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圭太君へ                           二〇〇二年七月三日

君が僕を助けてくれようとすることが本当にうれしい。でも、僕の気持ちはどうしてもそういう方向に動かない。僕は君に対しても、親に対しても、世間や人生に対しても究極的に反抗的なんだ。僕は君みたいに素直で自分が精神的な犠牲を払うことを犠牲とも思わない人間を尊敬する一方で、君のような人を損な人間だとも見ていて、自分が世間に対する受け答えに犠牲を払って、君よりもさらに損な役回りに回されることになることを恐れている。本当に恐れている。僕はマイペースに見られるけれど、実際は他人と自分を比較する卑屈な人間なんだ。

 キヨタとの会話について書くね。キヨタは僕にとって慰みで現実逃避の道具なんだ。僕は高校に入ってからは成績も悪い。自分が慰められることばかり求めているからだ。僕の強く勤勉な、自分の専門分野に一人打ち込み続ける学者のような精神は、常に慰められ甘やかされていなくてはいられない怠け者の精神になり代わってしまったんだ。キヨタはこう言った。

「俺はな作家になりたかったんだ。だから毎日本を読んで、わからない言葉は辞書で調べた。おふくろは辞書なんか使わなくても、適当に流して読みなさいと言った。おふくろはいい加減な人間でな、俺にも同じようにいい加減になれと要求するんだ。物事は丸く考えろ。臨機応変。いろいろなものの見方をしなさい。全て俺の明確で透徹な思考を駄目にし、意志を弱くし、物事をはっきりと区分し、正しい判断をする能力を奪っていったんだ。だっておふくろの言うことは、人生に負けた人間が負けの事実を、負けた原因を頭の中で曖昧にするために、言い訳をするために、そうして楽になるために使う言葉だ。そんな言葉は負けてから意識すればいい。いろいろなものの見方?それを聞いた時俺はおふくろの言う通り、様々なものの見方をするべきなのか、それとも一つしかない真理をつくべきなのか悩んだよ。でも、様々なものの見方って、嫌な事実を歪曲して良い風に都合よく考えて楽になるためによく使われるものの言い方じゃないか?大体、学校が生徒に教えたことが出来ているかどうか試すためのペーパーテストの答えは一つしかないじゃないか。物事は丸く考えた方がいいだと。はっきりした意志を持たない右に行っても左に行っても満足できる、どっちに行っても構わないなんていう、ぐるぐる回っても満足な人間になれって?はっきりした意思を持つなってことか。俺を自分の意に沿うような方向へ流そうとするおふくろに俺は初め、抵抗した。でもおふくろは異常な執拗さを持って俺を洗脳した。その手口は捉えどころがなくて、そこまでの周到さをもっと他の事に使えばこの女は一角の人間になれてたんじゃないかと思ったよ。俺の親父はただの工場の守衛だが、おふくろは美人で頭もいいし、実際中学校まではそこそこの才女だったらしいが、高校に入った途端にぐれて、文学少女崩れの落ちこぼれになったらしい。おふくろは自分が行けなかった高いところに俺が行きそうなのが腹立たしかったんだ。寂しさからか嫉妬からかわからないがな。俺は次第に頭の中身が侵食されていくのを止められなかった。俺はおふくろがいなければ、作家とまではいかなくても、もう少し優秀な人間になれてた気がするんだ。」

そこでホームレスは一息ついた。叶わなかったその頃の未来が宙に浮いているのが見えていて、それを摑みとるかのように手を虚空に伸ばした。でもそれは飛んできた小さな害虫を掴んだだけだった。キヨタの垢まみれの赤茶色い汚い顔と身体は、廃墟の薄汚い壁の背景に何の違和感もなく溶け込んでいた。この男の人生はその場所で落ち着いている。ホームレスになってやっと落ち着きを得たのか、もともと流れの中に落としこまれていた人生がスムーズに今の場所へキヨタを運んだのか。俺は前者だと思う。キヨタは続けた。

「親が子供に対して、子供自身が望んだ自己実現をはからせるよりも、もっと安全に生きることを強制しようとする心理には心配とか愛情とかいうよりも、もっと自己中心的で冷たくて、子供じゃなくて親にとっての現実主義的で実際的な理由がある。」

「人の親がそれを聞いたら親たちは『親には子供に対して責任がある』というでしょうね。」

「十八の歳を過ぎてからの子供のすることなんてほっぱっときゃいいんだ。過ぎてなくても自分が施す教育のつけは全部子供が一生をかけて責任を取る羽目になることくらいは意識するべきだろうよ。子供の事を思うなら、自分の支配欲を律するくらいのことはすればいい。子供はいつまでも子供じゃないんだ。束縛してどうする。」

「そろそろお暇します。」

そこで、キヨタは僕を呼び止めた。

「おい。」

僕は腰を浮かせたままキヨタの顔を見た。

「人生を生きようとせず、試そうとする奴は人生に裏切られるぞ。もうここへは来んな。お前の通り道を邪魔しようとする奴を押しのけて前へ進め。真理を意識しようとするな。意識するほどそれは遠ざかる。ただ前へ進め。自由を主張しようとするのではなく、自由になれ。でも、自分のルーツから遠くへ行こうとすればするほど、今までお前が積み上げてきたお前自身の深い処まで掘削することになるという矛盾に陥る場合もあるからな。そうなると、自分に囚われる。不自由な『お前』の中にな。だから気を付けろ。まあ、お前らしくいればいいってことさ。」

僕はキヨタの言っていることが分かるような分からないようなだった。

 キヨタはそこまでしゃべると、梅雨が明けてよく晴れた、洗われたような空を見上げて、くしゅんと咳をして鼻をすすった。夏の季節だがほの暖かい気候の下で、その様子はのどかで牧歌的で、気ままそうに見えた。僕はその様子を上目遣いに見ながらすっかり立ち上がって、後ろを向いてその場を後にした。キヨタは僕に来るなと言った。僕がキヨタを慰み者にしているのが分かったのかもしれない。あるいはただ時間を浪費しに来ている僕の為を思って言ってくれたのかもしれない。今の僕は極めて刹那的だ。僕がキヨタのところに今後来るかどうか自分で決めてしまっても、僕自身が自分の決めたことを守れないだろう。意志薄弱で心はころころ向きを変える。今の僕はまったくもって、「予定は未定」なのだ。

 君は文理選択はどうしたかい?僕は文系の教科が好きだし、数学の成績が格別悪いのだけれど、僕の中には理系の学問こそ崇高で真実を見つめるもので、かつ現実的で実際的なものだという考えがあって、それも心から思っているわけじゃなくて、何かの見栄のように頭で作りだした考えなのに、その考えこそ、心じゃなくて頭で考えた冷静な正しい考え方だという思いに固執しているんだ。でも、僕の数学の苦手加減は並大抵じゃないから、僕は来年文系を選ぶだろうね。君の近況もまた聞きたい。それでは。

                                  仁以千絵より


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