三 種を貸した人と、市場の通り
王国歴1560年 白霜の月 18の日
伯爵様がいらした。母上の庭に教わった花を植えたので、その礼に、ということだった。まいどまいど、うまいこと理由をつけてやってくる。
お茶のあと、伯爵様が、父上のことを話された。二年前の水害で、川を見に出て戻らなかったこと。十九で急に家を継いで、何をどうすればいいのか分からなかったこと。家令に教わりながら、村を回ったこと。そのとき、王家から下りてきた指図が、どれほど助けになったかということをぽつぽつと話された。
伯爵様は、しみじみと思い出しながら語られた。村の人を高台の教会と穀物倉に移すよう、真っ先に指図が来たこと。薪と食べ物は、街道の宿場から運ぶと決まっていたこと。それから、種のこと。水に浸かった畑の種は、与えずに貸す、という指図だった。貸すことにしたから、村の者は翌年に返す約束で動いた、施しでは動かなかったと思う、と伯爵様は言われた。あれは殿下のご采配だと聞いている、若いのに見事だと思った、と。
お嬢様が、笑われた。ほんとうに嬉しそうに、お役に立ったのですね、と言われた。種は貸すほうがいいと思ったのです、与えると、次の年に畑を起こす気が萎えてしまうかもしれないから、と。
伯爵様が、黙られた。
わたしは、盆を持ったまま、動けなかった。お嬢様は、ご自分がなにを言ったのか、すぐには気づいていらっしゃらなかった。
伯爵様が、静かに、聞かれた。もしかして、あの指図を、考えたのは、あなたですか、と。
お嬢様は、そこで初めて、困った顔をされた。それから、隠さずに答えられた。あの人に頼まれて、下書きを書いた。それだけです、と。名前は出していない、あの人のものとして出したのだから、あの人の采配です、と。
伯爵様は、しばらく何も言われなかった。それから、立ち上がって、頭を下げられた。給仕のわたしが見ている前で、伯爵様が、侯爵家の娘に頭を下げられた。
ゼーヴァルトの村は、あの指図で助かりました。父を亡くしたあと、私が領主として初めてやり遂げたことは、あなたの書いたことをなぞっただけでした。礼を言う相手を、二年間、間違えていました、と言われた。
お嬢様は、慌てて、顔を上げてください、と言われた。
伯爵様は顔を上げて、それから、もうひとつ言われた。これは言うまいと思っていたが、これを言わないのは、あなたに不誠実だから、言わせてくださいと前置きして。
あの晩餐会のことを聞いたとき、私は、殿下に恩義を感じていたので、噂を信じた。あなたを、不埒な方だと思った日がある。森でお会いするまで、そう思っていた、自分を許せない、と。
お嬢様は、少し黙って、それから、言われた。
わたしは、あなたのお役に立っていたことだけが、嬉しいのです。ほかのことは、いいのです、と。
それきり、お二人とも、しばらく黙っておられた。
わたしは、盆を持って、廊下に出た。廊下で、泣いた。声を出さないように、袖を噛んで泣いた。
あの七日を、わたしは知っている。二十枚を超える紙を知っている。それに礼を言った人が、今日、初めて現れた。あの人は、助かった、と言って窓の外を見た。伯爵様は、お嬢様の目を見て、頭を下げられた。
伯爵様の真意は、まだ知らない。でも、あの方は、お嬢様の仕事に礼を言った最初の人だ。それだけは感謝する。
王国歴1560年 白霜の月 19の日
昨夜、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われた。
あの方は、ありがとう、と言うときに、わたしの目を見ていた、と。
それだけ言って、あとは黙っておられた。わたしも黙っていた。
今朝、洗濯をした。袖に歯の跡がついていて、直すのに手間取った。
王国歴1560年 聖燭の月 3の日
伯爵様から、手袋が届いた。庭仕事用の、厚い革の手袋だ。宝石でも、絹でもない。お嬢様の手が、ミントを刈るときに切れているのを、この前の訪問で見ていらしたらしい。
お嬢様は、手袋をはめて、外して、また、はめられた。
夜、ミナにはいうね、と言われた。
わたしは、また誰かの隣に立っていいのかしら、と。前に隣に立ったときは、あんなふうに終わった。また、同じことになるかもしれない。あの方は、いい方だから、わたしのようなものが隣にいたら、あの方まで悪く言われる、と。
わたしは、考えてから、答えた。お嬢様が立ちたいところに、立てばいいと思います。伯爵様が、それをどう思われるかは、伯爵様がお決めになることです。お嬢様が代わりに決めて差し上げることではありません、と。
お嬢様は、ミナは厳しいわね、と言われた。
厳しくもなる。お嬢様は、また、相手のために自分を引っ込めようとしていた。それは、十年間いやというほど見てきた。
王国歴1560年 聖燭の月 21の日
ネリから言づてが来た。市の日に会えなかったので、手紙をよこしてきた。
王様が、あの人の継承権を、お取り上げになったそうだ。あの人は、リリア様との婚姻を諦めるようにという王様のお言葉を、拒んだという。それで、北辺の領地に封じられることとなり。実質、蟄居に近い暮らしになるらしい。リリア様は、グラーヴェ家から勘当されて、行く当てもないから、あの人についていくのだと、王宮のメイドたちは話しているそうだ。
読み終わって、なにか思うかと思ったら、思ったより、なにも思わなかった。ざまをみろ、とも思わなかった。北辺は寒いだろうな、と思っただけだ。
お嬢様には、手紙をそのままお見せした。お嬢様は読んで、そう、と言われた。それから、庭に出て、雪の下の鉢の様子を見ておられた。
王国歴1561年 芽吹きの月 2の日
北辺から、お嬢様に手紙が来た。封を見て、お嬢様の手が止まったので、誰からか分かった。
お嬢様は、読んでから、わたしに、ミナも読んで、と言われた。
詫びの言葉から始まっていた。噂を信じた自分が愚かだった。北辺に来て、水害のときも、街道の税のときも、自分の名で出したものが誰のおかげだったのか、よくよく分かった。仕事がうまくいかない。あなたがいないと、自分は何もできない。戻ってきてほしい。もう一度、婚約者になってほしい。そういうことが、長々と書いてあった。
お嬢様の顔を見た。呆れた顔をしていらした。お嬢様の呆れた顔を、わたしは初めて見た。
お嬢様は、その場で返事を書かれた。短かった。丁寧な言葉で、お詫びは受け取ります、お仕事のご苦労はお察しします、けれど、わたしがあなたのもとへ戻ることはありません、この先もありません、と。それだけだった。
書き終えて、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われた。
あの人は、わたしがいないと何もできない、と書いてきた。わたしがほしいのではなくて、わたしのする仕事がほしいのね。それが、はっきり書いてあった。断るのは、伯爵様がいるからではないの。あの人のところに、戻る理由が一つもないからよ、と。
わたしは、はい、と言った。今日は、心の底から、はい、だった。
返事は、ヨルクに頼んで、出した。
王国歴1561年 芽吹きの月 6の日
お嬢様は、北辺からの手紙のことを、伯爵様に手紙で知らせておられた。隠すのはいやだから、と言われた。
今日、伯爵様がいらした。用事はなかった。用事なしでいらしたのは、初めてだ。
伯爵様は、怒っておられた。声は静かだったけれど、手が、膝の上で握られていた。殿下に、私から抗議に行きたい、と言われた。それから、でも行きません、とも言われた。行けば、あなたの断りが、私のせいにされる。あなたが自分で断ったことが、私が邪魔したことにされる。それは、あなたの言葉を奪うことになる、と。
私は、あなたの側に立つだけです、と言われた。
お嬢様は、ありがとうございます、と言われた。
わたしは隅で、伯爵様の握った手を見ていた。あれ程手を振るわせておいて、抗議に行かない、と言うのは、行くよりも、たぶん、難しい。
カップは空だった。もう、いちいち書かなくてもいいのかもしれない。でも、書いておく。
王国歴1561年 芽吹きの月 17の日
伯爵様が、たまには春の花市を見に行きませんか、とお嬢様を誘われた。お嬢様は、迷われた。あの夜から、お嬢様は王都の通りを歩いていない。伯爵様は、私が隣を歩きます、と言われた。お嬢様は、しばらく悩まれたが、最後には行く、と言われた。
わたしは後ろについて歩いた。花市は、川沿いの通りに、苗と球根の店が並ぶ。お嬢様は、店をひとつずつ覗いて、店の者に育て方を聞いて、久しぶりに、外で長く話しておられた。
通りの半ばで、若い貴族の一団に会った。同じ年ごろの方たちで、どこかの子爵家の息子と、その取り巻きだ。お嬢様を見て、声を潜めもせずに、傀儡令嬢だ、と言った。殿下に捨てられた、と言った。ゼーヴァルト伯は変わり者だ、あんな女を連れて歩くとは、と言った。
お嬢様の足が、止まった。
伯爵様が、前に出られた。
その話は、私も聞いています、と伯爵様は言われた。聞いたうえで、私はこの方の隣を歩いています。あなた方は、何を聞いて、何を確かめましたか。確かめずに口にした言葉を、通りで、女性に向かって投げるのが、あなた方の家の礼儀ですか、と。
声は大きくなかった。けれど、通りの人が振り向くくらいには、はっきりしていた。
子爵家の息子が、なにか言い返そうとした。伯爵様は、それを待たずに言われた。次に同じ言葉を口にするなら、ゼーヴァルトの名にかけて、私が相手をします、と。
一団は、去った。
伯爵様は、お嬢様のほうへ向き直って、申し訳ありません、大きな声を出しました、と言われた。お嬢様は、首を振られた。なにも言われなかった。言えなかったのだと思う。
わたしは後ろで、それを全部見ていた。
伯爵様の真意を、わたしはもう疑わない。ヴァルテン家の名がほしい人は、通りの真ん中で、ヴァルテン家の娘のために、子爵家を敵に回したりしない。
帰り道、お嬢様は、球根を二つ買われた。伯爵様が、袋を持たれた。
王国歴1561年 芽吹きの月 17の日 夜
お嬢様が、わたしの部屋に来て、ミナにはいうね、と言われた。
わたし、あの方と生きたい、と。
そのあとに、なにか言い訳のようなことが続くかと思った。続かなかった。それだけだった。
わたしは、はい、と言った。それから、言った。あの方は、お嬢様の淹れたお茶を、最後の一口まで飲む方です。あの夜、わたしがお願いしたとおりの方です、と。
お嬢様は、笑われた。それから、少しだけ泣かれた。あの春の泣き方とは、まったく違う泣き方だった。
今夜は、お嬢様はご自分の部屋で眠られた。わたしは、自分の寝台で、これを書いている。
王国歴1561年 芽吹きの月 30の日
伯爵様が、旦那様と奥方様に、正式に結婚を願い出られた。
わたしは、書斎の扉の外にいた。あの夜と同じで、中には入れない。ただ、今日の扉の外は、寒くなかった。
あとで、お嬢様から聞いた。旦那様は、家格の話を一言もなさらなかったそうだ。伯爵様の顔を長く見て、それから、娘の顔を見て、娘が笑っている、とだけおっしゃった。それから、頼む、とおっしゃった。奥方様は、泣いておられたという。
伯爵様は、母上のことも隠さずに話されたそうだ。母上は、噂と、あの晩餐会のことを気にして、まだ戸惑っている。けれど、息子が選んだ人なら会いたい、と言っている、と。
バウムが、あとで廊下でわたしに、よかったな、と言った。バウムがわたしに、そういうことを言うのは初めてだ。
台所で、料理番が、祝いの菓子を焼き始めた。誰が頼んだのか知らない。誰も頼んでいないのかもしれない。
王国歴1561年 花冠の月 8の日
伯爵様の母上、ヘルミーネ様が、王都にいらした。
ヘルミーネ様は、最初、固い顔をしておられた。お嬢様を見る目が、噂を確かめる目だった。わたしは給仕をしながら、腹の中で、この方でも、と思った。
話が、庭のことになった。ヘルミーネ様が、教わった花が、湿った土でよく育った、と言われた。お嬢様が、それなら次はこれを、と、身を乗り出して話し始められた。土のこと、根のこと、水はけのこと。ヘルミーネ様は、初めは礼儀で聞いておられた。途中から、ほんとうに聞いておられた。
帰りぎわに、ヘルミーネ様が、お嬢様の手を取って、息子が、あなたのことを手紙に書いてくるとき、いつも花の話から始まるの、と言われた。今日よく分かったわ、と。
なにが分かったのか、ヘルミーネ様は言われなかった。お嬢様も聞かれなかった。
式は、青葉の月の初めに、王都の会堂で、と決まった。
王国歴1561年 花冠の月 15の日
式の支度で、屋敷中が忙しい。わたしはお嬢様の衣装のことで、仕立て屋としょっちゅう揉めている。
今日、ヨルクが、門のところで、聞いてきた。式のあと、ミナさんは、ゼーヴァルトへ行くのか、と。
まだ決めていない、と答えた。
ほんとうは、お嬢様にも同じことを聞かれている。ミナも来てくれるわよね、と、当たり前のように言われた。当たり前のように言われて、わたしは、初めてはい、と言えなかった。自分でも、なぜ言えなかったのか分からない。
分からないので、今日は、それだけ書いておく。
ヨルクは、まだ決めていない、と答えたわたしに、そうですか、と言って、それから、寒くないですか、と、また聞いた。もう春だ。寒くない。




