【第一章】終.名もなき二人に導きを
夜が更ける。いつもよりも遅い消灯の鐘が鳴り響く。戦いを終えた団員たちは泥のように眠る。誰もがひとときの安心を胸に心地よく眠る。
紅牙団宿舎。その一角に小さな灯りが揺らめく。
「……」
誰にも気づかれない部屋の隅にノエルは立っていた。
テーブルにはすでに脱がれた騎士服が丁寧に畳まれている。その上に剣と狼の描かれた紅牙団の団章を置いた。その指がかすかに震えている。
ノエルはゆっくり腰に帯びた騎士の剣を外した。
その剣は入団と共に与えられた自身の分身とも言える存在。結局最後まで剣を振るう理由を見つけてやれなかった。
「ごめんよ」
ポツリと言葉がこぼれた。
剣は静かにランプの灯りを反射している。
ノエルはそっと剣を置くと、最低限の私物を入れた小さな麻袋を持った。
去り際に、部屋で眠るカイの顔を覗き込む。その頬にはノエルには見せなかった涙の跡が残っていた。ノエルは込み上げる感情を堪え、部屋を出た。
戦いを終えた夜はいつもよりも肌寒く感じた。宿舎を出て外を歩くノエルは大した上着もない中、襟を引き上げ首元を覆う。暗闇の中、小さなランプの灯りだけがノエルの歩みに合わせて揺れる。
紅牙団員用の通用門まで来ると、夜警をしていた騎士が一人、こちらを見た。
「あ……」
ノエルは何か言おうとした。けれどそれを言う前に彼はある物をノエルに差し出した。
「これは……」
受け取ったそれは細長いもの。巻かれた薄い布をめくり現れたのは一本の古い剣だった。
それはノエルが騎士団入団前にこちらに持ってきていた唯一の剣だった。
「私物はすべて、お返しします」
慈悲なのか、皮肉なのか。
騎士としての役目を失った今の自分に、この剣はあまりにも重く、冷たく、両の手にのしかかった。
そうして騎士は門をゆっくりと開いた。
何も言葉は交わさない。ノエルがうつむきがちに門を出ると、すぐに門は閉じられた。
去り際、騎士は「お気をつけて」と一言残してくれた。彼が何をどこまで知っているのかわからない。でも、たったその一言がノエルの心をじんわりと包んだ。
静かな闇に一人残されたノエルの脳裏に、ふと、父の言葉が蘇る。
「道に迷った時……」
ノエルの足は自然とサムサリナ聖堂へと向かっていた。
市街地巡回の時と同じ道を辿る。しかし、その時とはまるで世界が真逆なように静かで人ひとりいない。
建物は損壊され、道には瓦礫や人の血痕が生々しく残っている。ノエルは険しい表情を浮かべながら歩みを進めた。
半ばぼんやりと歩き進めて、やがてたどり着く。
「サムサリナ……」
地獄が始まった聖なる場所。
階段の一番下、ノエルの足元には身に覚えのある血の跡があった。
「ユニス……」
しゃがみ込み、その血にそっと触れる。もう乾き切ってしまって血は地面に染みているようだった。
彼は唇を噛み締め立ち上がると聖堂の中へと入っていった。
中は不思議なことに、まるで何事もなかったかのように傷ひとつない。この空間だけが昼間の穏やかな時間を覚えているように感じた。
「……?」
不意にノエルは立ち止まる。聖堂の最奥に誰かいる。
咄嗟に私物の剣に手を添えた。
もしも魔物だったらすぐに騎士団に知らせないと……。
サムサリナ聖堂の天井中央はガラスでできており、そこから差し込む月明かりが幻想的にその者を照らしている。
背を向け、ただじっと立っているその者に、ノエルは一歩、また一歩と距離を詰める。
「……静かな夜だね」
刹那、透き通るような澄んだ声が響いた。
ノエルはハッと立ち止まる。声は再び聞こえてくる。
「誰もいないみたい」
その声は台座の前に立つ人物からだった。ノエルは警戒を緩めず声をかける。
「お前は誰だ? 魔物か、魔族か?」
その者はわずかに振り返った。よく見るとその者は旅人用のローブを羽織り、フードを深く被っている。
「……あぁ、また君か」
その言葉と身なりでノエルは瞬時にその旅人を悟った。
「あの時の……」
驚きで剣から手が離れる。旅人は言った。
「よく会うね」と。
その声はとても静かで穏やかだった。
それはノエルにとってあまりにも残酷で、絶望という名の闇を浮き彫りにさせるようだった。なぜなら、自身の疑われる原因となったその人物が、何も知らないでいるから。
激しい感情がノエルの心に沸き起こる。
「……たの……で」
「え……?」
旅人は首を傾げる。気づくとノエルは拳を握りしめ、勢いよく駆け出すと、まっすぐ旅人に向かい――その肩を強引に掴んだ。
「あなたのせいで!!」
「え――?」
ノエルは怒声にも似た声を上げ、乱暴に肩を揺する。その衝撃で、ついに旅人のフードが脱がされ、顔があらわになった。
「何のこと?」
そう呟く唇は淡い桜色をし、肌は雪のように白い。
星の色のような金にも銀にも白にも見える薄い金髪は動くごとに感じる色を変化させる。
両耳のすぐ下で編み込んだ髪の毛は輪っか状にまとめ、花弁の大きな白い花飾りで留めている。
宝石のように美しい翡翠色の瞳をこちらに向けた彼女は一瞬、人間ではないのかと思ってしまうような神秘的な美しさがあった。
そうして、その細い指は一輪の花を握っていた。
「――っ」
ノエルは思わず言葉を呑み込んでしまう。
同時に、他人の責任にしようとする自分の心があまりにも惨めであることに気がついた。
ノエルはそのままその場に崩れるように膝をつく。彼女は何が起こったか理解できなかったが、ノエルの何者でもない服装を見て静かに言った。
「確か、紅牙団の騎士だったね」
「……もう、過去の話さ」
一言そう告げると、彼女は何かを察したように言った。
「わたしのせいで……って言っていたけど、もしかしてあの時のことで?」
それは彼女がノエルに敵の弱点を教えた時のことを指していた。ノエルもそれはわかったが、そっと首を横に振る。
「ごめん、君のせいじゃないんだ。でも俺にも突然のことで……気持ちが、ついていかなくて……」
しかし、すぐに彼は「違う」と否定し拳を握った。
「……こんな日が来るなんて誰も思っていなかったんだ。こんな、地獄みたいな日が……」
誰かのせいだと思いたかった。誰のせいにもできた。
けれどそれでも誰のせいでもないことを、ノエルは感情をぶつけたことでようやく理解した。
「仕方なかったんだ」
自分を思えば、理不尽だと声を上げられる。けれど、他人を思えば、自分自身が騎士団を離れることが最善であることはよくわかった。
ただ一つ思うことは、この胸のぽっかりと空いた空虚だけは、どうにも目を逸らし難い事実であることだった。
「俺は、何者でもなくなってしまった」
声は聖堂に冷たく響く。
「騎士になるためだけに生きてきたのに……。これからどうしたら……」
彼女は床に項垂れるノエルの腰に控える剣を見つめた。
それは長い間使われてきたことがわかる古さと、大切にされてきた丈夫さが垣間見える。
彼女はノエルにそっと近づくと手に持つ一輪の花を差し出した。
白く小さな花弁が幾重にも重なって咲く可憐な花。
「大丈夫」
ノエルが顔を上げると、彼女はそっと微笑んだ。
「きっとね」
言葉は心にじわりと温かく広がる。花を受け取ると、それはまるで自分に優しく寄り添ってくれるようだった。
ノエルにも自然と小さな笑みが浮かんだ。それを見ていた彼女は彼の剣を指差す。
「その剣がきっと君を守ってくれるよ」
そう言い彼女はノエルの横を過ぎていく。聖堂の出口に向かって歩いていく彼女にノエルは声をかけた。
「あの、あなたは、これからどこへ? 一人じゃ危ないよ、まだ魔物が……」
「大丈夫」
再び彼女はそう言った。
「わたしはやつらに詳しいから」
ノエルは彼女のゆっくりと去る背中を見つめた。そうして、今度は彼女が見つめていた先——五つの台座に視線を移す。
彼女がここで何をしていたのかわからない。ただ、彼女の言葉を疑う気持ちはノエルにはなかった。
手の中の花は天井ガラスから差し込む月明かりに照らされる。
何を思ったのか、いや、何も思わなかったのかもしれない。
ノエルは花を中央の台座、つまり何も浮かんでいない空白の台座に置くと、彼女を追って駆け出した。
「待ってくれ!」
それは運命と呼ぶには乏しく、邂逅と呼ぶにはあまりにも充実している。
けれどきっと、人との出会いに特別な理由は必要ないのかもしれない。
足を止めて肩越しに振り返る彼女にノエルは口を開いた。
「俺はノエル。君は?」
「……リラ」
一言返事が返ってくるとノエルは微笑む。そして思い切って手を差し出した。
「リラ、良かったら俺と一緒に行かないか?」
「え?」
リラは不思議そうにこちらを向く。ノエルは緊張感を覚えながらも続けた。
「俺は……今の俺では故郷に帰れない。だから、君の旅に俺を連れて行ってもらえないだろうか。……女性一人はやっぱり危ないと思うし……一応騎士だったから、護衛くらいならできるから」
無茶なお願いであることはわかっていたし、素性の知らない相手だ、警戒されても仕方がない。
それでも騎士という称号を剥奪されたノエルには、一人でこの辛さを耐えていられるだけの器量はなかった。
これは、彼自身の辛さを紛らわすための提案でもあったのだ。
リラはノエルの目をじっと見つめる。その目に揺らぐ気持ちをなんとなく理解した彼女は、大きくため息をついた。
そうして一言。
「結構」
「え!?」
「一人で頑張って」
「えぇ!?」
「それじゃ」
「えー!!」
差し出した手は虚しく空を掴み、リラは背を向けまた歩き始めていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ノエルは慌てて彼女を追いかける。
そうして二人はサムサリナ聖堂を出た。
東の空から朝日が昇り始める。空がわずかに白んで、鳥のさえずりが聞こえてくる。
リラはふと、立ち止まると空を見上げた。ノエルもそれにつられ、天を仰ぐ。
二人の間に心地の良い風が流れた。
行き先のない暗闇の中にいるような感覚だったノエルにとって、その朝日の美しさは悲しいほどに心に沁みる。
二人の心情にそぐわないほどの、綺麗な空が二人の頭上には広がっていた。
『ある青年の手記』
No4.
今日は兄に酷く怒られた一日だった。彼の農作業を手伝おうとしたら、鍬の入れ方が違うだの、種を無駄にしただのと、ことあるごとに文句を言われた。
兄とはもともとウマが合わないと思っていたが、こんなことで怒られるのも憤慨だった。
以前はこんなことで怒らなかったのに。




