名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
山城の吸血女 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
母が、赤子の血を吸った――名のある受領から中宮・彰子のもとへ届いた、恐ろしい訴え。継子を打ち据えた妻は、今度は生まれたばかりの我が子の首に噛みついたという。赤子の首には傷、妻の口元には血。そして妻は、何も語ろうとしない。吸血鬼か、それとも人の仕業か。東国の武具、父の愛を求める病弱な少年、沈黙を続ける母。絡み合った謎を解きほぐした彰子が辿り着いたのは、怪異よりも哀しく、恐ろしい「家族の真実」だった――。
世の中には、どれほど聡明な者でも、最初に耳にした時には思わず眉をひそめるしかない話というものがあります。
人が空から消えたとか、死人が歩いたとか、狐が文を書いたとか、そうした類です。そして、今から記す一件もまた、その種の話として、最初はわたくしの耳に入ってきました。
――母が、自分の子の生き血を啜った。
もしそれを、市井の女房か、酒に酔った下級役人が噂話として口にしたなら、わたくしはまず信じなかったでしょう。まして、それが都でも名のある家の内で起きたことだというなら、なおさらです。
でも、その報せは、軽薄な噂としてではなく、ひどく切迫した手紙となって、中宮彰子さまのもとへ届けられました。
結論から申し上げるなら、この事件に鬼女も妖もいませんでした。いたのは、愛するがゆえに沈黙した母と、愛がゆがんで憎しみへ変じたひとりの子、そして、そのどちらをも救いたいと願う、哀れな父だけでした。
その年の霜月は、ひどく冷えました。御簾の外では、庭木の葉もあらかた散り、風が吹くたびに、枯れ枝同士がかすかに擦れる音がしました。
わたくしが中宮彰子さまのお側へ伺ったのは、昼を少し過ぎたころです。彰子さまは、机の上の文をひろげ、何やらひどくおかしそうな、しかし半ば呆れたようなお顔をしておられました。
「衛門」
と、お呼びになる。
「これを読んでごらんなさい」
差し出されたのは、都でも名のある祈祷僧からの長々とした書状でした。中身はこうです。
『恐れながら申し上げます。生きたまま人の血を啜る鬼女のごとき怪異につき、当方の祈祷ではいかようにも鎮めがたく、手を引くほかに存じませぬ。されど中宮様におかれましては、たびたび人智を超えたごとき件も明察にて収められておられますゆえ、思い余った家主に、密かに御前を頼るよう唆してしまいました。ご無礼の段、平に伏してお詫び申し上げます――』
わたくしは二度見しました。
「……生き血を啜る鬼女、にございますか」
「そのように書いてありますね」
彰子さまは、唇の端だけで笑われた。
「現実と妄想の混ぜものとしては、なかなかのものです。衛門、あなたは人の生き血を啜る鬼を信じますか」
「唐土の怪奇の書や、古い地獄の絵解きなどには、夜叉や羅刹が人の血を啜るという話を聞いたことはございますが……」
「この都で、しかも名のある家でそのようなことが起こるなど、さすがに」
「ええ。わたくしもです」
そう言いつつ、もう一通の文を手に取られる。
こちらは、相談を寄せた家主本人からのもので、先の文とは違い、紙の端まで乱れが見えます。手が震えて書いたのでしょう。
「こちらの方が本題です」
と彰子さま。
「ただし、筋だけを先に申せば、こうなります。
ある男が再婚した。相手は、陸奥の深い山々で古くから狩猟をして暮らす一族の娘。男には前妻とのあいだに、少し身体の不自由な息子が一人いる。さらに、再婚した今の妻とのあいだに、生まれてまだ間もない男児がいる」
「はい」
「その再婚した今の妻が、まず継子となる前妻の子を激しく打ち据えた。次に、赤子の首に噛みつき、血を啜っているところを見られた」
わたくしは思わず黙り込みました。
「言い訳はなく、夫とも顔を合わせぬ。しかも、乳母の言によれば、赤子を常に狙っているように見える、と」
そうして文を閉じられます。
「衛門。さて、これは怪異でしょうか、人の業でしょうか」
「……後者であってほしゅうございます」
「わたくしも」
彰子さまはそう言われましたが、その目はすでに、得体の知れぬ怪異を相手取る時のものではありませんでした。むしろ、複雑に絡んだ人の心をほどく時の、あの冷静で鋭い光が宿っていたのです。
約した刻限ちょうどに、その男は参りました。名を藤原頼時といいます。
年は四十に近く、都でも名の知れた受領をしている家のあるじでした。実際、わたくしも顔を知っていました。昔、親類筋の賀宴で見かけたことがあり、朗らかで気のよい男として記憶していたのです。
ところが、その日現れた頼時殿は、別人のように老け込んでいました。長身ではあるが肩は落ち、髪にも白いものが目立っています。何より、二、三日ほとんど眠っておらぬ者の、乾ききった目をしていました。
「中宮さま……」
彼は深く額づきました。
「このような恐ろしい話を、どなたへ持ち込めばよいかも分からず……。祈祷も通じず、もし御前におすがりしても無理とあらば、もはや私は、どうしてよいか」
「まず座りなさい」
彰子さまは静かに言われました。
「怪異の話として聞くつもりはありません。起きたことを、見たまま、順に話しなさい」
頼時殿は、しばし逡巡しました。妻の奇行を他人へ語るのは、男として大きな苦痛であったでしょう。まして、その内容がこのようなものであればなおさらです。
でも彼は、拳を膝の上で強く握ると、決心したように話し始めました。
「私の妻――名を伊佐と申します」
「もとは陸奥の奥深く、獣を狩って暮らす古き一族の娘にございます。私は陸奥守として東国へ赴任した折、その里と親しくなり、娘を見初めました」
「都の女ではなかったのですね」
「ええ。気立ては優しく、情が深く、しかしどこか、都の女房たちには見ぬ激しさもございました。私はそれに惹かれたのです」
ここで頼時殿の顔に、一瞬だけ昔を思う柔らかさが浮かびました。けれどすぐに、それも苦い影に覆われます。
「私には前妻とのあいだに一人息子がおります。名は成高。今年十五になります。幼い頃、足腰を傷め、歩くにも少し不自由がございます」
「今の奥方とは、うまくいっておられたのですか」
と、わたくし。
「……それが、表向きは穏やかでしたが、心から馴染んでいたとは申せませぬ。成高は繊細で、母の思い出を強く抱いております。妻も、成高へ意地悪をしたことまではありませんでしたが、どう接してよいか分からぬ様子でした」
「そして赤子が生まれた」
「はい。一年足らず前に、男児が生まれました。名はまだ正式には定めておりませぬが、家では皆『若君』と呼んでおります」
その時、彼の声に父親らしい愛しさが滲みました。しかしそれもまた、すぐ恐怖と困惑に飲み込まれます。
「最初に妙なことがあったのは、ひと月ほど前です。妻が、成高を手ひどく打ったのです」
「理由は」
「申さぬのです。成高も、『わからない』としか言わぬ。ただ、腕へみみず腫れができるほどの打ち据えようで……」
「その一度だけですか」
「いいえ。二度ございます。一度は竹の小枝で、もう一度は平手で」
「継子を憎んでいる、と奥方はおっしゃったのですか?」
「そう申したことはあります。ですが、だからといって、あれほどの仕打ちをする女では……」
頼時どのはそこで言葉を詰まらせました。
「そして、赤子の件ですね」
と彰子さまが促されます。
「はい」
頼時殿は、唇を引き結びました。
「乳母が、少しの間だけ若君を寝所に残し、別の用で離れた折のこと。戻ると、妻が赤子に覆いかぶさっており……その、首すじに口をつけていたと」
その場の空気がひやりと冷えた気がしました。
「乳母は恐怖のあまり叫び、若君を抱き上げようとしました。すると、首には小さな傷があり、血が流れていた。妻は泣いて乳母を引き止め、どうか主人には告げないでくれと、口止めに絹布まで握らせたのです」
「言い訳は」
「何ひとつ」
「その乳母は、なぜその時すぐ言わなかったのでしょう」
「迷ったのです。乳母は長く我が家に仕えており、妻の人柄も知っている。そんなことをするはずがないという思いもあったのでしょう」
「しかし、次があった」
「ええ。乳母はその後、若君を片時も離さぬようにした。すると、妻が常にその子を見ているのです。じっと、まるで何かの折を待つように」
「そして」
「ついに私も、この目で見ました」
頼時殿の声は、そこで震えました。
「乳母から打ち明けられたその場では、馬鹿げた妄想だと笑い飛ばしかけていたのです。ところが、話している最中に、若君の泣く声が上がった。二人で駆け込むと――」
彼は両手で顔を覆いました。
「――妻が、赤子の寝台の脇から立ち上がるところでした。子の首には血。寝具にも血。そして、妻の口もとには……血が」
しばし沈黙が落ちました。
「以来、妻は自室へ閉じこもり、私とも会おうとしません。しかし、あの光景を見た以上、若君を近づけることもできぬ。いったい私は、何を信じればよいのですか、中宮さま」
頼時殿の話が終わると、彰子さまはしばらく考え込まれました。わたくしは、その沈黙がただの思案ではなく、事実をひとつひとつ並べ替える作業であることを知っています。感情に引きずられず、まず何が起き、何が起きていないのかを分けるのです。
「いくつか伺います」
やがてそう仰せになりました。
「奥方は、今のところ赤子に近づけぬようになっているのですね」
「はい。乳母が昼夜ついております」
「結構。では当座の危険は抑えられている。次に、その奥方付きの女房はおりますか」
「一人。陸奥から連れてきた古い女で、名を登代と申します。主従というより、もはや親しい身内のようなものです」
「その者は、奥方の気質をあなたよりよく知っている」
「そうかもしれませぬ」
「成高どのは、ご実母を深く慕っておいでですか」
「はい。今でも折に触れて亡き母のことを語ります」
「そしてあなたにも強く懐いている」
「それは……ええ。幼い頃から病みがちで、外で遊ぶことも少なかったゆえ、私といることが多うございました」
「なるほど」
彰子さまは、ここで初めてわずかに目を細められました。
「衛門、聞きましたか」
「はい」
「話は怪奇に満ちて見えますが、問いを立て直せば、意外に整理できます」
頼時殿が困惑した顔をします。
「どういうことでしょう」
「まず、“血を啜る”という言葉を捨てることです」
きっぱりとした口調でした。
「人が血を啜る、というだけで恐ろしい鬼女の仕業に思えます。ですが、もし血を飲んだのではなく、別の目的で口をつけたのだとすれば?」
頼時どのは、はっとしたようでした。
「別の目的……?」
「ええ。たとえば、傷口から何かを吸い出すため、とか」
「毒、でございますか」
と、わたくし。彰子さまは答えず、かわりに頼時殿へ訊ねました。
「屋敷には、東国の武具や薬、珍しい狩りの品が多いのではありませんか」
「ございます。妻の故郷から持ち込んだものも多い」
「なるほど」
それから、少し身を乗り出されます。
「頼時殿。その屋敷へ、今すぐ伺います」
「今から、でございますか」
「ええ。見ねばならぬものが多い。貴方のお話が真実なら、これは机の上だけでは解けません」
頼時殿は、半ば救われたような、半ばまだ不安な面持ちで深々と頭を下げました。
その日のうちに、わたくしたちは頼時殿の屋敷へ向かいました。都から南へ少し下った山城の里に、その館はありました。古くからの地主の家を譲り受けたものらしく、母屋は年季の入った寝殿造りですが、左右に増築された対屋は太い丸太を用いており、どこか東国めいた野趣を感じさせます。
壁には見事な熊や鹿の毛皮が掛けられ、陸奥の狩人が使うという仕掛け弓や、獣を射るための手矢などが飾られていました。
「これは……都の屋敷とはずいぶん趣が違いますね」
と、わたくし。
「妻が持ち込んだものです」と頼時殿は答えました。
「いずれも一族の狩りの品でして」
彰子さまは、入るなり壁の品々へ目を向けられました。とりわけ、獣を仕留めるための短い手矢の束に、ほんのわずかに視線が止まりました。それは一瞬で、他の者は気づかぬほどでしたが、長くお傍で見てきたわたくしには分かりました。何かに引っかかったのです。
大広間の隅には、寝そべった犬がいました。中型の猟犬です。毛艶はよいのですが、後ろ脚をひきずっており、立とうとしてもうまく力が入らぬようでした。
「その犬は」
と彰子さま。
「名を黒丸と申します。四月ほど前から、急に後ろ脚が利かなくなりました。獣医も首をひねっております」
「急に?」
「ええ。一晩で」
「……そうですか」
またしても、その「そうですか」です。何か一つ、心の中で駒がはまった音がした気がしました。
茶が運ばれてくるのを待つあいだ、頼時殿は不安げに歩き回っていました。その時、渡殿の向こうからひとりの少年が現れました。
十五にしては小柄で、青白く、どこか花のように繊細な顔をしています。美しいが、弱々しい。歩き方にはたしかにぎこちなさがあり、片足を少し引きずっていました。
「父上」
とその少年は呼びました。
「お帰りになっていたのですね」
その声には、父を見つけた喜びが濃くにじんでいました。頼時どのもまた、思わず頬をゆるめます。
「成高。こちらへ」
少年は近寄ると、ほとんど父へ縋るように袖に触れました。父子というより、もっと執着の強い親愛です。
「この方々は、中宮様と赤染衛門様。少し家のことで話をしに来てくださったのだ」
成高はわたくしたちを見ました。礼儀正しく頭を下げましたが、その眼差しにはどこか、警戒にも似た鋭さがありました。少なくとも、ただの病弱な優しい少年という印象だけでは済まぬものがあります。
「お身体はいかがですか」
と、わたくしが声をかけると、少年は静かに笑いました。
「慣れております。小さい頃からですから」
彰子さまは、そのやりとりの間じゅう、一言も発せられませんでした。ただ、成高どのの表情の動きと、頼時どのが赤子の話をした時にこの少年が見せた、一瞬の顔色の変化を見ておられました。
やがて乳母が、赤子を抱いて入ってきました。なんとも愛らしい子です。小さな首筋には、たしかにうっすらと二つばかり赤い点がありました。
頼時どのは子を抱き上げ、思わず頬を寄せます。その時でした。
何気なく成高どのへ目をやったわたくしは、ぎょっとしました。少年の顔に、ほんの刹那、すさまじい憎悪が走ったのです。それはすぐに消えました。けれど確かに見ました。あの美しい顔が、赤子へ向けて、凍るような嫌悪に歪んだのを。
その瞬間、向かいにいた彰子さまと、わたくしの目が合いました。おそらく、同じものを見たのです。
つづいて、わたくしは頼時殿に乞われ、奥方の容態を診に行くことになりました。付き添ったのは、奥方付きの女、登代です。日に焼けた肌を持つ大柄な女で、都の言葉は話せますが、言葉の端に強い東国の訛りがありました。
「奥さま、熱がある。ずっと泣く。食べない。旦那さまに会わない」
そう言いながら、彼女は奥の一室へわたくしを案内しました。引き戸を開けると、中には陸奥の深山を思わせる強い薬草の匂いがこもっていました。寝所に横たわる奥方――伊佐どのは、たしかにひどく憔悴していました。
青白いというより、火照った頬に熱が浮き、目だけが大きく光っています。都の女のような薄い儚さではなく、もっと濃く、生命力の強い顔立ちです。だからこそ、今その美しさが痛々しく乱れているのが際立ちました。
「医者ではなく、わたくしです」
と声をかけると、彼女は一瞬、怯えたような目をしました。だがわたくしが女であると知ると、少しだけ肩の力を抜きました。
「夫は……?」
「大広間におります」
「会わない」
それだけきっぱり言いました。脈を取り、熱を見ました。たしかに高い。だが、病の熱というより、心労と興奮から来るもののようでした。
「何か伝えることはございますか」
と、わたくし。すると彼女は、しばらく天井を見つめたまま、ぽつりと呟きました。
「子を返してほしい」
「若君をですか」
「そう。あの子は私の子。なのに、私は近づくことさえ許されない」
「けれど、頼時殿が見た光景は――」
その途端、彼女の目に涙が浮かびました。
「私は、あの人を愛している」
その言葉だけは強く、はっきりしていました。
「愛しているのに、あんな目で見られた。信じてもらえない。何を言っても、私が言えば、もっと傷つける」
「何を、ですか」
「……今は言えない」
そう言って、顔を背けてしまいます。その横顔に、罪を隠す狡さより、愛する者を苦しめまいとする絶望が見えました。
わたくしが下へ戻ると、彰子さまはすでに、乳母や登代、さらには家司にまで、さりげなく話を聞き終えておられました。
「衛門、いかがでした」
「病より心労にございます。それから、頼時殿を深く愛してはおられます」
「ええ」
彰子さまはうなずかれました。
「その点は初めから文にも出ています。問題は、なぜそのような女が、継子・成高殿を打ち、実子・若君へ“あのように見えること”をしたか」
「何か、掴まれましたか」
「ほぼ」
「ほぼ?」
すると彰子さまは、火桶のそばへ寄り、軽く扇を閉じられました。
「衛門。この件、やはり怪異ではありません」
「では」
「毒です」
頼時殿が、ぎょっとして立ち上がります。
「毒……誰が、誰に」
「それを今、確かめます」
そう言って、いきなり成高殿の方へ向き直られました。
「あなた、お顔を知らぬ生母を大切に思っておいででしたね」
少年ははっとしました。
「……はい」
「そして父君も」
「もちろんです」
「では、陸奥から来た奥方と、赤子の存在が、つらかった」
成高どのの顔色が変わりました。頼時どのが、低く「成高」と呼びます。
「何を仰るのですか、中宮様。この子は優しい子です。そんな」
「優しいだけでは済まぬこともあります」
彰子さまの声は、少しも高くありませんでした。むしろ静かで、逃げ道を塞ぐようでした。
「幼い頃から父ひとりを頼みにし、母の思い出を胸に生きてきた。そこへ陸奥の女が来た。さらに、その女が健やかな男児を産んだ。あなたには、自分が取って代わられるように見えたのではありませんか」
「ち、違う……」
「違わないでしょう。赤子を父君が抱いた時の、あの目をわたくしは見ました」
成高どのは後ずさりました。その細い指が、袖をくしゃりと掴みます。
「さらに、壁にある陸奥の武器。附子を塗った小さな手矢の束。犬の急な麻痺。そして赤子の首の、ごく小さな傷」
頼時殿の顔が、みるみる蒼白になります。
「まさか……」
「ええ。赤子を傷つけたのは奥方ではありません。あなたのご子息です」
頼時どのは、信じられぬものを見るように息子を見ました。
「成高……?」
少年は震えていました。だがなお、何かを言い返そうとして唇を開きます。
「わ、私は」
「最初は猟犬で試したのでしょう」
彰子さまは容赦なく続けられました。
「古い毒がまだ効くかどうか。だから黒丸は、一夜にして足が利かなくなった。次に、赤子へ向けた。ごく細い矢なら、乳母も父も見落とすと思った」
「違う! 私は……私はただ……」
「ただ、いなくなればいいと思った。父を奪う者が」
成高どのの頬を、涙が一筋こぼれました。その沈黙が、なによりの証でした。頼時殿はその場に崩れ落ちました。顔から血の気が失せています。
「では……妻は」
「奥方は、それを知っていたのでしょう」
と彰子さま。
「ある時、赤子が毒の塗られた手矢で傷つけられた。彼女は狩猟の民です、毒の恐ろしさを知っている。咄嗟に傷口へ口をつけて毒を吸い出した。だから、父君が飛び込んだ時、赤子の首に血があり、母の口にも血があった」
「……!」
「彼女は赤子の血を啜ったのではありません。赤子を助けたのです」
その言葉に、頼時どのは両手で顔を覆いました。
「では、なぜそれを……なぜすぐ言わなかった」
その時、御簾の向こうから、嗚咽が聞こえました。伊佐どのでした。どうやら、登代に支えられ、廊の陰まで来ていたらしい。彼女はふらつく足で部屋へ現れると、頼時どのを見ました。
「言えば、あなたはもっと苦しむ」
掠れた声でした。
「あなたは成高を愛している。成高も、あなたを愛している。だから……だから、私が言えば、あなたの心が壊れると思った」
「伊佐……」
「私は二度、あの子を打った。あれは私の罪。でも、あの子がまた矢を持っているのを見た時、私は止めたかった。言葉では止まらなかった。だから打った」
成高どのが、びくりと肩を震わせました。
「私は、成高を憎んでいたのではない。怖かった。そして哀しかった。あの子もまた、苦しんでいたから」
それを聞くと、成高どのはその場に崩れました。膝をつき、両手で顔を覆い、子供のように泣き始めます。
「父上……父上……」
絞り出すような声でした。
「父上が、あの子ばかり……。私は、いらないと思った。母上もいないのに、あの人が来て……若君が来て……私は……」
頼時殿は、しばらく立ち上がれませんでした。やがてようやく息子のもとへ歩み寄ると、その肩へ震える手を置きました。
「成高……」
それだけで、あとは言葉になりませんでした。わたくしは、その時の光景を今も忘れられません。
父は泣き崩れる息子を見下ろし、妻はその父を見つめ、赤子は乳母の腕の中で無邪気に眠っていました。
同じ家の中にありながら、それぞれが違う地獄を見ていたのです。頼時どのは、やがて絞るように言いました。
「なぜだ、成高。お前を疎んじたことなど、一度もない」
「……わかっております」
「ではなぜ」
「わかっていても、苦しかった」
成高は涙に濡れた顔を上げました。
「父上があの子を抱くたび、私は、自分が消えていくようでした。私にはできないことが、あの子にはこれから何でもできる。走ることも、きっと、父上のあとを継ぐことも」
その言葉に、誰もすぐ返せませんでした。嫉妬とは、醜い感情です。だかときにそれは、本人にもどうしようもなく、愛する相手へ向けた執着の裏から生まれてきます。
彰子さまは、静かに言われました。
「あなたは赤子を憎んだのではない。父君を失うことを恐れたのです」
成高は、嗚咽のあいだから、ほんのわずかにうなずきました。
「そして奥方は、そのことに気づいていた」
伊佐どのは、涙をぬぐいもせず立っていました。
「私は、あなたを嫌いになれなかった」
と、彼女は成高へ言いました。
「あなたの目が、痛いほどわかったから。だから、夫へ言えなかった。あの人にとって、あなたは大切だから」
その言葉は、責めではなく、哀しみでした。自分が疑われ、怪物のように扱われてもなお、この女は継子の破滅を望まなかったのです。
わたくしは、その時初めて、本当の意味でこの奥方の強さを見た気がしました。
しばらくの混乱ののち、彰子さまは全員を見渡して言われました。
「この件を、公の沙汰にしてはなりません」
頼時殿が顔を上げます。
「成高どのは、罪を犯しかけた。しかしまだ幼く、病と孤独とゆがんだ愛に押し潰されていた。ここで検非違使へ渡せば、この子は壊れます」
「……はい」
「かといって、このまま同じ屋敷で、何事もなかったように暮らすこともできません」
彰子さまは少し考え、それからはっきりと言われました。
「成高は、しばらく都を離れなさい」
「離れる……」
「寺でもよい、親類のもとでもよい。ただし、父君と母の亡き面影だけに閉じこもる暮らしから、いったん引き剥がさねばなりません。身体を使い、別の景色を見て、別の者に囲まれなさい」
「中宮様」
頼時どのの声が揺れます。
「一年」と彰子さま。「いえ、二年でも三年でも。そのあいだ、父君は赤子だけでなく、成高どのにも同じだけ文を送りなさい。愛はあると、言葉で繰り返さねば伝わらぬ時があります」
頼時殿は、深く頭を下げました。
「承ります」
「そして奥方」
伊佐どのも姿勢を正します。
「あなたはもう、黙ってはなりません。愛する者を傷つけまいとして真実を伏せたのでしょうが、その沈黙が、かえって皆を地獄へ落としかけた」
「……はい」
「あなたは強い。けれど、ひとりで背負う癖があります。次からは、夫に半分担がせなさい」
それを聞いて、頼時殿は、泣き笑いのような顔になりました。この数日のうちで初めて、人らしい表情が戻ったように見えました。
その夜、わたくしたちは御所へ向けて帰途につきました。外は深い霧で、牛車の車輪が軋む音が湿った空気に響いていました。
わたくしは、しばらく黙ったまま揺られていました。頭の中に、あまりに多くの顔が残っていたからです。頼時どのの絶望、伊佐どのの沈黙、成高どのの憎しみ、赤子の無垢な寝顔。
「姫様」
と、ようやく口を開きました。
「姫様は、いつからお分かりでしたか」
「御所を出る前から、おおよその筋は見えていました」
少し笑われます。
「“血を啜る”という言葉を、そのまま信じる必要はない。そして、継子には打つ、実子には噛みつく。その行動の違いには、必ず意味があります」
「毒を吸い出したと」
「可能性の一つとして。決め手は、陸奥の狩猟具と、犬の麻痺、それに成高の顔でした」
「顔」
「ええ。赤子を見る目が、あまりにあからさまでしたから」
わたくしは思わずため息をつきました。
「人の心は恐ろしいものにございますね」
「ええ。ですが、恐ろしいからこそ、怪異にしてしまうのです」
「怪異に」
「“鬼女の仕業だ”と言えば、自分の子が弟を殺しかけた、という現実を見ずに済む。人は、受け入れがたい真実ほど、妖の名で呼びたがるものです」
その言葉が、ひどく胸に残りました。
後に聞いたところによれば、成高どのはその冬のうちに、南山の寺へ預けられたといいます。修行僧になるためではありません。ただ、父の館を離れ、別の空気の中で日々を過ごすためでした。
頼時殿は約束どおり、こまめに文を送り、月に一度は自ら会いにも行ったそうです。また伊佐どのも、猟の知識を活かして二度と同じようなことが起きぬよう、館の武具をすべて厳重に封じたと聞きます。
赤子は無事に育ちました。犬の黒丸も完全とはいかぬまでも、少しずつ脚が利くようになったらしい。
では成高の心は、本当に癒えたのか。それは、わたくしには分かりません。人の心は、一つ解けたからといって、それですべてが元に戻るものではないからです。
でも少なくとも、あの夜、父と母と子が、それぞれ別の怪物を見ていた状態からは抜け出しました。それだけでも、大きな一歩であったでしょう。
この事件を最初に「吸血する鬼女」と呼んだ者を、わたくしは責める気になれません。母の口に血がつき、赤子の首に傷があり、しかもその女が沈黙を守るとなれば、誰だって恐ろしい想像へ逃げ込みたくなるものです。だが実際には、そこにいたのは怪物ではなく、傷ついた人間たちでした。
子を守るため血を吸い出した母。父を失う怖れから弟を憎んだ子。どちらも愛の形がゆがんだ結果です。
その意味で、この一件にはたしかに“血を啜る鬼”がいたのかもしれません。ただし、それは牙ある怪異が血を飲んだのではない。嫉妬と孤独が、人の心から少しずつ血を啜っていたのです。
中宮彰子さまは、怪異を退けたというより、その名の陰に隠れていた人の痛みを暴かれました。それこそが、彰子さまの真骨頂です。
見えぬものを妖しと決めるのは易しい。だが、見たくない現実を見抜くことの方が、よほど勇気が要ります。
この一件の後、わたくしは何か理解しがたい怪奇の噂を聞くたび、まずこう考えることにしています。
――それは本当に怪異か。
それとも、人の愛がねじれて見せる、もっとありふれた闇なのか、と。
〜出典〜
The adventure of the sussex vampire(サセックスの吸血鬼)
作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保 ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/55882_50046.html
〜舞台背景〜
「サセックスの吸血鬼」は、イギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち48番目に発表された作品です。
原作は1924年に発表された短編で、「妻が赤子の血を吸っている」という怪異めいた事件から始まります。しかしホームズは、吸血鬼という超常現象を信じず、不可解な状況の一つ一つを観察して、そこに隠された人間の事情を解き明かしていきます。
ちなみに、ちょっと面白い余談がありました。「サセックスの吸血鬼」の作者ドイルと、「ドラキュラ」の作者ブラム・ストーカーは、実際に知り合いでした。1897年にストーカーが「ドラキュラ」を発表すると、ドイルはこれを読み、ストーカーへ賞賛の手紙を送っています。つまり、世界的な吸血鬼「ドラキュラ」を生み出したストーカーと、その作品を絶賛したホームズの作者ドイルが、後にそれぞれ「吸血鬼」を題材にした作品を残しています。
今回はその繋がりにも少し思いを馳せながら、原作の「怪異に見えた事件の正体は、人間の愛情だった」という魅力を、彰子の宮廷推理として再構成してみました。是非お楽しみ頂けたら幸いです。




