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白き死神の挽歌(エレジー) ——極寒のコッラ、五〇五の墓標  作者: beens
第1章 ラウトヤルヴィの狩人

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プロローグ:雪原の幽霊

 世界は、白と黒だけで構成されていた。

 空を覆う鉛色の雲と、大地を埋め尽くす分厚い雪。色彩の死に絶えたその森で、唯一の色といえば、時折雪面に散る鮮烈な赤だけだ。


 1940年1月、フィンランド東部、コッラ川流域。

 気温はマイナス35度を下回っていた。吐く息は瞬時に凍りつき、睫毛には白い氷柱が垂れ下がる。この極限の寒さの中では、露出した皮膚は数分で壊死し、銃のオイルさえも凍結して動作不良を起こす。

 だが、ソビエト連邦赤軍第56狙撃師団の兵士たちにとって、寒さなどは「二番目」の脅威に過ぎなかった。

「動くな……絶対に動くなよ」

 雪に掘ったタコツボ壕の中で、小隊長のイワン・ペトロフが、震える声で部下たちに囁いた。

 部下たちは誰も返事をしなかった。いや、できなかった。恐怖で歯の根が合わず、口を開けば悲鳴を上げてしまいそうだったからだ。彼らは皆、雪原の向こうにある、ただの「森」を凝視していた。

 何もいない。雪をかぶった木と、岩と、また雪があるだけだ。

 だが、そこに「奴」はいる。

 

 30分前、偵察に出た先頭の兵士が、何の前触れもなく倒れた。銃声は聞こえなかった。風の音にかき消されたのか、それともあまりに遠距離からの狙撃だったのか。兵士の額には、まるでコンパスで描いたような正確な穴が開き、後頭部が吹き飛んでいた。

 慌てて駆け寄ろうとした衛生兵も、次の瞬間には喉を撃ち抜かれて絶命した。

 二人とも、一撃だった。

 どこから撃ってきたのか、マズルフラッシュ(発砲炎)すら見えない。

「白い死神ベラヤ・スメルチだ……」

 誰かがうわ言のように呟いた。その言葉は、呪いのように小隊全体に伝染した。

 フィンランド軍には、悪魔がいる。

 姿を見せず、足跡も残さず、スコープの反射光さえ見せない透明な死神。そいつは数百メートル先から、俺たちの眉間を、あるいは心臓を、正確無比に撃ち抜くのだ。

 「畜生、姿を見せろ! どこだ、どこに隠れてやがる!」

 精神の限界に達した若い兵士が、半狂乱になって壕から身を乗り出した。

「やめろっ!」

 イワンが叫ぶのと、乾いた破裂音が響くのは同時だった。

 

 パンッ。

 

 鞭で空気を叩いたような、短く、無機質な音。

 身を乗り出した兵士の頭部が、熟れたザクロのように弾けた。身体が操り人形のように後方へ跳ね飛ばされ、壕の底に崩れ落ちる。雪が瞬く間に赤く染まっていく。

 静寂。

 再び、森は死んだように静まり返った。

 

 その光景を、400メートル離れた雪の中で、シモ・ヘイヘはじっと見つめていた。

 彼がいる場所は、倒木の根元に出来たわずかな窪みだった。

 身体には白いシーツで作った雪中迷彩服を纏い、顔も防寒マスクですっぽりと覆っている。露出しているのは、鋭く澄んだ二つの眼だけだ。

 彼の全身は、すでに雪の一部と化していた。雪に埋もれ、数時間、ピクリとも動いていない。

(……風、左から右へ微風。距離400。仰角修正なし)

 シモの思考は、氷のように冷徹で、機械のように正確だった。

 感情の波は一切ない。恐怖も、高揚も、殺意さえもない。あるのは「排除する」という義務感だけだ。

 彼は口の中に雪を含んでいた。吐く息が白くなり、敵に位置を悟られるのを防ぐためだ。口内の感覚はとっくに麻痺していたが、構うことはない。

 彼の手には、使い込まれた「サコ M/28-30」が握られている。

 フィンランド製のモシン・ナガン改良型。全長が長く、重い銃だが、シモにとっては身体の一部だった。スコープは付いていない。鉄製の照準器アイアンサイトだけが、彼の視線の先にある。

 スコープを使わない理由は単純だ。レンズの反射で敵に見つかるリスクを冒したくないし、極寒で曇ったレンズ越しに敵を見るよりも、自分の裸眼のほうが遥かに信頼できるからだ。

 シモはゆっくりとボルトを引き、薬莢を排出した。

 雪の上に落ちた真鍮の薬莢が、わずかに湯気を立てる。彼はすぐに新しい弾丸を装填し、再び銃を構えた。

 銃口の下の雪は、あらかじめ水で濡らして凍らせてある。発射の衝撃で雪煙が舞い上がり、自分の位置がバレるのを防ぐための、猟師の知恵だ。

 敵の小隊はパニックに陥っている。指揮官らしき男が怒鳴っているのが、スコープなしでも手に取るようにわかった。

(次は、あの指揮官だ)

 シモは右目を細め、リアサイトとフロントサイトの凹凸を重ね合わせる。その延長線上に、壕の縁からわずかに頭を出している指揮官のヘルメットを捉えた。

 152センチの小柄な身体の中に、北欧の厳しい自然が培った「忍耐」という名の怪物が潜んでいる。

 彼は森そのものだった。

 呼吸を整える。心拍数が落ちていく。世界がスローモーションになる。

 引き金にかけた人差し指に、じわりと力を込める。

 この引き金の重さも、彼が自分で調整したものだ。厚い手袋をしていても、発射の瞬間を感じ取れる絶妙な重さ。

 

 ソ連兵にとっての地獄は、シモにとっての日常だった。

 故郷のラウトヤルヴィの森で、キツネを追っていたあの日々と何も変わらない。ただ、獲物が少し大きく、そして数が多いだけだ。

 

 ――撃つ。

 

 思考と動作が完全に同調した瞬間、シモ・ヘイヘは静かに引き金を絞った。

 乾いた銃声が再びコッラの森に響き渡り、また一つ、侵略者の命が雪原に消えた。

 

 伝説の「白い死神」。

 その男の戦いは、まだ始まったばかりだった。

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