第九話 小さな角
朝のいつもより少し遅い時間、薄く目を開けると、窓からの光が薄らと見えた。
ゆっくりとベッドから体を起こした。
手の甲をそっとなぞると、皮膚の表面は変わらないのに、その下に刻まれた紋章の感覚だけは、はっきりとある。
昨日、森で起きたことは、まだ全部を信じきれていない。
声を聞いて、飛び出して、無我夢中で向き合って、気づいたときには静かになっていた。
そんなことを考えていたら。
「フライー? 起きてるのー?」
母さんの声がした。
「起きてるよー」
「なら早く顔洗っておいで、朝ごはん冷めちゃうからー」
「はーい」
考えごとは、一旦そこで中断された。
⸻
顔を洗って台所に行くと、いつもの朝より少しだけボリュームのある食卓が並んでいた。
焼いた魚、卵、野菜の炒め物、それに昨夜の残りらしい肉のスープ。
「今日はなんか豪華だね」
「そりゃあ、昨日は頑張ってきたんだからね」
母さんは僕の前にスープの器を置く。
「いっぱい食べて、また今日から頑張りなさいね」
「うん、いただきます」
手を合わせて、スープを口に運ぶ。
塩気の中に、ほんの少し優しいハーブの香りがする。
「どう?」
「うん、美味しいよ」
「よかった」
母さんは、ほっとしたように笑った。
「ねぇフライ」
「なに?」
「考えごとばっかりして、ちゃんと食べるの忘れないようにね」
母さんの優しさに、無事帰ってきたことを実感した。
「うん」
⸻
朝ごはんを終えて外に出ると、村はもうすっかり日常の動きに戻っていた。
僕は、畑へ急いだ。
畑では、父さんが、鍬を持って土を起こしていた。
「おはよう、父さん」
「おはよう、フライ」
父さんは一瞬だけこちらを見て、すぐに土に視線を戻した。
「具合はどうだ、今日は手伝いできそうなのか?」
「今日はできるよ」
「そうか」
父さんが続けた。
「何か色々あったらしいな」
「でも、お前はいつも通り畑を耕して、いつも通り村の事をやっていればいい」
「うん……そのくらいでちょうどいいのかもね」
色々考えすぎていたなと、父さんの言葉で気が付いた。
「それでいいんだ」
父さんは、ほどよくいつもの自分に戻してくれる。
僕は鍬を手に取って、その隣で土を起こし始めた。
土の感触、汗ばむ額、ただの単純作業。
頭の中も少し落ち着いた気がした。
テイムのことは考えなきゃいけない、目の前の畑も耕さなきゃいけない。
その両方を抱えて生きるのが、村での僕なんだと思った。
⸻
午前中の畑仕事を終えて、一息ついたころ。
「じゃ、見張りに行ってくるよ」
「頑張れよ」
父さんにそう声をかけて、僕は丘の上の見張り小屋へ向かった。
道中、セラとすれ違う。
「フライ、おはよ」
「おはよう、セラ」
「グラムさん、だいぶ落ち着いてきたよ」
「もうちょっとしたら歩けるようになるかもって、ケール先生が言ってた」
「そっか、よかった」
僕は、ほっとした表情を浮かべる。
「フライも、昨日よりは顔色良くなったね」
「いっぱい眠って、朝ごはん、しっかり食べたからね」
「いいことだね」
セラは、にっと笑った。
「じゃあ、また薬草入りハーブ茶持っていくよ」
「ありがとう、助かるよ」
ひらひら手を振って去っていく背中を見送って、僕はまた歩き出す。
やがて、見張り小屋へ続く坂道に差し掛かった。
村全体と、その向こうの森と山が、一望できる場所。
ここからなら、何かあったときもすぐに気づける。
「……さて」
僕は柵に肘を乗せて、深く息を吐いた。
遠くの景色をぼんやり眺めながら、頭の中で言葉を並べ直していく。
(これから、何をしなきゃいけないか)
一つは、テイムの力がどこまで効くのかを知ること。
距離、相手の強さ、数、あのときみたいに手で触れなきゃダメなのか。
二つ目は、赤目みたいな特殊な個体が、どうして生まれたのか。
ただ飢えただけなのか。
それとも、もっと別の何かがあるのか。
三つ目は……この力を、どう使うか……。
全部一緒に考えても、答えは出ない。
「……一つずつ、だよね」
思わず、小さく声に出していた。
(目の前のことから、ちゃんと向き合っていくしかない)
そう思った、そのときだった……胸の奥で、何かの気配が揺れた。
「……ん?」
さっきまで遠くで散らばっていた動物たちの気配とは、違う。
村からそう遠くない茂みのあたりで、何かがうろうろしている。
(……近い)
ちょっとだけ、魔力みたいなものが混ざっている気配がした。
僕は息を呑んで、森の縁をじっと見つめた。
揺れる草むらの向こうで、何か小さな影が動いていた。
じっと目を凝らす。
草の影から、なにか白いものがちらりと見えた。
(ウサギ……?)
小さな体、耳が二本、ぴん、と立っている。
でもその奥に、ほんの少しだけ、魔力みたいな気配が混ざっていた。
(……魔力、なのかな?)
赤目のときに感じた、濁ったものとは違う。
でもなんだか、ほっとけない。
そう思うと、足が自然と見張り台を降りていった。
⸻
森の縁まで来て、そっと木の陰から覗く。
小さな白い背中が、若い草を、もぐもぐと食べていた。
ウサギ、でも普通のウサギじゃない。
額から、一本だけ、細い角が伸びている。
「……角だ」
(おいしい だいじょうぶ)
頭の奥に、小さな声が流れ込んできた。
ただ、空腹と警戒がいったりきたりしている。
(たぶん、モンスター、だよな……)
魔力があるということは、れっきとしたモンスターだ。
とりあえず、深呼吸してから声をかけた。
「君はどこからきたの?」
びくっ、とウサギが跳ねる。
まん丸の目が、こっちを見た。
次の瞬間――。
角の先に、ぽ、と小さな光が灯った。
「ちょっ……!?」
豆粒みたいな火の玉が、ぽすん、と地面に落ちて、湿った土を焦がす。
「……本当に魔法を撃った」
(にげなきゃ たべたい こわい)
ちいさなパニックが、頭の中を駆け回る。
このくらいの火球なら、村に火が移る心配はない。
でも、このまま暴れさせたら、誰かが気づいて騒ぎになる。
(……試すなら、今だよな)
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、一歩、近づく。
ウサギがぴょん、と後ろに跳ねた。
角の先にまた、小さな火が灯る。
「ごめん、怖くないから……声を聞かせてほしいだけだから」
深呼吸。
胸の奥でざわざわしている気配に、そっと意識を伸ばす。
(……)
左手の甲と指輪が熱を帯びた。
すると世界の音が、少し遠のいた。
小さな鼓動とその気配が浮かび上がる。
(こわい おなかすいた)
暗い場所に、ぽつんといるみたいな感覚。
そこに、白い塊が丸くなって震えている。
背中がちょっとガタガタしている。
角はぴんと立っているけど、内心は今にも泣きそうだ。
(……大丈夫)
言葉というより、気持ちをそのまま伝える。
(こわくないよ、だから話をしよう)
(……?)
白い塊が、ぴくりと耳を動かした。
僕は、そのままいつもの自分を思い浮かべた。
何でもない日常の感覚を、そのまま流し込む。
角の先の火が、ふっと小さくなった。
震えが、ほんの少しだけ収まる。
(お腹減ってるんでしょ?)
(たべたい)
(じゃあ……)
意識の中で腰の袋を探る、現実の自分がいつも持ち歩いてる干し肉。
その匂いと味の記憶を、そのまま送る。
塩気と脂の甘さ、噛んだときの感触。
(……!)
白い塊の耳が、ぴん、と立った。
(いいにおい たべたい)
(じゃあ、こっちに来て、ゆっくり落ち着いて)
その言葉と一緒に、胸の奥で何かが脈打った。
指輪と、手の甲が、さらに熱くなる。
見えない線が一本、すーっと伸びて、白い塊に触れた。
ウサギの中の「こわい」が、薄くなって行くのがわかった。
代わりに、僕の胸の中にも、小さな鼓動がもう一つ増えた。
自分じゃない心臓が、すぐ隣で動いているみたいな、不思議な感覚。
(これが……繋がるってことか)
⸻
気がつくと、僕は茂みの前に立っていた。
左手の甲が熱い。
指輪は、さっきまでよりわずかに光を帯びている。
その目の前で、白い一角ウサギがこちらを見上げていた。
角の先に灯っていた火は、もう消えている。
代わりに、鼻先をひくひく動かして、僕の腰袋をじっと見ていた。
「……お腹すいたんだったね」
苦笑しながら、袋の中から干し肉を一枚取り出す。
「噛み切れるところまで小さくするから、落ち着いて」
しゃがんで、指先でちぎりながら差し出す。
一角ウサギは一瞬だけ躊躇してから、ゆっくり近づいた。
鼻が僕の指に触れた。
ぺろりと舌が出て、干し肉だけを器用にさらっていく。
(おいしい もっと)
「はいはい」
ちぎっては渡し、ちぎっては渡し。
そのたびに、小さな満足の気配が胸の奥に伝わってくる。
「……よし」
干し肉を一枚食べ終えたころで、一角ウサギはすっかり落ち着いていた。
角も耳も、ぺたんと普通に近い位置に戻っている。
「君、どうしようか」
モンスターを目の前にして、現実的な問題だった。
村に連れて行って、飼います、は無理がある気がした。
(……とりあえず、目の届くところに置いとくしかないよな)
しゃがんだまま、一角ウサギの額を、そっと撫でてみる。
ふかふか、耳も柔らかい。
一角ウサギは一瞬びくっとしたが、すぐに大人しく目を細めた。
(ついてくる?)
もしかしたら通じるかも、と思いながら聞いてみる。
ウサギはぴくっと耳を動かして、こちらに一歩近づいた。
足元に回り込んで、僕の裾を鼻先でつつく。
(……ついてくるんだね?)
(ついていく たべもの おいしい)
「よし、じゃあ名前だね」
少し考えてから、口を開いた。
「パン、にしようか」
「食い意地張ってるし、白いし」
「パン、君は今日からパンって名前ね」
「僕はフライ、よろしくね」
(パン)
(……今、呼んでくれたのかな?)
胸の奥で繋がっている感覚が、うれしそうに震えた気がした。
「じゃあ決まりだね。パン」
そう言って立ち上がると、一角ウサギのパンはぴょん、と一度跳ねてから、僕の足の後ろにぴたりとついた。
(じゃ、畑裏の小屋まで連れて行くからね)
家の方まで戻るときも、パンは一歩後ろをついてくる。
なんとか視線をかいくぐって、家の畑裏の小さな物置小屋まで辿り着いた。
⸻
「……ここなら、しばらくはバレないかな」
古い農具や木箱が積んであるだけの物置。
隙間に干し草を敷いて、小さなスペースを作る。
「ここ、パンの場所ね」
「外に出るときは、僕が一緒のときだけね」
(やわらかい)
パンは干し草をぐるぐる回って踏み固め、しばらくしてから腰を下ろした。
さっきよりも、パンの感情がはっきり伝わってくるのは確かだった。
(あったかい ねむい)
お腹が満ちて、眠気が勝っている。
敵意や恐怖は、今はもうない。
「ちょっと、用事済ませてくるから、いい子にしててね」
物置の戸を半分閉めて、外に出る。
日が傾き始めていて、影が長く伸びている。
(……誰かに、相談しないとな)
このまま一人で抱えておくには、さすがに荷が重い。
モンスターであること。
魔力を持っていること。
それでも、今は落ち着いていること。
全部ひっくるめて、理解してくれそうな人といえば誰か考える。
「……シアンさん、かな」
シアンさんは魔杖使いで、魔力の流れを見ることができる。
(動物には魔力がない、モンスターにはある)
それをはっきり見分けられるのは、シアンさんだろう。
(赤目のときも、誰より冷静だったしな)
怖がりもせず、油断もしなかった。
(ああいう冷静な人は、きっと信用できる)
⸻
訓練場の端にある、魔法練習場。
木で組んだ的や、焼け焦げた地面が残っている一角で、杖を振る人影があった。
「〈〈フレア〉〉」
呟く声とともに、杖の先に灯った火が、ひゅっと飛んで木の標的に当たる。
「もう少し、軌道がぶれる……」
銀髪を後ろでまとめた女性が、標的をじっと見つめていた。
ローブの袖をまくって、額の汗を手の甲で拭う。
「シアンさん」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「あれ、フライ? どうしたの?」
シアンさんは首をかしげた。
前回の遠征以来、前より少しだけ表情が柔らかくなった気がする。
「あの、ちょっと見てほしいものがあって」
「珍しいね」
僕は戸惑いながら聞いてみた。
「ちょっと……魔力があるかどうか、見てほしいんです」
シアンさんの目が、少しだけ鋭くなった。
「魔力?」
「ここじゃちょっと言いにくくて」
僕の様子から、ただ事ではないと察したのか、シアンさんは真顔でうなずいた。
「分かった、今から行こっか」
「今からでいいんですか?」
「どうせ今日は、魔力の残量も余裕ないしね」
そう言って、練習場の火の跡に簡単な消火をほどこす。
⸻
畑の裏に回り込み、周囲を一応確認してから、物置の戸をそっと開けた。
「パンー?」
声をかけると、干し草の山がもぞもぞと動いた。
白い頭と角が、ぴょこん、と顔を出す。
「え、かわいい……」
隣でシアンさんが、思わず素の声を漏らした。
「ウサギ、なの? でも、角が……」
シアンさんは一歩近づいて、目を細めた。
「……魔力あるね、この子」
「やっぱり」
「モンスター、なんだね」
彼女の声は真剣だった。
「魔力そのものは小さいけれど、近くで見たら、ちゃんとあるのは分かるよ」
シアンさんはパンから視線を離し、僕を見た。
「どうやって、ここまで?」
「……森の縁で、草食べてて」
「……」
「ちょっと、声を聞いて、干し肉あげて、名前つけて……」
シアンさんはしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。
「やっぱり、テイム使ったんだね……フライ」
「……はい」
「この子から怯えみたいなものが、ほとんど感じられないもの」
シアンさんは物置の壁にもたれかかった。
「……」
「まぁ、私は何も言わないよ」
シアンさんは淡々と言った。
パンは、シアンさんの前でも、逃げる様子はない。
「この子、今のところ凶暴性は感じないよね」
シアンさんは杖を少し下ろした。
「もちろん、モンスターである以上、絶対安全ではないだろうけど」
パンの頭を撫でる。
「シアンさん」
「ん?」
「このこと、しばらくは……」
「誰にも言わないよ」
言い終わる前に、彼女はきっぱりと言った。
「今、村のみんなはモンスターが出たかもってことで頭がいっぱいだから」
「モンスターを飼ってます、なんて話が入ったら、パニックになるよ」
「……ですよね」
シアンさんは、杖の柄を握りなおす。
「よかったら、私も手伝わせてよ」
「手伝う?」
「魔力の流れを見るのは得意だからさ」
「それに、この村に魔杖使いなんて、私しかいないでしょ?」
それから、少しだけ目を伏せて付け足した。
「……あと」
「あと?」
「単純に、テイムっていう能力自体に興味が……」
シアンさんは、ちょっとだけ照れたように頭を掻いた。
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、一緒に見てくれますか?」
「フライがよければね」
「正直、一人じゃ絶対抱えきれないですし、お願いしたいです」
胸の奥が、少し軽くなる。
「……パン」
パンの額をもう一度撫でる。
「今日から、君は僕の仲間だね」
(なかま)
パンの気配が、ふわっと揺れた。
こうして、角の生えた小さな一角ウサギのパンは、僕のはじめての、テイムした仲間になった。
読んでくださり、ありがとうございます。
ここからモンスターも仲間になって行きます。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




