第八十六話 神の声を聞く者
フロワの門を抜けて、僕はポルフ雪原の西へ向かっていた。
街壁の外へ出ると、空気はまた一段と冷たくなる。
踏みしめる雪が、街道の上よりずっと深い。
吐いた息はすぐ白くなって、容赦なく体温を奪う。
(そろそろ、近いぞ)
器から、パディットの声が響く。
(大きい魔力が動いてるのん)
ムーも、少し緊張したように言う。
僕は歩く速さを少し上げる。
雪原の向こうへ目を凝らす。
「……見えた!」
遠目に、いくつかの人影が見えた。
数は五、六人くらいだろうか。
その中心で、巨体のモンスターが暴れている。
アザラシみたいな体つきだ。
大きさは三メートル近くあって、口元からは長い牙が伸びている。
白い体が雪原の中でかえって目立っていた。
(近づいてみてみよう)
(バレないように気をつけてね)
パンの言葉に、僕は小さく頷いた。
だいぶ近くまで来て、ようやく全体の様子が見えた。
ハンターたちは円を作るように動きながら、そのモンスターの進路を変えようとしている。
でも、どこかおかしかった。
(何か、戦っているわりに、モンスターの攻撃が少ない)
(何か様子がおかしいのん)
(ちょっと気配を見てみるね)
僕は雪の陰に身を低くして、そっと意識を伸ばした。
相手の気配へ触れる。
その奥にある感情を探る。
すると、すぐに声が聞こえた。
(うみ かえりたい じゃま)
それは、焦りと戸惑いが混ざった声だった。
(……このモンスター、前のムーみたいに迷ってるだけだ)
(フライ、なんとかできないのん)
ムーが心配そうに言う。
(近づけば、繋げて喋ることはできるけど)
(見られるのはまずいよね)
すると、エルの声が器から続いた。
(じゃあ、姿がわからないようにして助けてあげたら、だめかな?)
(噂にはなっちゃうかもだけど、あのモンスターを助けるならそれしかないかな)
僕はエルの提案に小さく頷いた。
(助けて、あげたいのん)
ムーのその一言で、心が少しだけ揺れる。
危ないから倒すのが、間違いじゃないことも分かる。
けれど、迷っているだけの相手を、事情も聞かずに切り捨てるのは違うと思った。
(……見過ごせない……か、行こう!)
そう決めた瞬間、迷いが消えた。
僕はフードをさらに深く被り直し、雪を蹴って飛び出した。
⸻
戦闘の輪の中へ割って入る。
突然現れた僕に、ハンターたちが一瞬だけ驚いたように振り向いた。
「ギルドの要請で、応援で来ました!」
とっさにそう言うと、前にいた男が息を切らせながら叫ぶ。
「助かる!」
「攻撃は緩いが、街の方へ進むのが止まらないんだ!」
別の男が、槍を構えたまま口を開く。
「こいつはクロックフォク」
「普段は海の方で確認できるが、ここまで来てるのは初めてだ!」
「幸い怪我人は出てないが、このままだとまずい……」
僕は我慢できずに言う。
「任せてください、引かせます!」
「そんなことできるのか!?」
「皆さんは攻撃しないでください!」
驚いた声が上がる。
でも、説明している時間はなかった。
僕はクロックフォクの正面へ立つ。
白い巨体、牙の間から白い息が漏れ、前足が雪を掻いた。
攻撃の意志は薄い。
でも、このままだとまた前へ出ようとする。
僕は深く息を吸って、意識を伸ばした。
テイムを、静かにクロックフォクへと繋ぐ。
その瞬間、手の甲と指輪がふわりと光った。
(君、どうしたの? なんで街の方へ行くの?)
クロックフォクの気配がびくりと揺れる。
(あっち まりょく ながれ)
(街の方に北の海から来る魔力の流れがあるんだね)
(それを追いかけてるんだね)
(うみ まりょく かえる)
意味は分かった。
北の海の魔力が、どこかへ流れている。
だからその流れを追って、帰ろうとしている。
(でもね、そっちに海はないよ)
(街に来ると、みんな怖がっちゃう)
クロックフォクの気配が、少しだけ揺らぐ。
(うみ どこ)
(もう少しここからあっちに行けば海へ出られるよ)
僕は街とは反対側へ意識を向ける。
海の気配が残る方へ。
(そっち いく)
その瞬間、クロックフォクの体から力みが少し抜けた。
ゆっくりと頭が動く。
街へ向いていた巨体が、わずかに向きを変えた。
それから一歩、また一歩。
クロックフォクは、街とは反対の方へ歩き始めた。
「え? 引き返していく」
背後で、ハンターの戸惑った声が上がる。
「おい、何したんだ!?」
「あの光は一体なんだ!?」
「……あ、えーっと、これは……」
言葉に詰まる。
(フライ、まずいぞ)
パディットの声が鋭く響く。
(逃げるならオレを呼べ、疾風の速度で離脱する)
(でも余計まずいんじゃ……)
(このままここにいるほうがまずいだろ)
確かに、ここで囲まれる方が面倒だ。
僕は小さく息を飲んだ。
(じゃあ任せたよ、パディット)
すぐに意識を切り替える。
「〈〈テイムバンク〉〉」
魔法陣がふわりと足元に広がる。
白い光が立ち上がった瞬間、パディットが姿を現した。
キラーウルフが、雪原の上へ飛び出す。
「うわっ!?」
驚いた声が重なる。
「乗って!」
僕はすぐにパディットの背へ飛び乗った。
パディットは一度だけ地面を蹴る。
次の瞬間には、風を裂いて駆け出していた。
「は!? なんだそれ!?」
「あれは……いったい……」
「魔零派の言う神の使い、みたいな……」
「まさかな……」
僕は、雪原を一直線に駆け抜ける。
冷たい風がローブをばたつかせる。
物凄い速さに、顔を打つ冷たい空気は痛いくらいだった。
でも今は何も気にならなかった。
僕の中には、焦りが渦巻いていた。
しかし、少しすると、これでよかったんだとも思えた。
⸻
その噂は、後から駆けつけたハンターにも。
魔創派にも。
魔零派にも。
じわじわと広がっていくことになる。
モンスターを引かせた謎のハンター。
手の甲が光った者。
大きな獣に乗って消えた何者か。
フロワの雪の中で起きた、その奇妙な出来事として。
⸻
フライはというと、フロワの近くまで戻ったところで、パディットを牧場に送り返した。
それから何食わぬ顔で、街へと戻っていく。
一旦、宿へ戻った。
部屋の扉を閉めて、ようやく大きく息を吐く。
(危なかった……ちょっと、こんな無茶は今後気をつけないと)
(大丈夫だ、絶対に正体までは分からない)
パディットのその言葉に、僕は少しだけ肩の力が抜けた。
(とにかく、あの子助かってよかったのん)
ムーがほっとしたように揺れる。
(まぁ、救えたのはよしとしよう)
(でもやっぱり危険は避けたいね)
パンの声は、落ち着いていた。
(今日はもう外を歩かないほうがいいよ)
(うん、そうだね)
そう返して、僕はベッドに腰を下ろした。
窓の外では、相変わらず白い息を吐く人たちが行き交っている。
この日、僕は外に出るのを諦め、一日を宿の部屋で過ごした。
フロワの街は広い。
だからこそ、一度広がった噂がどこへ流れていくのか、今はまだ分からなかった。
⸻
そして次の日。
天気は雪だった。
窓の外の屋根も、通りも、昨日よりまた白くなっていた。
「また雪だ」
窓の外を見ながら、僕はぽつりと呟く。
「本当によく雪が降るのん」
ムーが感心したように言った。
「今日はとりあえずもう一回ギルドまで行こうかな」
パンの声が器から響く。
(昨日はすぐ出ちゃったからね)
(あのモンスターがどうなったかも知りたいし)
支度を整えて宿を出る。
街に出ると、雪は静かに降り続いていた。
人々は慣れた様子で歩いている。
ギルドへ向かう道を、僕はできるだけ目立たないように歩いた。
けれど、ギルドへ近づいたところで、すぐに異変が分かった。
中がざわついている。
扉越しにも声が漏れていた。
僕はそっと様子をうかがう。
「モンスターを引かせただけだって言ってるだろうが!」
怒鳴ったのはハンターの男だった。
「そんなことを普通の人間が出来るわけないだろう!」
白灰色のローブに身を包んだ魔零派の男が、負けじと言い返す。
「神の声を聞く者としか思えん」
「そんなことできたら、もっと前から噂になってるだろ」
「いや、しかし実際モンスターを引かせて海へ返したのはどう説明する!」
「あー、しつこいな!」
別のハンターが、苛立ったように手を振る。
「見た目は、普通の背丈、よくあるあんなローブ」
その男が、ふいに僕を指差した。
びくっと肩が跳ねる。
「それとクロックフォクに手を近づけたら、手の甲が光った」
「すごい速さの獣に乗って去って行った」
「俺たちもこれくらいしかわかんねぇんだよ!」
(うわー、これまずいやつだ)
(でもあの子、海まで帰って行ったらしいよ)
パンの声に、少しだけ肩の力が抜ける。
(とりあえずしばらくギルドに近づくのは避けよう)
(それがいいのん)
ムーも賛成した。
僕はそっとハンターギルドを後にした。
(じゃあ、本来の目的の魔導院に行ってみよっかな)
(魔導院って、あの大通りの奥にあるバカでかい建物だよな)
パディットが、少し興味があるような声で聞いてくる。
(そうだね、魔法の研究をしてるとこらしいよ)
僕は気持ちを切り替えて、大通りへ向かう。
雪の積もる石畳の先。
人の流れの向こうに、巨大な建物が見えてくる。
近づけば近づくほど、その大きさははっきりした。
塔が高い。
壁も広い。
ただ大きいだけじゃない。
どこを見ても、細かな紋様や意匠が刻まれている。
研究のための場所なのに、どこか神殿みたいな迫力もあった。
「うわ、すごいなこれ」
「城とはまた違う迫力だ……」
思わず見上げる。
首が疲れるくらい高い。
僕は少し圧倒されながら、そのまま中へ入った。
⸻
魔導院の中も、やっぱり普通じゃなかった。
中央は天井まで吹き抜けになっていて、見上げると何階も上まで回廊が続いている。
白い壁。
青い灯り。
行き交うローブの人々。
階段を上る者。
本を抱えて急ぐ者。
廊下の端で何かを議論している者。
どこを見ても、ここは魔法の研究が日常になっている場所なんだと分かった。
僕はまず、受付らしき場所へ向かう。
「あのー、すいません」
「こちらで魔法についての勉強が出来るって聞いてきたのですが」
「ええ」
受付の女性は慣れた様子で答えた。
「今でしたら……」
紙をぺらぺらとめくって確認する。
「バーベラ教授による、雷力転用学の講義が三十分後にあります」
(へー、面白そうだな)
パディットが感心したように言う。
「授業に参加するのはどうしたらいいですか」
「こちらは受講制なので、身分の表明と代金で可能です」
「魔杖使いの方でしたら、ハンターギルドなどの登録証で大丈夫ですよ」
「じゃあ、これで」
僕はハンター登録証を出す。
「ではこちらに代金を」
言われた通りに支払う。
「講義はそこの大階段の三階、紫の札がかかった部屋です」
「ありがとうございました」
僕は軽く頭を下げ、受付を後にする。
少し歩くと、休憩所と書かれたスペースがあった。
中は広い。
本棚が並び、長机や椅子もたくさんある。
数人がコーヒーらしきものを飲んでいたり、本を読んでいたり、紙に何かを書き込んでいたりした。
静かだけれど、ただ静かなだけじゃない。
独特な空気が漂っている。
(しかし広い、これだけの施設、ゼンでも作らないだろうな)
僕が吹き抜けの上まで続く回廊を見上げていると、ネールが感心したように言う。
(そういう大工仕事と、また違うと思います)
(どんな話が聞けるのかしら)
エルの声には、ほんの少し楽しそうな響きがあった。
(村ではシアンさんの講釈だけだったからね)
少し本を開いて待っていると、ふいに声がかかった。
「んー、ここらじゃ見ない魔杖使いさんだね」
顔を上げると、赤髪を長めのポニーテールにした女の人がこちらを見ていた。
ローブ姿で、年は二十代くらいに見える。
軽そうな雰囲気なのに、目だけは妙に鋭かった。
「君、どっから来たの?」
「え、僕ですか?」
「えっと、ガルディアからです」
「へー、ガルディアか」
その人は少しだけ目を丸くした。
「結構あっちから来る人多いよね」
「魔法の研究とかは、あっちじゃできないからですかね」
「え、でもすごい魔杖使いはいっぱいいるって聞いたことあるけどなー」
「例えば……氷寄りのリーザとかさ」
その名前が出た瞬間、胸の奥が跳ねた。
鼓動が早くなる。しかしあまり動揺しないように気を配る。
「……有名な人なんですか?」
僕が少し探るように聞くと、女性はあっさりとうなずいた。
「そりゃ、あっちの方で魔杖使いって言ったらそうでしょ」
「そ、そうですよねー」
僕は、できるだけ何でもない顔をして相槌を打つ。
「僕もあんな魔杖使いになれたらなー」
そう言いながら、内心では少しだけ落ち着かない。
(フライは演技が下手なのん)
ムーが、遠慮なく言った。
(それ言うとフライ傷つくらしいよ)
パンがすかさず小声みたいに続ける。
(でも事実なのん)
器の中で、ムーとパンがそんなことを言っている。
やめてほしい。
「で、何の授業受けるの」
「バーベラ教授の雷についての授業を」
「へー、一緒だ」
「目の付け所がいいね」
その人は、急に少し前のめりになった。
「バーベラ教授は雷魔法の第一人者でさ、その雷力を魔導具の動力にしているのは知ってるよね、それをさらに増幅できないかって研究していて、それを転用するにあたっての力場や魔力の流れ、その計算式をいくつも発見していて、それで、その雷魔法も一級品、転用が増幅できれば将来は……」
そこから、ものすごく早口になった。
止まらない。
(この人すっごいね)
(オレでもこんな口回らないぞ)
パンとパディットが、少し呆れたみたいに言う。
「へぇ、すごいですね!」
(フライにそれは効かないのん)
(フライは人の話を永遠に聞き続ける天才なのん!)
ムーが、なぜか得意げに言う。
「あ、また喋りすぎちゃった、癖でさ、ごめんね」
「いえ、為になって楽しいですよ」
分からないところもあるけれど、こういう話を聞くのは嫌いじゃない。
その時、鐘が鳴る。
低く、重たい音が広がった。
「あ、じゃあ講義行こっか」
「場所案内してあげるよ」
「ありがとうございます」
そうして僕たちは、講義室へ向かった。
⸻
講義室は思っていたより広かった。
段になった席がいくつも並び、その前には大きな黒板みたいな板がある。
机の上には魔道具らしい器具まで置かれていた。
しばらくすると、白髪混じりの教授が入ってくる。
そのまま迷いなく講義が始まった。
「ですから、雷力をそのまま放つだけではなく、一度力場へ分けて考える必要があります」
「ここで重要になるのが、転用先に対する余剰の計算です」
黒板の上へ、次々と数字や式が書かれていく。
雷の魔力をどう分けるか。
どれだけ残すか。
何を動かす力へ変えるのか。
話はどんどん進んでいった。
正直、全部が全部すぐ分かるわけじゃない。
でも、単なる魔法の強さじゃなくて、魔力をどう使うかを考える世界があるのだと分かって、僕はずっと引き込まれていた。
「ですから、これを元に魔道具の精製を……」
教授の声が続く。
やがて重い鐘が鳴った。
「では、明日もこの時間に続きをやりますので、興味のある方は是非」
講義が終わる。
周りの人たちが立ち上がり、本を閉じ、ざわざわと外へ出ていく。
(な、何言ってるかさっぱりだった)
(数字が頭を回ってる……)
パディットがげんなりした声を出した。
(パディットは感覚派だから講義は向いてないのん)
ムーが、少し得意げに言った。
(ムーはわかったのか?)
意外そうに、パディットが聞き返す。
(んとねぇ、要は雷の力は他の魔法に比べて利用価値が高いはずってことなのん)
ムーは、ぷるぷると揺れながら説明を始めた。
(七十三の力場を五十五転用に回せば、その分の余剰で動力に回せるのん、それで――)
(だー! もういい、さっぱりだ)
パディットが、途中でたまらず遮る。
(……なるほど、ムーの解釈で一致するね、それなら――)
僕は頭の中で講義の内容と照らし合わせながら、小さく納得した。
(もうどっか他所でやってくれよ……)
パディットの声は、すっかり疲れ切っていた。
そんなことを考えていると、また声がかかった。
「君、真剣に講義聞いてたね」
さっきの女の人だった。
「どうだった?」
「あ、はい、すごく興味深かったです」
「じゃあ、ずっとここにいるの?」
「はい、しばらくは」
「じゃあさ、また話そうよ」
その人は、軽い調子のまま言った。
「あたし、アーミ」
「僕はフライって言います、よろしくお願いします」
「……フライね、よろしくね!」
一瞬だけ、ほんの少しだけ。
アーミさんの目が、何かを確かめるみたいに揺れた気がした。
でも、それはすぐにいつもの笑顔に戻る。
それが、僕とアーミさんの出会いだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次話も読んでいただけると嬉しいです




