7/8 断章その3「明子、22歳」
いくらかでも精神的に落ち着いたのは、よい上司の人に巡り会ったせいもあった。
ドラッグストアの店長ニシヤマさんは、サンジを初めて、大人が行くような酒場に連れていった。
本当は未成年だからいけないのだが、社会に出てしまえば同じ扱いでいいということだろう。
ニシヤマさんはあまり説教じみた口調ではなく、普通に飲み友だちに対するような感じで話をしてくれた。
「おれたちの仕事ってのは、もちろん利益を追求するためにやってるんだけど」
サンジはナポリタンとかそういうものを食べながら聞いている。
「でもまあ、いくらかは人のためになる、そういう要素があるもんだ」
「そういうもんですか」
「じゃなきゃ、人様は金を払ってくれないよ……那賀川くん、仕事は楽しいかい?」
サンジはすぐには答えられなかった。
「那賀川くんは正直だな、友だちと遊んでるみたいにはいかないが、仕事ってのは楽しいもんだよ」
「そうなれれば、いいと思うんですけど」
「そう思えなかったら自分が可哀想じゃないか、無理にそう思い込むこともないけどな」
そういう考え方は、サンジにとって、初めて接するものだった。
サンジの両親はどちらかというと仕事というものを忌み嫌うような言い方しかしなかったのだ。
自分の中にわだかまっていたものがほんの少し取れたような気がした。
なによりも、ニシヤマさんが自分を大人扱いしてくれるやり方が嬉しかったのだと思う。
サンジは二年間、彼の下で働いた。
(いまさら、親父のせいにしても仕方ないが)
いま、だいぶ父親の年齢に近づいたサンジは思う。
(なにか教わるにしても、反発するにしても、父親という生き方のモデルがなかったってのはある)
それが不幸なことだったかどうかは、わからない。
何もかもを自分の判断で手探りのようにして生きていくのは、あとから思えば楽しいことでもあった。
(ニシヤマさんは、おれが初めて出会った、親父がこうだったらと思えるような人だった)
(おれは、いくらかは幸運だったんだ)
残念なことに、あまり彼の恩義に応えることができたとはいえなかった。
そのころ、サンジは初めて女性を愛することになった。
店で一緒に働いていたミツエという人で、彼女はすでに結婚していた。
まだ二十代だったが、年上の人妻ということになる。
誘われて食事をしたり、遊びに行っている間にそういう関係になった。
彼女は、夫は一回り年上なのだと言った。
彼女がやっと性生活を楽しいと思いはじめたころ、ほとんどそれを行わなくなったということだ。
だから若い男を求めた……そう説明するなら品もなにもない、味気のない話だ。
「それだけじゃないの、あなたが好きなのよ」
彼女はいつも、自分に言い聞かせるようにそう言っていた。
「あなたは、自分で思っているよりずっと素直で、いいひとだから……」
まだ不倫という言葉も流行っていない、携帯電話がやっと普及し始めた時代だった。
待ち合わせていて彼女が家を出られなくなり、連絡もできないということが普通にあった。
よくあんなことをしていたものだと思う。
何度目かの待ちぼうけがあった日、サンジはさすがに自分がいやになった。
(ばかばかしい、もうやめだ)
降りだした雨の中を歩きながら、おもに自分を罵る。
そう考えるのはもう数え切れないほどあったことで、そう思いながら元の関係に戻るのを繰り返していた。
若い人間が初めて知った身体の温もりから離れることは、難しい。
小一時間も歩いて、キャナルという酒場の前まで来た。
ニシヤマさんに連れられて最初に入った店だ。
自分が通えるような店ではないと思ったが、何度かひとりで行っていた。
「明子さん」
まだ二十二歳だといっていて、自分よりひとつだけ年上なはずのホステスだ。
色気を売り物にしていない、さばさばした物言いに好感をもっていた。
扉をあけて顔を出した明子は、もういいかげん濡れていたサンジのなりを見て眉をしかめた。
「なんで傘をささないの?」
「めんどくさくてさ……ちょっと休ませてくんないかな」
「帰ってお風呂に入りなさいよ、今日はそのほうがいいよ」
店は団体が入っているようだったが、扉のすき間からはカウンターが空いているのが見えた。
「お金は持ってるよ」
「そういうことじゃなくて……今日は大切な集まりだから」
その言葉が胸を刺して、サンジは背中を向けて歩きはじめた。
「待ちなさい」
明子が追ってきた。手には深緑色の傘を持っている。
「大切な集まりに野良犬みたいなの、入れられないんだろ」
「子どもみたいなこと言わないで、ほら傘をもっていきなよ」
「おふくろみたいな口、きくな」
普段だったらそんなことはできないと思うのだが、怒りで凄い力が出たのだろう。
明子が手渡した傘をサンジはふたつに折るようにして、くの字型にしてしまった。
それを道端に投げ出して、また歩きはじめたサンジの背中に明子の声がした。
「この程度じゃ見捨てないからね、また来なよ、絶対だよ」
なんでそんなことを言うんだろう?
わからないままに涙が流れて、雨とともに落ちた。
(明子さんとこんな長いつき合いになるとは思わなかったな)
いまでも年に二・三回は、彼女が自分で出した店に行く。
「普通だったら相手にしないんだけど、ほんとに捨て犬みたいな顔してたんだもん、ほっとけなかったよ」
(若いころからあの性格だもんな、世の中には偉い女の人がいるもんだ……)
「夢の更新」の明子さんの初登場シーンです
「鳩熊」の最初にサンジが「話したことはあるよ」と言っていますが「よく知ってる」とは言えないのが彼の性格ですねw




