二 森で迷った日と、そのあとの手紙
王国歴1560年 青葉の月 12の日
あの夜から十日あまりたった。
お嬢様は、屋敷から出ていない。どうしても出ないといけない用事で外に出ると、人が見るのだ。そのせいか、外に出るにしても庭にしかお出にならなくなった。植木鉢の土を替えたり、ミントを刈ったりして、昼はたいてい庭にいらっしゃる。
わたしが市に行くと、八百屋のおかみが、わたしの顔を見て、声を落として、お気の毒に、と言った。気の毒がる顔をしながら、目は面白がっていた。隣の店では、ヴァルテン家のお嬢様は殿下を裏で、という声が聞こえた。
買うものを買って、帰った。
奥方様が、お嬢様の顔色を気にしていらっしゃる。眠れていないのは、わたしが知っている。カモミールの壺が、もう半分になった。
王国歴1560年 青葉の月 33の日
奥方様が、セーレ湖の別邸へ行きなさい、とお嬢様におっしゃった。夏のあいだ、王都を離れて、湖の風に当たってくるように、と。
お嬢様は、しばらく黙って、それから、ミナも一緒なら、と言われた。奥方様は、当たり前です、とおっしゃった。
荷造りを始めた。お嬢様は、着るものより先に、植木鉢をどれだけ持っていけるか、と聞かれた。二つまで、と答えたら、渋い顔をされた。
夜、ネリからの言づてが届いた。あの人は王宮の一角に謹慎で、リリア様は茶会に出てこられないそうだ。グラーヴェ家は、なにも言っていない。なにも言っていないのが、いちばん怖い、とネリは書いてよこした。わたしもそう思う。
王国歴1560年 日盛りの月 5の日
セーレ湖に着いた。
王都から馬車で二日、丘を越えると、急に湖が見える。別邸は湖の北の岸で、貴族の夏の家が湖に沿って並んでいるうちの一つだ。うちの別邸は小さいほうで、それがいい。
お嬢様は、着いてすぐ、植木鉢を窓辺に置いて、それから湖を見に出られた。わたしは荷を解いて、寝台を整えて、台所の女に挨拶をした。夕食は湖の魚だった。骨が多い。
夜は静かで、虫の声しかしない。お嬢様は、カモミールなしで眠られた。着いた日だからかもしれない。
王国歴1560年 日盛りの月 12の日
今日のことは、順番に書かないと、あとで自分でも分からなくなる。
朝、お嬢様と湖の西の森へ散策に出た。森の道は広くて、迷うようなところではない。わたしが小石を踏んで靴の紐がほどけ、結び直して顔を上げたら、お嬢様がいなかった。
名前を呼んだ。返事がない。道を先まで走った。いない。戻った。いない。木のあいだに入って、また呼んだ。声が枯れるまで呼んだ。どのくらいの時間だったのか分からない。日の高さでいえば、朝から昼に変わるくらいだ。
道に戻って、別邸に人を呼びに行くべきか迷っていたとき、木立の向こうから、ミナ、と呼ぶ声がした。男の人の声だった。わたしの名前を、知らない男の人が呼んでいる。
出てきたのは、狩りの装いの若い方と、その従者と、馬と、お嬢様だった。お嬢様は、靴が泥だらけで、髪に葉がついていて、けれど、けろりとしていらした。
わたしは、考えるより先に、お嬢様とその方のあいだに立った。
その方は、それを見て、一歩下がって、頭を下げられた。ゼーヴァルト伯爵家のアドリアンと申します、と名乗られた。森でお嬢様が迷っておられるのに行き合い、お連れの方を一緒にお捜ししていました、ミナ殿とお呼びしていたのは、お嬢様からお名前を伺ったからです、と、順を追って話された。
ゼーヴァルト。あの水害で、川を見に出て流された伯爵様の家だ。この方は、その息子ということになる。
お嬢様は、わたしの後ろから、ミナ、この方に助けていただいたの、と言われた。
わたしは、頭を下げた。下げたけれど、足はまだ、お嬢様の前から動かなかった。
伯爵様は、同じ湖の南の岸に滞在しているのだと言われた。別邸まで送りましょうか、と聞かれたので、道は分かりますので、と断った。お嬢様が、それでは、お礼にお茶を差し上げたいので、明後日、別邸へいらしてください、と言われた。伯爵様は、少し驚いた顔をして、それから、喜んで、と答えられた。
帰り道、お嬢様から、森でのことを聞いた。
道のわきに、見たことのない青い花があって、それを追って木のあいだに入ったら、道がなくなった。しばらく歩いて、座って、また歩いた。そこへ馬の音がして、あの方にであったのだと。名前を聞かれて、答えた。あの方は、ヴァルテン、と聞いても、顔色を変えなかった。お連れの方は、と聞かれたので、ミナがいる、と答えた。それで、二人でわたしを捜してくれた。あの方は、わたしの名前を、森の中でずっと呼んでいたそうだ。
お嬢様は、そこまで話して、あの花の名前が分からなかったの、と言われた。迷った話より、花の話のほうが長かった。
わたしは、お嬢様の靴を洗った。泥が落ちにくい。
知らない男の人に、わたしの名前を呼ばれたのが、まだ耳に残っている。いやな気持ちではなかったが。それが、少し、いやだ。
王国歴1560年 日盛りの月 14の日
伯爵様が、お茶にいらした。
わたしは給仕で、部屋の隅にいた。
お嬢様は、ご自分のお茶を淹れられた。庭のミントは王都に置いてきたので、別邸の裏で摘んだミントで代わりにして、花びらは持ってきた壺から出した。
伯爵様は、まず森のお礼を受けて、それから、伯爵様のほうからも、お礼を言われた。あの日、森で道を教わったのは私のほうです、と。お嬢様が、木の生え方で北が分かるのだと話したそうで、それで道に戻れたのだという。お嬢様は、恥ずかしそうにされた。
それから、伯爵様が、覚えておいでではないでしょうが、と前置きをして、話された。十になるかならないかのころ、王妃様のお庭の子どものお茶会で、花壇の花の名前を教わったことがある。名前と、咲く季節と、根が水を嫌うことまで教わった。その子が、あなただった、と。
お嬢様は、まったく覚えていらっしゃらなかった。わたしは覚えている。あの、まじめに聞いていた男の子だ。どこの家の子か、聞きそびれた子だ。
お嬢様が、申し訳ありません、と言われたら、伯爵様は笑って、こちらは、根が水を嫌う花の名前を、いまも覚えています、と言われた。
そのあとは、お互いの話になった。伯爵様は剣のことを話された。朝、湖のそばで型を振ること、父上の代の剣術指南がいまも屋敷にいること。お嬢様は、剣のことは何も知らないので、ただ聞いていらした。お嬢様は、青い花のことを話された。伯爵様は、花のことは何も知らないので、ただ聞いていらした。
二人とも、互いに知らないことを、知らないまま、聞いていた。でも楽しそうだった。
帰りぎわに、伯爵様が、言われた。王都で、あなたについて言われていることを、私も聞いています。今日お話ししたあなたと、あの話とは、どうにも結びつきません、と。それだけ言って、深くは言われなかった。
お嬢様は、なにも返されなかった。けれど、お嬢様の肩が、少し下がったのを、わたしは見た。
カップを下げた。伯爵様のカップは、空だった。最後の一口まで飲んであった。
書いておく。それだけのことだ。
王国歴1560年 日盛りの月 14の日 夜
お嬢様が、わたしの部屋に来て、ミナにはいうね、と言われた。
久しぶりに、休んだ気がする、と。身内でない人が、あの話と自分とが結びつかない、と言ってくれた。それだけで、こんなに楽になるとは思わなかった、と言われた。
楽しそうに話される。楽しそうなお嬢様を見るのは、いつ以来だろう。
わたしは、それはようございました、と言った。心からそう思った。
でも、それ以上のことは、まだ思わない。伯爵様がよい方だとしても、お嬢様は、この春、泣いていた。まだ、そんなに日はたっていない。休めたなら、それでいい。今日は、それだけでいい。
王国歴1560年 日盛りの月 27の日
伯爵様が、湖を発たれた。
発たれる前に、別邸に挨拶にいらした。領地の用事があるとのことだった。お嬢様は、青い花を押し花にしたものを、お礼にと渡された。伯爵様は、それを、上着の内側の袋に入れられた。
それだけだった。お嬢様は、その日、いつもどおり庭に出て、いつもどおり夕食を召し上がった。
わたしは、日焼けで首が痛い。湖は日が強い。
王国歴1560年 実りの月 6の日
王都に戻った。
戻った次の日に、手紙が来た。門番のヨルクが、門から受け取って、わたしのところまで持ってきた。ゼーヴァルト伯爵家の封蝋だった。
お嬢様は、封を切って、窓のそばで読まれた。読み終わって、また初めから読まれた。それから、ミナにはいうね、と言われた。
手紙には、湖のことが書いてあったそうだ。わたしたちが発ったあと、湖に鷺が来たこと、朝の型を振っていたら従者に笑われたこと、それから、お茶会で伺った青い花の名前を、恥ずかしながら忘れてしまったので、もう一度教えていただけないか、ということ。
お嬢様は、そこまで話して、あの方は、きっと花の名前を忘れたことにしたのだと思う、と言われた。そう言って、少し笑われた。
返事は、その日のうちに書かれた。長かった。花の名前だけなら一行で済むのに。
王国歴1560年 実りの月 24の日
手紙が、往き来している。
お嬢様は、手紙を書きながら、ときどき笑っておられる。あの人に手紙を書いていたころは、笑ってはいなかった。調べて、写して、確かめて、ただ書いていただけだった。
今日、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われた。
伯爵様には、政治の話をしなくていいの。わたしの話をしていいの。今日道端で見た花の話とか、花壇に新しく植えた花が咲いた話とか。それで、返事が来るの。
わたしは、はい、と言った。
言いながら、少し、泣きそうになった。お嬢様は、十年、ご自分の話をする相手を持っていなかった。わたし以外には。
ヨルクが、手紙を持ってくるたびに、わたしの名前を呼ぶ。ミナさん、と。すこし面はゆい感じがする。
王国歴1560年 刈入れの月 9の日
伯爵様が、屋敷にいらした。
王都に領地の用事で出てきたので、と言われた。ほんとうかどうかは知らない。手土産に、ゼーヴァルト領の梨を、籠にひとつ持ってこられた。南の梨は、王都のより小さくて、固くて、甘い。
旦那様と奥方様に挨拶をされて、それからお嬢様とお茶になった。わたしは給仕で、隅にいた。
話の中身は、湖のときとあまり変わらない。伯爵様は、領の川の堤を見て回ったことを話され、お嬢様は、梨の木の育て方を話された。伯爵様は、堤のことを、まだ父の代の家令に教わりながらやっているのだと、隠さずに言われた。お嬢様は、それを、聞いていらした。
旦那様は、伯爵様が帰られたあと、なにもおっしゃらなかった。奥方様は、いい方ね、とおっしゃった。旦那様は、それにもなにもおっしゃらなかった。
わたしは、梨を剥いた。台所の者にも配った。
王国歴1560年 刈入れの月 30の日
伯爵様が、また、いらした。今度は、母上の庭のために、湿った土でも育つ花を教えていただきたい、という用事だった。用事は、毎回ちゃんとある。ちゃんとありすぎる。
お嬢様は、喜んで、庭に出て、ひとつずつ教えられた。伯爵様は、紙に書き取っておられた。字が大きい。
わたしは、伯爵様がなにを望んでおられるのか、まだ分からない。
お嬢様は、王都でいちばん悪く言われている令嬢だ。それを承知で、若い伯爵様が、用事を作って通ってこられる。ヴァルテン家の名がほしいのか。旦那様の力がほしいのか。それとも、ただの好奇心か。
そう思う自分が、いやだ。あの人のことがあって、わたしは人を疑うようになった。でも、お嬢様は疑わないので、わたしが疑わないといけない。
伯爵様のカップは、今日も空だった。それは、今日も書いておく。
王国歴1560年 白霜の月 4の日
冷えてきた。お嬢様の植木鉢を、夜は室内に入れる。
手紙は続いている。伯爵様の手紙が、少し長くなった、とお嬢様が言われた。お嬢様の手紙は、初めから長い。
今日、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われて、それから、しばらく言われなかった。待っていたら、あの方は、わたしのことをどう思っておられるのかしら、と言われた。
わたしは、分かりません、と答えた。ほんとうに分からないからだ。
お嬢様は、そうよね、と言われて、それきりだった。
でも、お嬢様がそういうことを口に出されたのは、初めてだ。あの人のときには、一度もなかった。すきになれるかな、とは聞かれたけれど、どう思われているのかしら、とは、十年間、一度も聞かれなかった。
ヨルクが、門のところで、寒くないですか、と聞いてきた。寒い、と答えた。それだけだ。もう寝る。




