」
おばあちゃんがすぐに顔をしかめる。
「あんたも聞く権利がある」
「わかりました」
僕は一度、二人の顔を見た。
おばあちゃん。
アーミさん。
この二人なら何か知っている気がした。
「こちらの話も、重い話になります」
「孫に心配されるとは、私も老いたさね」
おばあちゃんが小さく笑う。
「大丈夫、黙って聞くさね」
「ではーー」
そうして僕は、知っていることを全部話した。
アルミ村に起きていること。
リュミエールの存在。
テイムの力のこと。
ガルディアの王族と王家の剣のこと。
護手を探しにこの地へ来たこと。
そして、魔人のこと。
話し終える頃には、部屋の中はしんと静まり返っていた。
暖炉の火の音だけが、かすかに響いている。
「私が村にいない間に、そんな……」
おばあちゃんが呆然としたように呟く。
「……信じられないけど」
アーミさんも珍しく真顔のままだった。
「それが全部事実なんだよね」
「そうなのん、事実なのん」
ムーが机の上でぷるんと震えている。
おばあちゃんの目が丸くなる。
「その子を見たら信じるしかないさね」
「何より、筋が通り過ぎてる」
「リュミエールだっけ」
アーミさんが小さく息を吐く。
「竜って本当に存在したんだね」
「ええ、でもずっと眠ったままです」
「ペール山の神鳥みたいだね」
その言葉に、パディットがぴくりと反応する。
(フライ、それって)
「それって、魔零派の零の大聖堂にあった御神体ですか」
僕がそう聞くと、おばあちゃんが椅子から少し身を乗り出した。
「まさか大聖堂まで行ったさね?」
「え、あ、はい」
「何か手がかりがないかなって……」
「あそこには二度と行かないさね」
おばあちゃんはきっぱりと言い切った。
「あんな野蛮な宗教ごっこ、巻き込まれたら終わりさね」
「今日も魔零派の人が怒鳴りに来たでしょ」
アーミさんが腕を組んで言う。
「あれが日常的に起きてるの」
「魔零派も、この地の循環を戻そうとしてる」
「でもね、目的は一緒でも手段が違いすぎるの」
「さっきから出てる、その循環って?」
僕がそう聞くと、おばあちゃんは指先で机を軽く叩いた。
「循環ってのは、平たく言えば魔力の流れさね」
「あんたも魔杖使いなら、少しはわかるさね」
「意識を大地に集中してみるさね」
「太い流れが、この地に向かってるのがわかるさね」
僕は言われた通り、意識を少し沈めてみる。
確かに、何か大きな流れがある。
見えるというより、感じるに近い。
「その流れが、モンスター達を呼び寄せる」
アーミさんが続ける。
「丁度少し前に、海にいるはずのクロックフォクがこっちまで来ちゃってたでしょ」
「あ、それは……」
「大体わかったさね、この子を見たらさね」
おばあちゃんの視線の先で、ムーがぷるぷると揺れていた。
「フライがテイムで帰り道を教えてあげたのん」
ムーが得意げに言う。
「ムーちゃんはさ、ずっと昔から喋れたの?」
アーミさんが身を乗り出した。
「人と話せるのは、フライと出会ってからなのん」
「これがさっき言ってたテイムの力ってことさね」
おばあちゃんの目が急に研究者のそれになる。
「是非研究させてほしいさね」
「今は我慢してください、師匠」
アーミさんが即座に止めた。
おばあちゃんはわざとらしく咳払いする。
「話を戻すさね」
「循環は三百年前に乱れて、それ以来このフロワが制御しているさね」
「原因は不明」
「この地が元々そうだったのか、あるいは何か原因があるのか」
「わからないまま三百年、なんとか騙し騙しやってきたさね」
「でもね」
アーミさんがその言葉を引き継ぐ。
「それももう限界なんだ」
「この地の魔力の循環が最近更に狂い出してきた」
「もう長くは持たない」
「その制御っていうのは、どうやっているんですか?」
僕の問いに、おばあちゃんはまっすぐ頷いた。
「魔制炉さね」
部屋の空気が、そこでまた一段重くなった。
「この街の光と闇、両方を持った、魔導院研究の集大成さね」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




