圭太君へ 一九九九年六月一五日
学校生活は清新な刺激があるよ。いい意味でも悪い意味でもね。今までより突然周りの子が強い自我を持ち始めて、その自我の飼いならしの為にそれを振り回している。僕は振り回されているものに出来るだけ近づきたくないんだが、どうしても誰かがそれを持ってやってきて、僕の頭にそれがぶつけられるのを避けることができない。僕はそういう時打たれるままだ。成長の過程はつくづく残酷だと思う。人を傷つけて、利用して、大きくなっていく子が大勢いる。一方で利用されて、傷痕を残されて、委縮して小さくなったままその先の人生を生きるはめになる子もいる。僕も毎日利用されている気がする。他人が成長するために自分は存在しているのではないかと思うときがしばしばある。だから僕も誰かを利用すれば算盤はあうわけだが、僕は自分を利用した相手以外の人間を利用したくない。僕のことを気にかけてくれる少数の優しい人たちを利用して、ある意味での吐け口にするのはなんだか相手が気の毒で申し訳ない気がして出来ない。だから、結局、基本的には僕は人を利用することをしない。例え、喜んで吐け口になってくれる人がいても。自ら人を心配し、相手の心を尊重しながら気に掛け、自ら相手の心の受け皿に立候補するような人―そんな人たちはどうしてこんなに優しくて大人なのだろうと思う。こんな人にこそ人生の栄光が与えられればと思うが、総じてお人好しで、特別な才能もなく、欲もなさそうに見える。だからこそ優しくて思いやりをもっているのかも知れないね。いや、逆か?優しくて思いやり深いからこそ、人より何事かで抜きんでていようという欲にまみれないのかも。でも、僕が仮に結構いい成績を取っていなくて、成長した時の目標や大きな展望をもっていなかったとしても、僕は彼らのようにはなれないだろうな。自分を自ら犠牲に差し出せるほど、清らかな心を僕はもっていないね。僕は根性の悪い人間なんだ。大人しい優等生の僕の表面と内面は全く違ったもので出来ていて、しかもほとんど混じり合っていない。そういう人間の心の状態が僕には不気味なくらい当てはまる。
一方で同級生ひとりひとりが精神的に幾らかでも自立しだして、小学校の暖色に包まれた子供じみた空気が、クールに涼しげになったのは居心地が良かった。僕はこれでも人一倍自立を好む人間なのさ。そのせいでかえって卑屈な結果を生むこともあるけれど。でも、基本的に他人には自分を助ける義務はないし、他人が自分の話を聞いてくれるのが当然な当たり前のことではないとしておくのは間違っていないことだと思うけれどな。だから、「話聞いてんの?!」
とか
「人の話聞けよ!」
とか
「なんで言う事聞かないんだよ。」
なんてことを言う奴は身勝手で甘ったれで扱いづらいと思う。特に女の子は手に負えない。始終きゃぴきゃぴしゃべっているのも何だかいやらしくて、うるさくて、鬱陶しい。彼らの中にはカースト制があって、グループの中でどれだけ主導権を握れるか、誰が一番かわいいか、付き合っている男の子はいるか、そして極め付きはどれだけ大人に逆らった不良かということがヒエラルキーの配置場所の基準になっている。彼女たちの、自分がどれだけ他の子よりも女であるかを競うためのべたべたした劣悪な色気が鼻につく。これが大人の女になるための過程なのか?しかも女の子には「自尊心」が欠けている。いや、「自分」が欠けているのかもしれない。人から何かしてもらってもそれを恩と思わないし、優しい人はこれからも自分に優しくしてくれて当然だと思っている。君の周りにもそういう人がいるらしいね。女の子ではないかも知れないけれど。でも、女の子というのはそういう分別のない子がわんさといる。中学入りたての頃はみんな割といい子だったんだ。どこでみんなそんな思慮のないべたべたした皮膚感覚だけを頼りにするような人間になるんだろう?大人になろうと背伸びして?それはどんな基準の大人だ?
しかし中学の勉強はそう悪くないものだ。程よく難しくて、程よく易しい。だから程よく張り合いがある。でも、僕は人の話をあらたまった態度で長い時間聞くのが苦手らしい。だから、授業は必要最低限の事しか、もしくは授業の内容がテストで重要になる教科しか聞いていない。しかし僕の頭の中には、勉強は「義務」というふうにとらえているところがある。「義務」として頭にインプットしたから、ほんの少しでも勉強に「楽しさ」を感じても、「義務」を純粋な「楽しみ」として感じられない。僕はこの事をとても残念に思う。成績は問題ない。ほとんどの教科は教科書を開けば理解できるしね。ホームレスのところには相変わらず遊びに行っている。彼は自分をキヨタって名乗った。僕は将来学者になりたいと彼に言った。そんなに立派な理由のある「将来の夢」じゃないんだ。つまり、僕は「自分の世界」らしきものをもって、それを誇りたい。でも、博打を打つように賭けられるほどの芸術的な才能はない。しかし、論理を積み重ねて対象を外から観察することは僕にもできそうだ。加えて、学者、もしくは大学の講師というのは名声や権威があり、そして一般的な基準で測ったときに頭が良ければ、特殊な才能がなくても、画家なんかになるよりはそこへ至る道は幾らか舗装されていそうな職業に見えるということもある。それに大人しくて優等生タイプの僕のイメージはその夢を否定しない。何よりも僕は「名声」と「自分の考えを遠慮なく主張できる立場」に憧れている。
つまりはそういうことだ。
キヨタは、
「歴史というものの大方の筋は『勝ちたい』『偉くなりたい』『恥かきたくない』の3つで説明できる。人間なんてみんなお前と同じようにせせこましいさ。お前はお前のせせこましい欲を貫いていけばいいさ。親がそこにきれいで美しい理由を求めても、それがないという理由で他の職、もっと身近で現実的な職に就くことを要求しても、自分の欲を貫けよ。みんなそうしてるんだから。」
と言った。僕も動機の不純さなんてどうでもいいと思う。動機がどうあろうが、現実に実現してしまえば関係ないのだから。誰かが言った。
「人生とは欲望を満たすためのレース」だと。
どこで、何から(もしくは誰から)聞いた言葉か忘れてしまったけれど、そんな言葉があった。僕は成長していく間に何かに影響されて、影響されたくないものにも影響されて、僕の欲望が形を変えることを望まない。欲望を、それが満たされた時最も満足感と楽しみを得られる、そのままの形で持ち続けて、それを果たすことができた者こそこの世の勝者だと思う。
仁以千絵より




