第1話 沈黙の森
1930年代後半、フィンランド南東部、カレリア地峡。
ラウトヤルヴィの森は、この日も深い沈黙に包まれていた。
樹齢百年を超える松の巨木が立ち並び、地面は分厚い苔と、その上を覆う新雪によって二重のカーペットが敷かれている。風が吹くと、枝葉が擦れ合い、まるで森そのものが寝息を立てているような低い音が響く。
その森の中に、一つの影があった。
シモ・ヘイヘだ。
当時30代前半。身長は152センチと小柄だが、その身体は鋼のように引き締まっている。粗末なウールのジャケットを着込み、手には古びたライフルを持っていた。
彼は動かない。瞬きすら惜しむように、じっと前方の茂みを凝視している。
狙っているのは、一匹の野ウサギだった。
距離はおよそ150メートル。
ウサギは警戒心が強い。雪の上でわずかな音でも立てれば、脱兎のごとく逃げ去ってしまうだろう。だが、シモは焦らなかった。
(待つんだ。風が止むのを)
彼の呼吸は、極限まで浅く、ゆっくりとしていた。心臓の鼓動すらコントロールしているかのようだ。
シモにとって、狩猟は遊びではない。貧しい農家であるヘイヘ家にとって、肉は貴重なタンパク源であり、毛皮は重要な換金物資だ。弾薬一発たりとも無駄にはできない。
一発必中。
それが、幼い頃から父に叩き込まれた鉄則だった。
ふと、風が止んだ。
ウサギが餌を探して、ふと顔を上げた瞬間。
――ターン。
乾いた音が森に吸い込まれた。
ウサギはその場に崩れ落ちた。苦しむ暇もなかっただろう。弾丸は頭部を正確に貫いていた。
シモは銃を下ろすと、表情一つ変えずに歩み寄った。獲物を持ち上げ、その重さを確かめると、ようやく口元をわずかに緩めた。
「今夜はシチューだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
森の冷たい空気が、彼の肺を満たしていた。この時はまだ、このライフルを人間に向ける日が来ることなど、想像もしていなかった。
更新通知を受け取りたい方は、ぜひブックマークをお願いします!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!




