第44話「行ってきます」
――一年後。
ナースステーション。
昼の光が差し込んで、いつも通りの忙しさの中。
そこだけ、少しだけ空気が違っていた。
⸻
「……で、辞めるの?」
ミネルがカルテを抱えたまま言う。
「……うん」
ラーナは短く答える。
「そっかぁ」
少し間延びした声。
「まさか医師になりたかったなんてねぇ」
驚いているのに、どこか穏やか。
「でもなんか……」
「やっぱり、そっち行く人だったんだね」
一瞬考えて、ゆるく笑う。
「……また、戻ってくるってことだよね」
サヤが言う。
ミネルが、軽く頷く。
「うん」
一拍。
「たぶんラーナって、途中でやめないでしょ」
ラーナは一瞬だけ視線を向けて――
「……うん」
わずかに、柔らかくなる。
「戻ってくる」
それは、初めて少しだけ“感情”が乗った言い方だった。
「待ってるから」
サヤが言う。
ミネルも、ふわっと笑う。
「うん、待ってる」
「今度は先生として、だね」
軽く言って、少しだけ目を細める。
ほんの少しだけ、空気が軽くなる。
⸻
そのとき。
「……ラーナ」
低い声が落ちる。
振り返る。
ヘンリーが立っていた。
一瞬で、空気が引き締まる。
「……先生」
ラーナは一歩だけ前に出る。
「最後か」
「はい」
短いやり取り。
それだけで、十分だった。
少しの沈黙。
ラーナは姿勢を正す。
「ヘンリー先生」
「ありがとうございました」
綺麗な礼だった。
――その、次の瞬間。
ヘンリーの白衣の胸元を掴む。
ぐっと引き寄せて。
そのまま、背伸びをする。
そして。
頬に、軽く触れる。
「……え?」
サヤの声が、完全に遅れる。
「……お?」
ミネルも固まる。
ラーナはすぐに離れる。
何事もなかったみたいに。
「……挨拶です」
淡々と。
「挨拶のキスですから」
サヤの思考が追いつかない。
(挨拶……?)
(え、挨拶……?)
(え??)
「サヤも」
ラーナがちらりと視線を向ける。
「この人、取られないようにね」
「ちょ、ラーナ!?」
思わず声が出る。
「……え、今のそういうやつなんだ」
ミネルがぽつりと言う。
「でも」
少しだけ首を傾げる。
「ちゃんと区切りつけに来たんだね」
「……ラーナらしい」
2人の様子を見て。
ラーナが、少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
今までほとんど見せなかった表情。
「ラーナが笑った……」
ミネルがぽつりと呟く。
(情報量が多い)
サヤは完全に処理落ちしていた。
ヘンリーは、珍しく固まっていた。
数秒遅れて、ようやく動く。
「……逃げるなよ」
それだけ。
「はい」
ラーナは、迷いなく頷く。
⸻
振り返らない。
そのまま、病棟を出ていく。
足取りは、変わらない。
もう、迷いはないから。
⸻
残された空気だけが、少し遅れて動き出す。
「……え、ちょっと待って」
サヤがようやく声を出す。
「今の、何?」
「……挨拶、らしいよ?」
ミネルが少しニヤッとして答える。
「……いやいやいや」
ヘンリーは何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ。
視線を落とす。
そして、いつも通りに戻る。
「……仕事に戻れ」
その声で、時間が動き出す。
でも。
さっきの一瞬だけは、確かに残っていた。
⸻
その夜。
ヘンリーの家。
案の定、不貞腐れ気味のサヤがいた。
「……怒ってるか?」
「……怒ってません」
間髪入れずに返る。
でも視線は逸れたまま。
「だって……まさかラーナがあんなことするなんて」
「誰も想像つかないじゃないですか……」
思わず顔を覆う。
「それに……」
一瞬、言葉が止まる。
「……あの人、ちゃんと終わらせていったのに」
「……気にしちゃってる自分が嫌です」
ヘンリーは少しだけ目を細める。
「……厄介だな」
「笑うところじゃないです!」
「……悪い」
ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。
「……その“厄介”ってなんなんですか」
「……意味知りたいのか?」
ゆっくりと距離が詰まる。
「……っ」
逃げる前に。
耳元で、低く囁かれる。
「――」
「〜〜っ!」
一気に顔が熱くなる。
「……それ、厄介じゃなくて……」
「そのまま言ってくださいよ……!」
耳を押さえながら抗議する。
「言っていいのか?」
「……やっぱりだめです」
即答だった。
ヘンリーは小さく息を吐く。
そのまま、サヤの頭に手を置いた。
「……じゃあ、そのままでいい」
サヤは、ほんの少しだけ力を抜いた。
(……終わったんだ)
ラーナのことも。
そして。
(……私は、ここにいる)
その事実だけが、静かに残った。
ヘンリーの手が、少しだけ髪を撫でる。
「……離れるなよ」
小さく、落ちる。
「……はい」
今度は、迷わず返せた。
部屋はまた、ゆっくりとした夜に戻っていった。




