圭太君へ 一九九五年一月二〇日
たしかにせいせきはクラスで一番だよ。学年では一番とはいかないだろうけれど。ただ、体育が苦手だ。授業の時は人一倍がんばっているつもりなんだけれど、運動しんけいはもって生まれたものらしく、あまりうまくいかない。バスケットだとか、サッカーだとか、チーム内で意思そつうをはかりながら、自分からしゃしゃりでなきゃいけないものは、全くできない。ボールを持っている人の周りでうろうろしているけれど、みんな僕なんかはむししているし、僕もたよってくれと周りに言えるほど役に立つわけじゃないからせっきょくてきにはなれないしね。そうじゃなくても僕には「自分がここにいる」ってことを伝えることが昔から上手く出来ないんだ。みんな僕がここにいるって知ってても、いしきのおくに届かないらしくてないがしろにするんだ。まあ、それは前にも言った他人に言い返すことをしないで、自分の内に気持ちをとどめておく「自分を出さない」僕のせいしつのせいでもあるけれどね。でも、そうやって自分で守った自分の世界がいつかはなひらいて活かされる日が来ることをゆめ見て、僕はしめつけられて苦しめられているプライドをたもっているんだ。前に友達のこうすけについて話したけれど、その時他の友達についても説明するって言ったよね。もう学年も上がって、その時の友達たちともクラスが別になったから、じつはもう彼らとはあまり付き合いがないのだけれど、説明するって僕から言ったから書くね。もう一人のわりとしたしい友達は女の子で、「ゆり子」っていうんだ。女の子なのに、どういうわけだか、ときどきいっしょにいたんだ。こいつは無口な僕にいつも言いたい放だいでね、僕の事を「弱いやつ」だっていつもばかにしていたんだ。まあ、僕はたしかに弱いやつかもしれないけれどね。じっさい人とのかんけいで強い立場に立ったことなんてないもの。よく、がまんができて、自分を保っていられる、どうとくてきに正しい、人にやさしい人間が「本当に強い人間だ」っていう感じが示されるけれど、一体どうだか。道徳なんて人間の心のあさいところ、外の世界とふれていて、つまり外から一番よく見えるところが、社会や周囲にかいならされて出来たものだと思うね。でも、その道徳はやわらかくてあいまいだ。だからこそこわれにくくて、いりょくがあって、僕から見ると腹の立つものなんだよね。でも、おとなしくてまじめで人の言うことをよく聞く僕は、はたからみると「道徳的」な人間の一人かも知れない。話をもとにもどそう。ゆり子は意地の悪い子なんだ。でも、何だかとげとげした女っぽさがあってかわいくもあるんだ。女の子は「お砂糖とスパイスでできている」ってマンガのセリフにあったんだけれど、ゆり子はまさしくそれだ。めだかのように細い両目にはかすかにあいきょうがうかんでいて、ひにくっぽい口はいじわるそうにほほえんでいる。血色のいいほおは赤く、はだの色が白くて、きゃしゃな体つきをしている。なつは白いはだがたいようにやけてけんこうそうなこむぎ色になっていて、生き生きとしたいんしょうをあたえてすてきだった。せいかくの悪さと見た目のよさはたいしょうてきなようでいて、きみょうにマッチしていた。かのじょのえんりょのないしたたかなふるまいには、自分の見た目がかなりいいというじしんというか、じかくもあっただろうしね。大人し目な同じ学年の女の子たちをよく好き好んでかきあつめて、いっしょにビーズを糸に通すアクセサリーなんかをきょうしつの中で作って、周りの子たちにああしろこうしろとさしずしてた。頭の回転も早くって、その時のじょうきょうにぴったりなそこいじの悪いセリフを投げつけるように言うんだ。僕は言動が物事にぴったりとはまっていること(ずれた考え方やごまかした言い方、質問の答えになっていない返答なんかじゃないこと、つまり物事の真ん中をつかずに、横をかすめているような言い方じゃないこと)を好ましく思う人間だから、ちょっぴり気持ちよく思うんだ。でも、彼女といっしょにいたいとは思っていなかった。僕ががまんづよいからって、せっきょくてきに人をきずつける人といっしょにいて、気分よくはないからね。でも、僕は人のきょぜつの仕方がよく分からないし、彼女のせいしつと僕のせいしつは引きつけ合うようにはまってしまうからなぜか自然にそばにいることになるんだ。
話はかわるけれど、ずーっと前、文通をはじめて間もないころに、人が僕の言うことをふまえたうえで物を言ってくれないのがふゆかいだと言ったよね。年月がたつと、自分のかつての、もしくはかつてから今にかかってのしんりについてどうさつが深くなってくるようで、(いしきして考えてはいないのにね。ずーっといしきの水面下でりかいがすすんで、ある日とつぜん浮かび上がってくるんだ。)僕は、相手のそういうたいどだけでなく、自分の生真面目すぎるたいどがばかを見ているみたいで、そんな自分にたいじするのもいやだったことがわかったんだ。つまり、相手があらぬ方からよきせぬ言い訳を考え出したり、ひたすら同じセリフで同じしゅちょうをくりかえして、がをはっているのに対して、自分が真正面から相手の言葉をうけとり、相手のしゅちょうをうけて、いくらかは相手のペースの中に入ってはんろんしようとするのが、わかりやすくて、つけこまれやすくて、自分はいつもりくつも通されず、ただたたきつぶされているのに対して、人がよすぎるようでまぬけをみているようでいやだったんだ。僕はりふじんな事はきらいだけれど、もう一方で自分がうけたりふじんさを人に当てつけたいと感じてもいる。自分がうけたりふじんさをかいしょうしていなくても人にはせいじつにすじを通してせっするかくごは僕にはないんだ。でも、それをかくごしてかならず通さなければいけないしゅちょうは今のところまだない。僕は他人と自分に意見の違いがあった時、それが自分にとってどうしてもはたさなければ自分の一生がかわる問題か、いなか、つねにぎんみしているんだ。君はきっとそんなこんがらがったしっとみたいな、ばか(馬鹿)なかんじょうはもたないのだろうね。僕のこのばあいは、他人とのしゅちょうのはり合いだから、他人から僕へのかんしょうでもあるからちょっとちがうかもしれないけれど、人が自分にきがいをくわえるわけじゃない人間をきらったり、にくんだり、わけもなくはらを立てたりするのは、こんぽんてきには「しっと」のかんじょうだと思うよ。このばあいにしたって、僕が「いや」だと思うたいしょうは、たにんから僕へのかんしょうそのものではなくって、ぼくと他人が言い合いになった時の、僕に対する相手の、もしくは相手に対する僕の言い方のちがいだから、やっぱりげんいんは「しっと」だろうね。
僕は、他人がしないことを自分がしようとしたり、したくなると、いつもふしぎに思って立ち止まってしまうんだ。こうすれば人の心は安全でいられるのに僕と同じことをどうして人はしないんだろうって?でも、人が周りの人と同じように行動するのもふしぎなんだ。なんでこんなにスムーズにみんな同じように動いて、ならんで、歩いて、しまいには同じしこう(嗜好)を持ち出すのだろう、と?彼ら一人一人はいちいち不自然に周りを見わたしているようにも見えないし、それらのぎもんはかいしょうできない。でもかいしょうしないままぎもんがうやむやにながれていってしまうのもなんだかなっとくできない。だから、僕は人と違うこともしないし、人と同じこともしないんだ。つまり、何もしないんだ。ひたすら生活の型どおりに動いていっているんだ。文通の相手にこんなにも自分の心をしょうさいにかたることについて、君はどう思う?いやだったら言ってくれ。もしいやなら、僕はもっと現実的でじっさいてきなこと(つまり心の中ではなくて現実の世界で身の回りにおこった事、自分がじっさいにした事)を書くことにするよ。
仁以千絵より




