圭太君へ 一九九八年八月二三日
君の話よくわかるよ。僕にも多少の実感はあるんだ。でも、その実感を確信に変える証拠が足りないような気がしている。僕の人生の経験と君の証言だけじゃ、ひとりひとりの人間に人生の筋があるという非科学的なことを証明しきれていないというような…。
それともう一つ。僕は夜のゴールデンタイムのテレビ番組の中で十三人の人間を殺した殺人者が非情な刑罰を受ける話を見たんだ。木の棒に縛り付けられたまま熱したコンクリートの上に裸足で立たされたり、灼熱の太陽の下で裸の身体に塩を塗られたり。一週間そういう地獄のような辛い責め苦にあわされた挙句、最後に電気椅子であの世に送られるという筋立てだった。それを見た僕は、もし自分が死刑にあうような事になったらどうしようと考えて戦慄したんだ。熱いし痛い。いや想像を絶する。別に僕は人を殺しちゃいない。でも、これからも殺さないとは限らない、大変な犯罪を犯さないとも限らない。そして死刑の目にあわされないという保証がどこにもないことに気付いたんだ。僕の進んでいく道にどういうことがあってどういう対応を僕がして、僕がどういう風に変わって、どういう責任を取らされるのか、今現在自分の人生の一点を過ごしているだけの僕にはわからないという事に気が付いたんだ。僕はこのことに気づいてから三日くらいは気分が沈んでふさぎ込んでしまった。母にも元気がないと言われた。道を歩いている時は下を向いてうつむきっ放しで、鏡を見ると青い顔が映るという具合だった。ふさぎ込んで考え出した結論は「死刑にあわないためにも自分の言動を枠で囲って、言動が枠を超えて自由に動くことを自分に禁じなくてはならない」というものになった。僕は特に人に何かを求めることを禁じることにするよ。人に対する気持ちもブレーキをかけるよ。大丈夫。何かの度に逐一雄叫びをあげようとする自分の心の感情を、自分の中だけで処理することは僕には容易い。感情や気持ちは理屈で解釈を付けてしまえば、あとは熱を失っていくから。大丈夫。大丈夫。
それにしても、犯罪や人殺しそのものより、その報いとして死刑になることを恐れてこんなことを考えるまでに至るなんて、僕は自分勝手で低劣なサイコパスだね。
仁以千絵より




