第七十話 入り江に入る船
昨日の夜は、ベッドに入ってから、なかなか寝つけなかった。
明日への不安は大きかった。
目を閉じれば、いろんな顔が浮かんだ。
僕はベッドから体を起こすと、顔を洗い、身支度を整え、すぐにホルスさんの部屋へ向かった。
⸻
扉の前に立ち、軽く息を整えてからノックする。
中に入ると、すでに全員そろっていた。
「おはようございます」
「おっはよう」
フリールが手を上げる。
「昨日は……正直、あんまり眠れなかったや」
「ここにいるみんな、そうだと思うぞ」
ハルが言う。
「お前はぐっすり、いびきかいてたがな」
ホルスさんが横から即座に入れた。
「これでも色々考えて、眠れなかった方だわ」
ハルがむっとして言い返す。
そのやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
「僕も、色々考えちゃったな」
僕がそう言うと、ホルスさんが部屋の空気を引き締めるように言う。
「さて、いよいよ今日だ」
全員が、黙って頷いた。
「そろそろヴェンドたちも、ライゼル城裏の入江に向かうころだろう」
「俺たちも出るぞ」
⸻
宿を出て、ガルディアの門を抜ける。
朝の平野には、やわらかな風が吹いていた。
空は高く、雲は少ない。
遠くの草原は陽を受けて淡く光り、街道には行商の小さな一団が見える。
今日も、ガルディアは平和そのものだった。
(この景色を、守りたいな)
僕は自然にそう思った。
ホルスさんが先頭を歩き、その後を追った。
しばらく歩くと風の音と、自分たちの足音だけが耳に残るようになった。
東へ向かって歩いていくと、やがて丘の上に影が見えた。
「……あれだ」
ホルスさんが前を見たまま言う。
「あそこが、かつてのライゼルの城だ」
僕は目を凝らす。
丘の上に立つその城は、遠目にもすでに朽ち始めているのが分かった。
壁は崩れ、窓は割れて、植物が外壁を這うように絡みついている。
そこに、人の気配はなかった。
「もう、中には誰もいねぇんだな」
ハルがぽつりと呟く。
「何か、物悲しいよね」
フリールの声も少し静かだった。
「そうだな」
ホルスさんが短く答える。
「ここから回り込んで、入江に向かう」
「しばらく歩けば、海が見えてくる」
そこからまたしばらく歩いた。
⸻
草の匂いに、少しずつ潮の匂いが混じりはじめる。
空気も、平野の乾いた感じから、海沿いの湿り気を帯びたものへ変わっていった。
時刻は、昼前に差しかかっていた。
「ここから先に下ると、ライゼルがかつて使っていた港がある」
「今は、もう誰も使っていないがな」
「お」
ハルが少し目を細める。
「森も見えてきたぞ」
少し小高い場所から見下ろすと、右手には深い森が広がっていた。
木々は密集し、昼なのにその奥は暗い。
風が吹くたび、葉がざわざわと擦れ合う音が遠くまで響いている。
「あっちの方向が、ウルズ大森林だ」
ホルスさんが言う。
「人間が近づかない、魔力の森だ」
魔力の気配が、この平野から切り離されている、そんな感じがした。
「おお、海が見えるね」
フリールが、今度は前方を指さす。
「遠くに建物もあるんじゃない?」
その先には、青い海が広がっていた。
そして入江の端には、細く高い灯台が立っていた。
「灯台だな」
ホルスさんが答える。
「港が機能していた時に使われていた」
その周囲には、古い桟橋や崩れかけた倉庫も見えた。
(ネールさん、どうですか)
僕は器からネールに聞く。
(もうそろそろ、ガルディアの海域に入るぞ)
(ありがとうございます)
(引き続き、何かあったら教えてください)
(承知)
「ネールさんが、船がガルディアの海域に入ったそうです」
「よし」
ホルスさんの目が鋭くなる。
「おおかた予想通りだな」
「よし、じゃあ場所の配置だ」
ホルスさんは辺りを見回してから、フリールに目を向けた。
「まず、フリール」
「うい」
「お前は、この辺りの草陰で見えない位置に待機だ」
少し離れた、背の高い草と岩陰の重なった場所を指差す。
「ここにエルといて、状況を見ていてくれ」
「何かあれば、すぐエルを通して連絡だ」
「まかされた」
フリールが胸を張る。
「小さなことでも報告するよ」
「フライ、エルを呼んでくれ」
「はい」
僕は杖を構え、器から魔力を流す。
「〈〈テイムバンク〉〉」
足元に白い魔法陣が浮かび、ふわりと光が立ち上った。
その中から、エルが姿を現す。
「エル、よろしくね」
フリールの顔がぱっと明るくなる。
「ええ、まかせて」
エルは落ち着いた笑みを浮かべた。
「基本、お前たちは戦闘なしだ」
ホルスさんがフリールを見て言う。
「報告係に徹してくれ」
「大事な役目になる」
「ガルディアの方向も注意して見ていてくれ」
「うい、周り見て動くよ」
そう言うと、ホルスさんは少しだけ口元を緩めた。
「それと、エルにはフリールの監督を任せるからな」
「あたいは子供かい」
「ふっ」
ホルスさんが小さく笑う。
「少し力を抜いてもいいのかもしれませんね」
僕が言うと、ハルも頷く。
「ガチガチだと、いざって時に体が動かねぇからな」
「そうだな」
ホルスさんが改めて言う。
「とにかく、いいところに隠れて見張ってくれ」
フリールとエルは頷き、草陰の方へと移動していった。
⸻
さらに先へ進み、ホルスさんが止まったのは、灯台の影になるあたりだった。
「次はここだ」
港がはっきり見える。
けれど、向こうからはこちらを捉えにくい。
距離も、入江から離れすぎていない。
「ハル、お前はここで状況を見てくれ」
「わかった」
「戦闘になったら、加勢を頼む」
ハルは包みの中の剣をちらりと見た。
「戦闘になったら、だな」
「いいか」
ホルスさんの声が低くなる。
「未知数な力が、こっちにあるとすれば」
「俺はその剣と、お前にこそあると思ってる」
「おう」
ハルが真っ直ぐ頷く。
「それと、親父と訓練した剣技な」
「そうだな、頼りにさせてもらうぞ」
ホルスさんの目が少しだけ柔らかくなった。
「ハル、頼んだよ」
僕が言うと、ハルは軽く笑った。
「まかせろよ」
「親父とフライも気をつけてな」
「うん」
そこから先は、僕とホルスさんの二人で港に近づいた。
⸻
使われていない入江の港は、近くで見るとさらに寂れていた。
石畳は割れ、草が隙間から伸びている。
古い木の杭は海風で白く色あせ、波のたびにきしんだ音を立てていた。
「ファラたちだ」
僕が小声で言う。
港の中央あたりに、ファラとヴェンドさんの姿が見えた。
二人ともすでに来ていて、海の方を向いて立っている。
「今は接触できない」
ホルスさんが辺りを見回し言う。
「俺たちは裏手から近づいて、物陰に潜む」
「はい」
「なるべく近い方がいいですね」
「あの塀の裏まで行くぞ」
僕たちは音を立てないように進み、港の塀の裏へ回り込んだ。
そこはファラたちがはっきり見える位置で、なおかつこちらは隠れられる場所だった。
塀の向こうでは、ファラとヴェンドさんが、静かにその時を待っていた。
「ここなら……」
僕は小さく呟く。
「でも、パディットを呼び出した瞬間に動かないと気付かれますね」
「そうだな」
ホルスさんが頷く。
「俺は、呼び出しと同時に巻物を構える」
(大丈夫だ、一瞬で駆けてみせる )
パディットの声が響く。
(信じてるよ、パディット)
「パディットを信じましょう」
僕はホルスさんを見る。
「ああ」
「元より、それありきの作戦だからな」
「頼りにさせてもらう」
そう答えたあと、僕はホルスさんの背中にある包みに目を向けた。
「ホルスさん、あとその包み……新しい剣ですよね?」
「ああ」
ホルスさんは布を外した。
「おろしたてだ」
「これって……」
見た目は、以前の剣とそこまで変わらない。
けれど、鍔の部分に小さな窪みがあった。
「これはな」
ホルスさんが剣を横にして見せる。
「魔剣だ」
「魔剣……ですか」
僕は思わず息を呑む。
「ここの鍔の窪みに、加工したルミナストーンをはめると」
ホルスさんが指で示す。
「魔斬撃が撃てる」
「お前たちがダンジョンに行っていた間、テュリップのコネで工房に口を利いてもらったんだ」
ホルスさんが剣を静かに構え直す。
「俺も、ただただ十日を過ごしたわけじゃないからな」
その時だった。
ネールの声が、上空から鋭く響いた。
(港が見えた)
「港が見えたそうです、来ます」
僕は息を呑んで言う。
⸻
海の向こうに、船影が現れた。
最初は小さな点にしか見えなかったそれが、徐々に港へ近づいて来る。
戦闘用の船みたいな造りで、大型まではいかないが、それでも十分に威圧感があった。
(魔力をいっぱい感じるねー……)
クロープの声が器に響く。
「ホルスさん」
僕は、船から目を離さずに言った。
「クロープが多数の魔力を探知しました」
「……やはり、楽にはいかなそうだな」
ホルスさんの視線が鋭くなる。
船は、ゆっくりと入江へ入ってくる。
上空から、ネールの気配も感じた。
(ネールさんは、そのまま上空から見ててください)
(承知)
「いよいよだ、来るぞ」
ホルスさんの声が、塀の影で響く。
船が港に止まり、重い音を立ててイカリを下ろす。
その瞬間──
嫌な魔力が、あたりにじわりと広がった。
潮の匂いに混じって、濁った気配が入り込んでくる。
「嫌な魔力ですね」
僕は思わず顔をしかめた。
「しかも、強い」
「それが、敵の力だ」
船の甲板に、人影が現れた。
黒いローブ。
深いフード。
その布には、魔法陣のような模様が刻まれている。
ゆっくりと船から降りてくる。
同時に、ファラとヴェンドさんが、その人影へ近づいていくのが見えた。
僕は息を止め、それを見守った。
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