第八十九話 交わる視線
零の大聖堂の礼拝堂で、僕は白灰色のローブの列の中に、見覚えのある姿を見つけていた。
(あの子ったら、いったい何を……)
エルの声が、器の中で震える。
(あの様子、魔零派のそれだね)
僕は、できるだけ視線を動かしすぎないように、小さく器の中で答えた。
(見かけないと思ったら、こんなところにいたのね)
(なんとか事情を聞ければいいのだけれど)
エルの心配そうな声が響く。
(これが終わったら、そっと近づいてみる)
列の少し前にいるフリールは、白灰色のローブを自然に着こなし、信徒たちと同じように祈りの姿勢を取っていた。
胸の前で手を交差させ、指先を翼のようにひらく。
来たばかりというより、もう何度もここへ足を運んでいるように見えた。
(あの子、何かと信じやすいから、変に深入りしてないといいけれど)
エルが言うとパンが同意する。
(うん、フリールは心配だね)
(だが、流石にただ信徒になりましたって訳でもないだろう)
パディットが言う。
(いえ、フリールに深い考えなんてないわ)
エルが即答した。
(それ、結構ひどいこと言ってるのん)
そのやり取りの間も、礼拝堂の儀式は静かに進んでいった。
祭司の祈り。
信徒たちの唱和。
正面の鳥の彫刻へ一人ずつ進み、短い祈りを捧げて下がる流れが進む。
そうして、フリールの番になり、慣れた手付きで祈りを捧げる。
それが終わると、フリールは礼拝堂の奥にある脇の間へ、当たり前のように入っていった。
(あー、いっちゃうわ……)
(どうしましょう)
エルの声が、しょんぼりする。
(今は流石に追いかけられない)
僕がそう返したところで、ついに自分の番が回ってきた。
列の流れに逆らえず、僕も前へ進む。
前の信徒が離れ、僕がその前へ立つ。
ここでは誰も口を開かない。
全員が短い祈りを捧げて去っていくだけだ。
僕も倣って胸の前で翼の形を作って祈りを捧げ、祭壇を後にしようとした、その時だった。
「君、初めてだね」
小さな声が横から飛んできた。
視線だけ動かすと、ウルモイと呼ばれていた男性が僕を見ていた。
「他所からかな」
低い声で、観察するような響きがあった。
僕は一瞬だけ喉が詰まり、それでもすぐに頷く。
「え、ええ」
「ガルディアから越してきまして」
「ほう」
僕の全身を一度だけ眺める。
「興味だけでも持ってもらえると嬉しいよ」
僕は静かに頷いた。
それだけの短いやり取りだった。
僕は、そのまま自然を装って、外へ出た。
冷たい空気が頬に当たった瞬間、ようやく胸の奥が少しだけ楽になった。
(フリールと話せなかったね)
パンが、少し残念そうに言う。
(あれだけ静かだとな)
パディットも苦く返した。
(フリール……)
エルの声は、まだ心配そうだった。
(でも、あの元気が取り柄のフリールのことなのん)
(きっと大丈夫なのん)
ムーが、明るく言う。
エルが少しだけやわらいだ声で返した。
(そうね、また聖堂に行ったら会えるしね)
(あの感じ……)
(また行ったら、今度は僕も信徒にされるんじゃ……)
僕が思わずそう呟くと、
(そうしたら潜りやすくなるからいいかもね)
エルが少し冗談っぽく言った。
(僕は信徒にはならないよ)
(うふふ、冗談よ)
エルがそう言うと、器の中の空気も少しだけ和らいだ。
僕は一度だけ零の大聖堂を振り返る。
高台に建つ白灰色の建物は、外から見てもやはり重々しかった。
僕はその足で魔導院へ向かった。
⸻
魔導院へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。
中に入ると、僕はそのまま受付へ向かった。
「あら、今日はもうバーベラ教授の講義は終わりましたよ」
受付の女性が言った。
「ちょっと用事ができちゃいまして」
「そうでしたか」
女性は手元の紙を確認した。
「午後からは、アーミ教授による講義があります」
「どうされますか」
「えっと、お願いします」
「では、今日も五階赤の札の講義室になります」
「講義は一時間後です」
「ありがとうございます」
頭を下げて受付を離れる。
そのまま休憩室へ向かい、辺りを見回した。
今日も人は多い。
本を抱えた者。
机に向かって何かを書いている者。
小声で議論している者。
僕は、壁際の空いた席へ腰を下ろした。
少し待っていれば、鐘が鳴る。
そう思っていた時だった。
受付の方から、ざわついた声が聞こえてきた。
何人かが同時に顔を上げる。
僕もそちらを見た。
白灰色のローブをまとった男たちが、受付の前で声を荒らげていた。
「また、ハンター達が討伐したんだろ!」
「お前たちが街に置いているアレのせいで、雪原の秩序が無茶苦茶だ」
男の一人が苛立ちを隠さず言う。
受付の女性は困ったように眉を寄せた。
「すいません、ここで言われましても……」
「討伐の情報が度々上がってくるんだ」
別の魔零派の男性が続ける。
「神の御使い様が降臨されてるというのに、これでは呆れられてしまうではないか!」
「すいません、今、対応できる者が……」
そう言っているうちに、別の足音が近づいてきた。
その人物に、何人かがさっと道を開ける。
銀髪のミディアムヘア。
年の頃は三十半ばくらい。
着ているローブは普通の研究員のものとは違い、肩や胸元に黒い線の入った物だった。
その男性は、受付と魔零派の間にすっと入った。
「すいませんが、講義を受けるのでないのなら迷惑になります」
「お引き取りください」
声は低いが、よく通った。
魔零派の男性が顔をしかめる。
「出たな、レバン」
「ハンターはいらない、もう解体しろ」
「お引き取りください、と言っています」
レバンと呼ばれた男性は、表情を変えない。
「これ以上騒ぐ場合、強制退去していただきます」
「いーや、引かない」
魔零派の男性が一歩前へ出る。
「お前らが妙な研究してるのは知ってるぞ」
「モンスターを利用――」
最後まで言わせなかった。
レバンの手が、するりと相手の口元を塞いだ。
「それ以上騒ぐな」
その声が、さっきより低くなる。
「聞こえなかったか」
「次に口を開いたら、俺は何をするかわからんぞ」
魔零派の男性たちの顔色が変わる。
数秒だけ、空気が止まったようだった。
やがて口を塞がれた男性が、手を乱暴に振り払う。
「抗議はさせていただく」
「この地を汚させはしない」
吐き捨てるようにそう言うと、踵を返した。
白灰色のローブが、受付の前から消えていく。
僕は思わず心の中で呟く。
(神の御使いが現れたって話で動き出しているとしたら、ちょっと責任感じるよ)
(いや、これはフライがあれをやったからってだけの問題じゃないだろう)
パディットの声は冷静だった。
(そうだね)
パンも頷く。
(昔からのしがらみ、みたいに見える)
その時、レバンさんが周囲を見回して口を開いた。
「皆さん、すみません」
「ここは魔導院、特務、秩序担当のレバンに免じて、どうかお収めください」
やがて喧騒は散っていった。
人々はまた自分の席や研究へ戻り始める。
少し遅れて、鐘が鳴った。
(とりあえず、講義に向かおう)
僕は気持ちを切り替え、講義室へ急いだ。
⸻
講義室に入ると、席はもうだいぶ埋まっていた。
なんとか空いていた中段の席へ腰を下ろす。
しばらくすると、扉が開いてアーミさんが入ってきた。
「ごめんなさい、遅れました」
「ちょっと揉め事があったみたいでして」
アーミさんは教壇に立つと、すぐに顔を切り替えた。
「気を取り直して講義を始めます」
「えーっと、今日も大魔導師の研究の続きをお話ししますね」
教室が静まる。
「大魔導士は全部の属性を司ると前回の講義でお話しましたね」
「しかし実際、全部の属性を扱うことは不可能とされています」
前の列の生徒が手を挙げる。
「その三百年前の大魔導士は、何故扱えたのでしょうか」
アーミさんは頷いた。
「そうですね」
「生まれた時から扱えたのか」
「それとも、何かのきっかけがあってそうなったのか」
「謎は多いですね」
アーミさんが続けて言う。
「昨日は、その三百年前の大魔導士が、魔芒杖を扱って竜の力を使ったというお話をしましたね」
「魔芒杖は使用できる人間を選びます」
「それは、何か特別な力を持った人間に反応するのか、杖自身が何かを選び力を与えるのか」
「それが、大魔導士という存在に大きく関わっているのではと言われています」
「しかし、現在、魔芒杖は行方さえ分かっていません」
その時だった。
アーミさんが一瞬だけ、僕の方をちらりと見た。
「ですが、その魔芒杖はーー」
「ガルディア地方の深い森の中にあったという話があります」
それを聞いた瞬間、僕の心臓が跳ねた。
(アルミ村……のことかも)
(やっぱりアーミは何か知ってるのか)
パディットが器から言う。
講義室が少しざわつく。
アーミさんは、そのざわめきの向こうからもう一度だけ僕を見た。
「と、まぁ、そういう噂話が、あちこちにあるのです」
(……何かこの前から試されてるみたいな気がするのん)
ムーが何かを感じて言う。
僕の胸の奥は落ち着かなかった。
アーミさんの講義は、その後も続いた。
ただし、そこから先も、あくまで憶測や噂の範囲に留まっていた。
届きそうで届かない位置で、話は何度も揺れた。
そして最後に、アーミさんは講義室全体を見回して言った。
「ということまでしか分かっていませんが、みなさんはどうでしょう、ロマンを感じていただけましたか?」
ちょうどその時、鐘が鳴る。
講義の終わりの合図だった。
「では、これで大魔導師の講義を終わります」
「また進展があり次第、講義を開きたいと思います」
「ありがとうございました」
教室に拍手が湧く。
生徒たちが礼を言いながら席を立ち、講義室から出ていく。
僕はしばらく座ったまま、動けなかった。
(……聞くべきだと思う?)
(少なくとも聞いたら、こっちが何か知ってると言ってしまうようなものだぞ)
パディットの言葉はもっともだった。
(でも、動かなかったら何もわからないのん)
ムーが言う。
(でも、危険はおかさないって決め――)
その時だった。
影が目の前に落ちる。
「まーた、ぼーっとしてるね」
顔を上げると、アーミさんが立っていた。
「アーミさん」
僕は慌てて立ち上がる。
「ためになったかな?」
「興味深い話ばかりでした」
するとアーミさんが僕の目を見て聞いてくる。
「……ガルディアの森の中、とか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……森……ですか?」
僕はあきらかに動揺してしまった。
「うーん」
アーミさんは少し首を傾げる。
「もうこれ確定でいいでしょ」
「え?」
僕が混乱していると、アーミさんはくすっと笑った。
「ちょっと、今から時間ある?」
講義室は終わりの喧騒に包まれていたが、僕の耳にはその声しか聞こえなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




