第43話「ここじゃない」
――夜の病棟。
昼間の喧騒が嘘みたいに、静まり返っていた。
機械音と、遠くの足音だけが残る。
ラーナは一人、廊下を歩いている。
⸻
(……さっきの)
救急の光景が、頭に残っている。
止まりかけた一瞬。
戻した声。
迷いのない動き。
(……あの二人)
ヘンリーとサヤ。
あの“間”を埋めるやり取り。
(……私には、できない)
そう思った。
悔しさじゃない。
もっと、はっきりしたもの。
(違う)
足を止める。
(……私は、あそこじゃない)
⸻
ナースステーションの灯りが遠くに見える。
戻れば、いつも通りの仕事がある。
任されることも増えている。
困ることは、何もない。
(……でも)
その先を、想像する。
(このまま続けて――その先は?)
答えは、すぐに出た。
(違う)
⸻
視線を上げる。
昼間の処置が、よぎる。
見えているものの違い。
(……見えない)
自分には、まだ。
(だったら)
言葉が、自然と落ちる。
(見える側に行く)
そのとき。
「ラーナ」
後ろから声が落ちる。
振り返る。
ヘンリーが立っていた。
「……先生」
「辞めるつもりか」
唐突な一言。
「……」
一瞬、言葉が止まる。
「図星か」
淡々とした声。
「……まだ、何も」
「決めてる顔だ」
逃がさない言い方。
ラーナは少しだけ目を伏せる。
(……この人は)
誤魔化せない。
「……ここじゃない、と思っただけです」
静かに言う。
「何が違う」
「……見えてるものが」
一拍。
「違うと思いました」
ヘンリーは、少しだけ目を細める。
「医者か」
即答だった。
「……っ」
ラーナの呼吸が、一瞬だけ揺れる。
「……なんで」
「分かる」
短い。
それだけで、十分だった。
少しの沈黙。
「……なりたいとは、言ってません」
ラーナは小さく言う。
「言ってないだけだ」
間髪入れずに返る。
「……」
否定できない。
ヘンリーはそのまま続ける。
「理由は聞かない」
一拍。
「なるなら、推薦は出す」
静かに落ちる。
ラーナは、ほんの一瞬だけ目を見開く。
「……いりません」
反射みたいに出た言葉。
「そうか」
ヘンリーはあっさり引く。
追わない。
それが逆に、揺れる。
(……この人は)
強要しない。
でも。
(……分かってる)
ラーナはゆっくり息を吐く。
「……でも」
一歩だけ、言葉を足す。
「……使わせてください」
小さく。
でも、はっきりと。
「……ただ」
一拍。
「すぐには辞めません」
ヘンリーは何も言わない。
ラーナは続ける。
「……まだ足りないので」
短い言い方。
でも、それで十分だった。
「……どれくらいだ」
「一年」
即答。
「それだけあれば、動けます」
ヘンリーはわずかに頷く。
「……無駄にするなよ」
「しません」
それだけ。
余計なことは言わない。
ラーナは目を閉じる。
(……決めた)
もう、迷いはなかった。
⸻
廊下に、静けさが戻る。
ラーナは顔を上げる。
(……あと一年で終わり)
寂しさは、ない。
ただ。
(……悪くなかった)
少しだけ、思う。
そのまま、歩き出す。
止まらない。
振り返らない。
もう決めているから。
夜の病棟の奥へ。
ラーナの背中は、そのまま消えていった。




