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一 お嬢様と出会ってから、婚約破棄の夜まで

おうこくれき1547ねん はなかんむりのつき


 きょうから、こうしゃくさまのおやしきにすむことになった。

 おかあさまのおそうしきのあと、おくがたさまがうちにきて、いっしょにおいでといってくださった。うちには、もうだれもいない。おとうさまはたたかいでしんでしまったし、おかあさまはびょうきでしんでしまった。

 おやしきについたら、ちいさいおんなのこがいた。セシリアさまという。五つで、わたしより三つしたで、わたしよりずっと小さくて、なにもいわないでこっちを見ていた。

 おくがたさまが、ミナはきょうからセシリアのおねえさんですよ、といった。そうしたら、セシリアさまはわたしの手をひっぱって、おにわにつれていった。ちいさい草をゆびさして、これはミントです、といった。それだけいって、また、なにもいわなくなった。

 この日記は、おくがたさまがくださった。まいにちかかなくていいから、かきたい日だけかきなさい、といわれた。きょうはかきたい日だったので、かいた。ひらがなばかりで、字がまがっている。ろうそくがもったいないので、もうねる。


おうこくれき1547ねん せいしょくのつき


 ゆきがふった。

 お嬢様は、しゃべらないのではなくて、しゃべるあいてをえらんでいるのだとわかった。

 きょう、お嬢様がおにわで、はちうえにむかって、さむいでしょう、といっていた。わたしがうしろにいるのにきづいて、お嬢様はすこしはずかしそうにして、それから、ミナにはいうね、といわれた。

 なにをいうのかとおもったら、きょうのおひるのスープがからかった、ということだった。おくがたさまにはいわないで、といわれたので、いわない。

 ゆきのなかで、はちうえに、わたしのショールをかけておいた。あとでおくがたさまに、ショールがよごれているとしかられた。


王国歴1548年 刈入れの月


 お嬢様は六つになって、わたしは九つになった。

 おくがたさまが、わたしにも先生をつけてくださった。字と、算術と、れきしを、お嬢様といっしょに習う。将来お嬢様をたすけられるように、と旦那様がおっしゃった。

 きょうの算術で、わたしより先にお嬢様がこたえた。六つなのに。先生がおどろいていた。お嬢様はなにもいわなかったけれど、あとで、ミナにはいうね、といわれて、たしざんはお花のかずをかぞえるのとおなじだから、といわれた。

 わたしはちがうとおもう。でも、いわないでおいた。

 夕方は洗濯を手伝った。手があかぎれになった。


王国歴1550年 芽吹きの月


 お嬢様の婚約が決まった。相手は、お嬢様と同じ八つの、レオン・アルデン殿下という第二王子様だ。

 旦那様と奥方様は、お嬢様を書斎に呼んで、長い時間、話をなさった。わたしは廊下で待っていた。廊下は寒かった。

 あとで旦那様が、わたしにも話してくださった。ヴァルテン侯爵家は代々、王家をお支えしてきた家で、この家の言うことは、どんな王様でも無視なさらない。その信頼を、次の代につなぐための縁組みなのだ、ということだった。わたしにはむずかしかった。けれど、お嬢様はうなずいていたそうだ。

 夜、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われた。

 王子さまを、すきになれるかな、と聞かれた。

 わたしは、なれるとおもいます、と言った。ほんとうは知らない。お嬢様は、なる、とおもう。なるようにする、と言われた。八つの子がいうことかな、とおもう。でも、お嬢様はそういう子だ。

 お嬢様はそのあと、すぐお休みになった。わたしは眠れないので、これを書いている。


王国歴1551年 青葉の月


 殿下がはじめて屋敷にいらした。九つになられたところだ。

 お嬢様は、朝からご自分で紅茶をブレンドしていた。庭のミントと乾かした花びらを少しだけ混ぜた、お嬢様だけのお茶で、いつもより薄く淹れた。子どもには濃いと飲めないから、と言われていた。ご自分も子どもなのに。

 殿下は、ていねいな方だった。お茶をお飲みになって、ありがとう、とちゃんと言った。お嬢様がミントの話をしたら、うなずいて聞いていらした。

 でも、なんというか、よそのことを聞いているみたいだった。うまく言えない。お行儀がよくて、やさしくて、でも、ここにいない感じがした。

 お嬢様は、お帰りのあと、ミナにはいうね、と言われて、飲んでくださった、と言われた。うれしそうだった。わたしは、殿下がお茶を半分残していたのを、言わなかった。カップを下げたのはわたしなので、知っている。


王国歴1552年 花冠の月


 王妃様のお庭で、子どもばかりのお茶会があった。お嬢様は十になった。

 お嬢様は、いつものように隅にいて、花壇を見ていた。知らない男の子がひとり来て、その花はなんですか、と聞いた。お嬢様は、名前と、咲く季節と、根が水を嫌うことまで話された。男の子は、ずいぶんまじめに聞いていた。

 殿下は、庭の反対側で、男の子たちと走っていらした。

 お嬢様が長く話すのを、わたしは久しぶりに見た。あの子はどこの家の子だったのだろう。聞きそびれた。

 帰りの馬車で、お嬢様は眠られた。わたしは焼き菓子を二つ、袋に入れて持って帰った。


王国歴1553年 白霜の月


 お嬢様が、歴史と政治の本を、ご自分で読み始めた。十一になった。先生に言われたのではなくて、ご自分で書庫から持ってこられた。

 なぜ、と聞いたら、殿下をお支えするひとになるから、と言われた。王になるかもしれない方のとなりにいるのなら、となりにいる者が知っていなければならないことがある、と。

 お嬢様は、殿下のとなりに、と言われた。前に、とは言われなかったし、後ろに、とも言われなかった。

 わたしは、えらいと思った。それから、ほんの少しだけ、なにかが気になった。なにが気になったのかは、まだうまく書けない。

 今夜は冷える。お嬢様の寝台に湯たんぽを入れた。


王国歴1555年 刈入れの月


 殿下から、学課の課題について、お嬢様に手紙が来た。北の街道の税をどうすべきか、という先生の問いに、どう答えればいいか分からない、という手紙だった。

 お嬢様は五日かけて、街道の税と、街道を使う村の数と、その村の作物の値まで調べて、答えを書いた。夜、わたしが灯りを足しに行くたびに、まだ書いていた。

 書き上がったものを、お嬢様は、殿下のお考えの下書きとして、と添えて送った。ご自分の名前は入れなかった。

 十日たって、殿下の答えが先生にほめられたと、殿下からの短い手紙で知った。助かった、と書いてあった。それだけだった。

 お嬢様は、その手紙を二度読んで、机の引き出しにしまった。ミナにはいうね、と言われて、お役に立てた、と言われた。

 わたしは、あの五日の灯りの油の量を知っている。助かった、の四文字とは釣り合わないと思う。でも、これはわたしが釣り合わせることでもない。

 油の壺を台所に返しに行ったら、料理番に、また夜更かしかと言われた。


王国歴1556年 花冠の月


 王宮の茶会で、リリア・グラーヴェ様という方を初めて見た。グラーヴェ侯爵家の令嬢だそうで、お嬢様と同じ侯爵家の娘ということになる。

 きれいな方で、よく笑い、よく話す。殿下のそばに、ごく自然にいらした。殿下のお話に声を立てて笑って、殿下も楽しそうだった。

 お嬢様は、殿下の反対側の席で、ゆっくり紅茶を飲んでいた。

 わたしは侍女の控えの席から見ていた。リリア様が、一度だけ、お嬢様の方を見た。笑ったままの顔で、目だけが笑っていなかった。

 気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。

 帰ってから、お嬢様に、リリア様はどんな方でしたか、と聞いた。お嬢様は、明るい方ね、とだけ言われた。


王国歴1557年 日盛りの月


 いやな噂を聞いた。

 別の家の侍女が、ヴァルテン家のお嬢様は裏では殿下を悪く言っている、と話していた。殿下のなさることに、あれこれ口を出しているのだと。

 お嬢様が殿下に書いているのは助言で、それは殿下に頼まれてのことだ。悪く言ったことなど一度もない。わたしはそれを、この目で見ている。

 その侍女に、誰から聞いたのか、と聞いた。ご主人の奥様が刺繍の会で聞いてきた、と言う。刺繍の会は、グラーヴェ侯爵夫人のお屋敷で開かれているものだそうだ。

 お嬢様に、殿下に直接、誤解を解いていただいたほうがよいと申し上げた。お嬢様は、しばらく考えて、噂は噂でしょう、と言われた。それから、ミナ、人を悪く言うものではないわ、とおっしゃった。

 わたしは、人を悪く言ったつもりはない。人が人を悪く言っているのを、お伝えしただけだ。でも、お嬢様がそう言うなら、引き下がるしかない。

 引き下がったけれど、いやな気持ちは、引き下がらない。刺繍の会、と書いておく。忘れないために。


王国歴1557年 実りの月


 ネリに会った。王宮の洗い場で働いている、わたしと同じ年のメイドで、市の日に顔を合わせる。

 わたしが刺繍の会の話をしたら、ネリは、洗い場でも似た話を聞いた、と言った。ヴァルテン家のお嬢様は殿下に、お小言ばかりの手紙を送っている、と。誰が言っていたのかと聞くと、リリア様付きの侍女だという。洗い場に来ては、リリア様が殿下にどれだけ大事にされているかを話し、そのついでに、うちのお嬢様の話をするそうだ。

 帰り道、ずっと考えていた。刺繍の会はグラーヴェ侯爵夫人のお屋敷で、洗い場で話しているのはグラーヴェ家の侍女だ。別のところから出た糸を、たどったら同じ家に戻った。

 証拠ではない。侍女が勝手に話しているだけかもしれない。でも、お小言の手紙、という言い方は、お嬢様が殿下に手紙を書いていることを知っている人の言い方だ。知らない人は、そこまで思いつかない。

 夜、お嬢様に、ここまで分かったことを、順を追ってお話しした。お嬢様は、最後まで聞いてから、それは証拠にはならないでしょう、と言われた。そのとおりだ。それから、ミナ、人を悪く言うものではないわ、と、またおっしゃった。

 わたしは、リリア様を悪く言いたいのではなくて、お嬢様を守りたいのだと言った。お嬢様は、ありがとう、と言われて、それきりだった。

 書いておく。刺繍の会。洗い場。リリア様付きの侍女。証拠にはならないけれど、書いておく。


王国歴1558年 実りの月


 大きな水害があった。南のレーヌ川があふれて、川ぞいの領がいくつも水に浸かったそうだ。ゼーヴァルト伯爵様は、川を見に出て流されたと、旦那様が話していた。

 殿下から、お嬢様に手紙が来た。父上に何か案を出せと言われたが、何をどうすればいいのか分からない、という手紙だった。

 お嬢様は、その夜から書き始めた。

 まず、水に浸かった村の人をどこに移すか。次に、食べ物と薪を誰がどこから運ぶか。それから、水が引いたあと、家と畑をどう直すか、その費えを誰が持つか、種を貸すか与えるか、税を何年待つか。お嬢様は、地図と、去年の収穫の記録と、街道の帳を机に広げて、一つずつ書いていった。

 七日かかった。わたしはそのあいだ、灯りを足し、お茶を淹れ、お嬢様が机で寝てしまったときには、紙の順番が分からなくならないように重ねて置いた。

 書き上がったものは、殿下のご提案の下書き、として送られた。いつもと同じだった。

 お嬢様は、書き終えた朝、窓を開けて、ミナにはいうね、と言われた。これで殿下は王様のお役に立てる、わたしはそれでいい、と。

 わたしは、はい、と言った。

 言ったけれど、わたしは、七日分の灯りと、二十枚を超える紙と、何度も写し直した費えの表を知っている。それを知っているのは、お嬢様と、殿下と、わたしだけだ。

 お嬢様は、それでいい、と言われた。わたしは、それでよくない。でも、わたしがよくなくても、なにも変わらない。

 七日ぶりに、お嬢様の髪をちゃんと洗った。


王国歴1558年 刈入れの月


 水害の対策が、殿下のお名前で進んでいるそうだ。王宮では、殿下がずいぶん見直された、と聞く。

 殿下が屋敷にいらした。お嬢様に、助かった、とおっしゃった。窓の外を見ながらだった。

 お嬢様は、お役に立てたなら、と言われて、紅茶を出された。殿下は半分飲んで、お帰りになった。

 わたしは残った半分を、あとで台所で飲んだ。お嬢様のお茶は、いつもおいしい。

 同じ日、市でネリに会った。殿下とリリア様が王宮の廊下で長く話していたと教えてくれた。話していただけだ。それ以上のことは、わたしは知らない。


王国歴1559年 芽吹きの月


 二つ目の噂が来た。

 お嬢様が王妃になれば、殿下を傀儡にするつもりだ、と言われている。政治の本ばかり読んで、殿下に指図している、と。

 噂の中身が、あまりに、お嬢様のしていることの裏返しだ。殿下のために調べたことが、殿下を操る材料に言い換えられている。事実を知らない人に、ここまでは思いつけない。事実を知っていて、ひっくり返した人がいる。

 今度はネリに頼んで、王宮で誰が最初に言い出したのかを聞いてもらった。十日かかった。下働きのあいだで話しているのは殿下付きの小姓で、小姓は、庭でリリア様が殿下に話しているのを聞いたのだと言う。セシリア様は殿下を思いどおりにするおつもりなのよ、と。

 刺繍の会。洗い場。そして庭。今度の糸も、同じところに戻った。

 お嬢様に、また申し上げた。今度は、小姓の名前まで言った。お嬢様は、また、噂でしょう、と言われた。

 わたしは、奥方様にお話ししてもよろしいですか、と聞いた。お嬢様は、初めて、強い声で、だめ、と言われた。お母様に言えば家と家の話になる、グラーヴェ家と争うことになる、それは殿下のためにならない、と。

 だから、わたしはここで止まる。お嬢様が止まれと言うなら、止まる。

 その夜、お嬢様は、眠れるお茶を淹れて、と言われた。初めてのことだった。カモミールを多めにして、蜂蜜を入れた。お嬢様は、ミナにはいうね、とは言われなかった。黙って飲んで、ありがとう、と言って、お休みになった。

 お嬢様が、ミナにはいうね、と言われない夜があるのを、わたしは初めて知った。

 もう灯りがない。ここまでにする。


王国歴1559年 聖燭の月


 殿下のお越しが、短くなった。お嬢様がお茶を用意しても、一杯を飲み終える前にお立ちになる。

 今日は、雨の中をいらして、雨の中をお帰りになった。門番のヨルクという若いのが、殿下の馬車まで傘を差していた。ずぶ濡れになっていたので、台所で温かいものを出してやった。ありがとうございます、とだけ言って、すぐ持ち場に戻った。

 どうでもいいことを書いた。書きたいことを書きたくないからだ。

 殿下は、今日、お嬢様の顔を、ほとんど見なかった。


王国歴1560年 花冠の月 20の日


 殿下の十八のお誕生日の晩餐会が、二十日後に近づいた。

 八つのときに決まった婚約を、この晩餐会で、王様と王妃様の前で、正式に披露する。お嬢様は、殿下の婚約者として、はじめて公に紹介される。

 お嬢様は、ドレスの色を何度も変えた。挨拶の言葉を、鏡の前で、わたしを相手に、何度も練習した。上手にできています、と言っても、もう一度、と言われた。

 夜、お嬢様が、ミナにはいうね、と言われた。

 十年かかって、やっとここまで来た、と言われた。

 わたしは、はい、と言った。十年、わたしも横にいた。

 殿下のことは、この一年、あまり書かなかった。書きたくないことが多かったからだ。でも、あの噂も、あの短いお越しも、晩餐会でお嬢様が正式に殿下の隣に立てば、少しは変わるかもしれない。そう思うことにする。

 思うことにする、と書いている時点で、思えていないのだけれど。


王国歴1560年 花冠の月 40の日 夜半


 書けるところまで書く。手が震えているので、字が汚い。

 わたしは、侍女の控えの列にいた。広間の壁ぎわで、お嬢様の席からは遠いけれど、声は聞こえる。

 王様のお言葉があって、殿下のお言葉があって、次にお嬢様が紹介されるはずだった。

 殿下は立ち上がって、お嬢様の名を呼んで、この婚約を破棄する、と言った。

 広間が、しんとなった。

 殿下は続けた。裏で自分を非難していること。王妃の座を得て自分を意のままにしようとしていること。親の決めた縁であって、そこに愛はないこと。それらを、殿下は、ご自分で調べたことのように、はっきりお話しになった。

 わたしは、どれも聞いたことがある。刺繍の会で、洗い場で、庭で。

 お嬢様は、立ったまま、動かなかった。

 わたしは、そのあいだずっと、お嬢様の背中を見ていた。背中は、まっすぐだった。

 王様が、大きな声を出された。殿下の名を呼んで、席に着け、とだけおっしゃった。王妃様が、立って、今夜の会はこれまで、とおっしゃった。給仕たちが動き出して、客たちが立ち上がって、それで、終わった。

 リリア様のお顔を、わたしは一度だけ見た。殿下が言い終えた、その一瞬、口元が動いた。笑ったように見えた。その次の瞬間には、顔から色が消えていた。わたしが見たのは、それだけで、その先はわたしには分からない。

 お嬢様は、旦那様と奥方様と一緒に、王様のお部屋に呼ばれた。わたしは、扉の外までしか行けなかった。

 いま、控えの間で、これを書いている。中で何が話されているのかは、分からない。

 分かっているのは、お嬢様が広間で、一度も俯かなかったことだけだ。


王国歴1560年 青葉の月 1の日


 昨夜のことを、聞いた範囲で書く。

 お嬢様ご本人から聞いたこと。王様の前で、殿下がもう一度、同じことをおっしゃった。お嬢様は、しばらく何も言えなかった。信じていた方に、信じていないと言われたのだから。それから、噂を噂だと思って放っておいた自分を恥じた、と。でも、そのあとで、こう申し上げたそうだ。私は、この婚約の解消を望みます、と。

 殿下への気持ちは、あの広間で、なくなった、とお嬢様は言われた。

 家令のバウムから他のメイドが聞き、わたしに伝わったこと。旦那様は、王様に向かって、家の面目と娘の名を公然と傷つけられて、このまま嫁がせることはできぬ、と声を荒らげられた。旦那様が王様に声を荒らげるのを、バウムは初めて見たそうだ。王様は、それを咎めなかった。

 殿下は、最後まで、噂を信じたままだった、とも聞く。これは伝聞なので、そのとおりかどうかは知らない。

 ここからは、わたしの考えだ。

 あれは、リリア様の筋書きから外れていたと思う。

 王家が決めた婚姻を、王様の知らないところで、いきなり破棄する。そんなことをする貴族はいない。根回しが、一つもなかった。わたしは二年半、噂の糸をたどってきた。刺繍の会から、洗い場から、庭から、どの糸も同じ家に戻った。あれほど周到に、順番に、場所を変えて噂を広めた方が、そこまで常識を知らなかったとは思えない。晩餐会でお嬢様が正式に披露されて、その後で、ゆっくり奪うつもりだったのではないか。

 だから、あの場の宣言は、リリア様の予定ではなくて、殿下一人の暴走だったのだと思う。

 当たっているかどうかは、分からない。あの一瞬の口元しか、わたしは見ていない。

 もし当たっているなら、殿下は、お嬢様を捨てたその同じ手で、リリア様の筋書きも壊したことになる。ざまをみろ、と思った。思ったので、書いておく。奥方様には言わない。


王国歴1560年 青葉の月 1の日 夜


 お嬢様が、泣かれた。

 わたしの部屋に来て、扉を閉めて、ミナにはいうね、と言われて、それから、声を上げて泣かれた。五つのときから、こんなふうに泣かれたのは、初めてだ。

 十年、なにをしていたの、と言われた。

 北の街道の税も、水害のときの七日も、あの人の名前で出した。それでよかった。あの人の役に立てば、それでよかった。それを、裏で悪く言っていたと言われた。操ろうとしていたと言われた。愛がないと言われた。

 愛そうとしていたのに、と言われて、また泣かれた。

 あんなにあっさり、あんなに大勢の前で、十年がひとことで終わった、と言われた。

 わたしは、なにも言わずに、背中をさすっていた。お嬢様が言い終わられるまで、言わせておいた。恨みつらみは、全部出したほうがいい。出さないと、残る。

 お嬢様が泣きやんでから、わたしは言った。

 お嬢様の十年は、無駄ではありません。無駄にしたのは、殿下です。お嬢様がなさったことは、わたしが全部見ています。灯りの油の量まで覚えています。

 お嬢様は、少し笑われた。

 それから、わたしは、もうひとつ言った。あの方のことは、もう、お嬢様の心に置いておく値打ちがありません。次に好きになる方は、お嬢様の淹れたお茶を、最後の一口まで飲み干す方にしてください。

 お嬢様は、また少し笑われて、そんな人いるかしら、と言われた。

 います、と言った。根拠はない。でも、いてもらわないと困る。

 お嬢様は、わたしの寝台で眠ってしまわれた。わたしは、床に座って、これを書いている。

 殿下の名前を、この日記に書くのは、今夜で最後にする。


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