第45話「隣にいた意味」
――三年目。
病棟は、相変わらず忙しかった。
ナースコールの音。
足音。
短い指示。
何も変わっていないはずなのに。
(……少し、違う)
誰も口にはしない。
でも、確かにあった。
⸻
「患者、血圧下がってきてる!」
声が飛ぶ。
「点滴、落ちてるかも!」
確認に向かう動きが、一瞬だけ重なる。
その一瞬。
(……遅い)
誰かの中で、そう思う。
(ラーナなら、もう動いてる)
「ライン、確認します」
サヤがすぐに前に出る。
迷いはない。
ルートの状態を見て、すぐに判断する。
「これ、閉塞気味です。入れ替えます」
「医師呼ぶか?」
「呼びます。でもその前に、圧上げます」
短く、正確に。
手は止まらない。
(……早い)
先輩看護師が一瞬だけ目を向ける。
動きに無駄がない。
判断も迷っていない。
「ルート確保できました!」
「血圧、戻ってきてます!」
数分後。
空気が少しだけ緩む。
⸻
「今の、よかったよ」
先輩が声をかける。
「え?」
サヤは一瞬だけ止まる。
「判断早かったし、無駄な動きなかった」
「助かった」
横にいた医師も、短く言う。
「……あ、ありがとうございます」
少しだけ戸惑う。
(……今の)
自分では、当たり前のことをしただけのつもりだった。
(……違う)
ふと、思い出す。
あの人の横で見てきたもの。
あの速さ。
あの判断。
(……見てたから)
できただけ。
それでも。
(……でも)
胸の奥に、小さく何かが残る。
それは、少しだけあたたかかった。
⸻
夕方。
忙しさが少しだけ落ち着く。
サヤは一人、ナースステーションで記録をしていた。
ペンを走らせながら。
(……褒められた)
思い返す。
さっきの言葉。
(……ちょっと、嬉しいかも)
自然と、口元が少しだけ緩む。
でも。
(……どうせ)
頭に浮かぶのは、あの人の顔。
(……まだ甘い、とか言うんだろうな)
すぐに現実に引き戻される。
⸻
――夜。
ヘンリーの家。
静かな部屋。
いつも通りの距離。
いつも通りの空気。
サヤは、少しだけそわそわしていた。
「……どうした」
ヘンリーが先に気づく。
「え?」
「落ち着かない」
短い指摘。
「……あの」
一瞬迷う。
でも。
「……今日、ちょっと褒められたんです」
サヤは今日あったできごとを少しだけ話す。
「そうか」
それだけ。
(……やっぱり)
分かっていた反応。
少しだけ肩の力が抜ける。
「判断が早いって」
「……それで?」
「それだけです」
一拍。
「……どうせ、まだ甘いって言いますよね」
少しだけ拗ねたような声。
ヘンリーは、少しだけ間を置いた。
サヤを見る。
その視線は、いつもより少しだけ長い。
「……いや」
「今日のは、いい判断だ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「指示を待たなかったのもいい」
「状況の見方も間違ってない」
一つずつ、言葉が落ちる。
「……ちゃんと、見えてる」
胸が、少しだけ詰まる。
「……ほんとですか」
思わず、確認するみたいに言う。
「嘘は言わない」
短く、即答。
「……っ」
顔が少しだけ熱くなる。
視線を逸らす。
「……調子に乗るなよ」
「乗ってません!」
「顔に出てる」
「出てません!」
少しだけ間。
ヘンリーの口元が、わずかに緩む。
「……まぁ」
一拍。
「悪くない」
「……っ」
言葉にならない。
でも。
さっきより、ずっと嬉しい。
(……隣にいた意味)
ふと、思う。
あの人の横で。
ずっと見てきたもの。
(……ちゃんと、残ってる)
それが、今の自分を作っている。
サヤは、少しだけ力を抜く。
ソファに、そっと寄りかかる。
距離が、ほんの少し近くなる。
ヘンリーは何も言わない。
ただ。
一瞬だけ視線を落としてから、手を伸ばす。
サヤの髪に、触れる。
「……っ」
不意打ちに、息が止まる。
指先が、ゆっくりと撫でる。
乱れていたわけでもない髪を、整えるみたいに。
「……浮かれるな」
低く、近い声。
「浮かれてません……」
小さく言い返す。
でも。
声は少しだけ弱い。
「……嘘だな」
そのまま、もう一度だけ撫でられる。
さっきより、少しだけゆっくり。
「……っ」
言葉が出てこない。
代わりに、少しだけ体を預ける。
ヘンリーは、それを拒まない。
むしろ。
ほんのわずかに、距離を詰める。
「……よくやった」
ぽつりと落ちる。
さっきよりも、少しだけ柔らかい声。
「……はい」
今度は、ちゃんと返せた。
そのまま。
しばらく、何も言わない時間が続く。
でも。
沈黙は重くなかった。
触れているところだけが、少しだけあたたかい。
それで、十分だった。
⸻
外は、もう完全に夜だった。
でも。
サヤの中には、さっきの言葉と。
今の温度が、静かに残っていた。




